報告|ツインレイのランナー&チェイサーの心理『相手の当たり前を愛すること』『愛は戦争である』

| Ⓒ なとり

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ツインレイステージまとめ

私のステージが進むごとに更新していくステージをひとつの記事にして販売しています。


さよなら、ツインレイ Kindle版
さよなら、ツインレイ

当時はこれでおしまいなんだ・・・。そんな風に思いながら書いた『さよならツインレイ』。結果的にさよならしたのは、神交法の相手であるツインレイの霊体だった件。今更振り返って読んでみると納得がいく一冊だが、当時はよくわかっていなかった。

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自己統合される⇒理解する⇒浄化する⇒真実が視えてくる——みたいなカタチのステップを踏んでいる。

とはいえども、これは自己統合ってよりも、ツインレイの結合なんだろうな。相手の気持ちを理解していくって感じ。

何度も繰り返してきたことではあるんだけど、今回はやっぱり離別時の真相。

 

たとえば、悪口を言われ続けた。その人をのことをあなたは好きになりますか?

答えはNoだと思う。ほとんどの人が悪口を言ってくる人のことを好きにはならない。

この人と仲良くできますか? 答えはNoだよね。出来ない。仲良くしたいとすら思わない。

でも、自分が悪口を言っていて対象者に「嫌われていない」と思う人がいる。

 

私たちは私たちのなかに「当たり前」を飼っている。その当たり前が一般常識的なとき、私たちは他者との共存をすることができる。

これを『自明性』と呼ぶ。

この自明性だが、私たちのなかで「普通は」と呼ばれているもの。「普通はこうでしょ?」と言われるのが嫌いと言う人がいる。いわゆる、普通を嫌悪する精神。

それは、私たちのなかにある自明性の欠如である。または「普通は——」と掲げる側に自明性の欠如があるのかもしれないし。それはわからないんだけれども。

だけれど、私たちはその『普通』を自分のなかに持ち、普段の生活をする。私たちは、その当たり前が指針になる。

その当たり前をひとつひとつ幼少期に学ぶ。だからさ、子供の頃から殺人を教えられた子にとって大人になって「人を殺してはいけません」と教えられても理解ができない。オオカミに育てられた子が大人になって「人としての生活をしましょう」と人の生活になじませようとしても、適応できずに死んでしまう。

いわゆるこれが私たちが持つ幼少期の『適応』である。そして、それが自分自身のなかにある当たり前である。

おはようって言ったら、おはようって返事が来る。でも、おはようって言葉にする文化のない家庭環境の人もいる。だから、おはようって返事がない。あなたはどうする。返事がないことを問い詰めるんだろうか。

 

私はツインレイの彼との間に明らかなる自明性の違いを理解していた。当たり前の概念が違う、そもそも全く違う。

だから信じるしかなかった。彼をただ盲目的に彼は間違えたことを言っていない、間違えたことをしているわけではない——と、彼が持つ自明性を受け入れていた。彼のなかにある当たり前を受け入れた。

それが私が彼を『信じ切る』ことでもあり『愛しきった』ことでもある。

常に混乱をする時間だった。わからない、どうしてそうなのかが理解できない。ただ悪気が合ってやっているわけじゃない、ただ「すれ違う」。ただひたすら、彼と私の間に乗り越えられない、理解し合えない壁があった。

それは「当たり前」っていう文化。相手のことが一挙一動理解ができない、頭のなかで理解が出来ないから、ただ信念を通すしかなかった。

信じると決めたから信じる。自分を信じる以外に彼を信じることが出来なくて、だからこそ、私は私の信念を通した。

 

そんな風にして私と彼の間には大きな「普通」という壁が存在していた。

これはもう話し合いとか。そういったもので解決できるものではない。分かり合えない世界観なんだよな。

話し合いでなんとかなる。これは幻想だと思う。話し合いでなんともならないことがある。それが私たちの根っこにある『普通』というものなんだと思う。

相手の普通と、自分の普通。もし、これが社会から剥離したような社会不適合性の内容なのであれば、それは自明性の欠如になるが、そういうわけじゃない。両者共々、一般常識のなかで二つの普通が背中を向けていた。

そんな人を、私は愛して信じていたんだなと思った。

本当にわからないんだ、どうしてなのかがわからない。わからない混乱のなかで理解が追い付かない。どうしてなのかの理由がわからないから、混乱して怒りがこみあげてくる。それを何度も抑圧し、何度も彼と向き合おうともするけれど、向き合えない。

向き合い、話し合い。解決できたらいい。

でも、向き合えない、話し合えない、解決できないことがある。それがツインレイの彼。

もう知性の領域を脱していたのが彼。私の知性を全総動員させても理解が出来なかった。それが彼。

だから私は、心によって『信じること』しかできないし、信念で拡張し続けてきたのだな、と。

信じ切ることで、相手の『普通を取り込んだ』んだと思う。そうすることで、私自身のなかで彼の普通を理解することができる。混乱しないで済むことができる。

誰かといっしょに暮らすってそういうことなのかもしれない。相手を信じることでしか、得られない領域があったんだと思う。

 

その後、離人しちゃったんだが、それは仕方ないことなのかなとも思っている。

とはいえ共、相手を内包するんだから、離人して自分のなかに人格が二個保有され、そのふたつを統合させる。であるならば、確かに多重人格は仕方ないなと思われる。状況的にそうでなければ、人間的な精神ではやりこなせれないと思う。

ほかになんかこう、超常現象が起きる的な感じで相手と統合するのであれば話は別だよ。でも、現実問題、人間の心理上ではこれが限度、病理に触れることで統合させる。

これを私は「人間ごとき」と言葉にしている。

人間ごときができる範囲は限られている、立場を弁へよ——と。

そもそももう状況的に心理が追い詰められていてストレスで下血していた。当時の傷に触れるとやっぱり腹が痛い。あ、そうそう、腸。腸がイっちゃったんだよなァって感じ。

簡単に言うと、相手を信じるがために自分を追い詰めたって感じ。

相手が正しいか、自分が正しいのか——のうち、常に自分が間違えているって結論を出し続け、自分の怒りが解離しそうになりながら自我で解離を抑制させ続ける。

腸がイく。凄まじいストレスだった。

これが出来たのは好きだったから。好きだったから、そうやって相手を受け入れようと思っていた。

好きな人を受け入れたいと思うのは、ふつうのことなんだと思う。でも、その受け入れ難いものを受け入れる時、負荷がかかりすぎるんだと思うよ。肉体もってやるべきことではないと思う。

肉体があると受け入れる分だけストレスがかかって肉体が破損する。

自分というエゴがあればあるだけ破損するんだろうね。

相手を受け入れるってことはすごくストレスがいるんだと思う。だからそれに耐えられないと怒りが発生する。ツインレイのときに怒りが解離しちゃった人も多くいたんだと思う。

ものすごい踏ん張らんと耐えられない。気合いで自己破壊するし。

虫も殺さぬ顔して自分を殺さなきゃいけない。そんで笑うんだよ、あなたが持つ普通が守られてよかったって。

愛は破壊である。つまり愛は自死かもしれない。で、愛されたいって意味は「私の為に死んでくれ」って意味なんだと思うよ。めちゃくちゃでしょうな、でも、精神領域ではそんな感じ。

で、みんな、愛されたいからナイフで人を切りつけている。私はそのように世界が見えている。

私が受け入れられなかったのは、彼が死ぬこと。私は彼を愛して死んだ。でも、私は彼に自分の為に死んでほしいとは思わなかった。だから「ごめんね」って言われたときに相手を殺す恐怖、愛される恐怖を知った。私は初めて凶器を握らされて慄いた。

殺したくなかった。死んでほしくなかった。だから逃げ出した。

自分が死ぬことは受け入れられる。でも、彼が死ぬことは受け入れられない。とんだワガママかもしれないんだが、それは耐えられなかったんだよ。殺したいわけじゃない、生きてほしいと思った。だから彼に逃げてくれって思った。

これがチェイサーの意識だと思う。逃げてほしかった、私があなたを殺す前に。

そしてランナーの意識は逃げ出した。愛されることから逃げ出した。あなたを殺すことを拒絶した。

それはやっぱり知っているからなんだと思う。痛みを痛感している。相手に同じだけのものを感じてほしいとは思わない。それはやっぱり好きだったから。

 

精神領域でのこと。

エゴがそこに存在しているとき、愛は殺戮でしかない。

だけれど、私がサイレントに入ったとき、既にエゴはすべて破壊されたあとだった。

残った最後のエゴは「愛されたくない」「殺したくない」って思いながら、ナイフを握らされてビビる自分。

愛することの痛みと苦しみを知っているからこその感覚だった。そこで意識がトンだっぽい。

 

もし、神がいるのだとしたならば。彼らは私たちに何をさせているのか。

私の強い怒りは神に向けられた。好きな人を殺せと言われても、それは出来なかった。

つまりね、「できない」んだよ。どう頑張っても、それは出来ない。

だからさ。私はツインレイの再会をしたいけれど、したくない。また会いたいとは思うけれど、会いたくない。

覚悟は必要である。人を殺す覚悟である。

ときに、私たちは人を殺す覚悟を決めなければならない。

自分のなかにある優しさをすべて切り離して、相手を殺さないといけないときがある。

それがもし、好きな人だったとしても、好きという気持ちを捨ててやらなきゃいけない。

覚悟が決まっていなかった。それは「愛される覚悟」である。精神では「相手のエゴを殺す覚悟」である。

ナイフを握って戦わなきゃいけないときがある。それは愛されるとき、相手は自死していく。

 

彼も。

私に殺される覚悟が決まったら、戻ってくるんじゃないのかな。

これはもう本当に覚悟が決まらないと無理だと思う。耐えられないと思う。

 

人って、こういう生物なんだね。

物質的な戦争が執着点を見せれば、次には精神的な戦争を始めている。

今は戦場下にあり、そこにあるエゴが消失しきるまで戦う。

 

まァ、私たちも人類として戦争してきたんだけれどね。一度ぐらい国として帝国国家にならんといけんくてな。支配国家となって、そこから国が「なにかしら」の動乱を迎え、その動乱によって次にようやく今の日本みたいになる。

日本の美しいところは、それがめちゃくちゃわかりやすい形式美なところがある。それは島国だからなんだろうね。

日本のなかで明治維新があったときに、このときに日本がひとつに統一されるまで戦争があった。それは国を統一するまでに必要だった。ずーっと戦国時代とからへんから戦争し続けてきたんだよな。ひとつに統一されるまで、ずっと戦争してきた。

争いが無ければ統一もない。

次に、日本が統一されては他国と戦争がはじまった。今、世界そのものが国単位にまであがってきた。で、これが最後に『地球』っていう単位で統合されていくのね。そのためにはやっぱり戦争という争いの先にしかない。

それが『第二次』まで勃発したわけなんだが、じゃあ、第三次はやってくんのか? とかな。それはもうわかんねえけどさ、私たちが地球を『国』という単位が外れるまでこれは続く。

続くんだよ、それを覚悟しなきゃいけない。

スピリチュアル系の人は、その辺の肝が座っとらんのかなとは常々思うよ。

ある日突然、すべてが「愛に溢れて、地球すべてがアセンション☆」だなんてことはないんだよ。そもそも愛が何か、それは戦争だよ。

無視したらいけないものがある、先を見据えて今を捉えないといけない。

支配っていう経験を国自体がしないといけない。その経験のない国は、なんかこう未発達っていうか。そもそも戦争すら出来ないお国っていうことになる。そういう国は今だ存在していると思うぜ。

戦争が悪だとも言うけれどね。私たち人間が育つように、同じように国も育っていく過程で、支配っていう段階を抜けていかないと次の段階にさしかからない。

頭で理解しても意味ないんだよ、遺伝子で理解しないといけない。それは『経験』でしかない。

で、日本も、もし降りかかる火の粉があるようであれば、それは振り払うだけの力をね。今は持たなければならないし、それは会話だとか。そんなもんじゃどうしようもねえのよ。

分化の違いは会話が成立しない。

今、日本がすることは『日本を単体として存在している状態を維持すること』。

つまり支配されないように守ることにある。だから『自衛』なのね。自衛隊のこと。

他国に侵略はしない、それはもうこの国が単体として存在しているし、一度支配による経験をしているから、もう国としては他の国よりかは成長している国なんだよ。

一回、死んだ国ってこと。戦後の復活は日本の凄さだったよ。バブル崩壊しちゃったけれども。

次にもうほかの国と統合して地球規模にまで単位を広げていく準備が整っているってことでもある。だから、すごい日本は他国との友好が強くてだな。

そうは思えない理由は、日本の領土を狙う国が海を越えた近くに存在しているからなんだよな。囲まれとる、囲まれとる。

これからの課題は、日本がいかに『防衛に徹するのか』にある。そのために試行錯誤していかなければならない。

で、ほかにも一回死んでない国、いっぱいあるよね。一回は自滅するかの如くに破壊されないと再生を呼び覚ますことは出来ない。遺伝子が理解しないといけない。

 

同じことなんだよ。人も同じ。

愛は殺戮だと書いた。

支配という領域はエゴにより生じている。エゴを取り払うには、愛と言う戦争を行わなければならない。

そして、愛の戦争の先に或るあるものは「支配からの防衛」なんだ。

エゴという支配者たちから自らを守る防衛をしなければならない。

また、その支配者っていうのはね。話が通じないんだよ。

戦争がなぜ起きるのか? 話が通じないからだよ。知性じゃもうどうしようもないことがある。

拳でぶつかり合って殴り合うしかない、そんで、自滅してようやく気づくんだよ。

だから経験を必要とする。そのために、愛と言う殺戮を行う。拳で殴り合って戦う覚悟を決めていく。

これは戦争である。

 

愛だの、なんだのな。美化された話、ものすごくあるけれど。

で? 愛を広げていくって何?

そりゃ、精神領域での戦争を広げていくってことだよ。

ちなみに私はずっと彼くんの植民地化していたって話でもあるな。領土奪われて支配されていた。

 

これから戦争だよ。もうずっと戦争か。ずっと、精神領域では戦争やってんだよ。

それが『愛』。あなたたちが欲しているものだよ。あなたたちは争いたいと言っている。戦争がしたいって言っているようなもんなんだよ。

愛されたいんだよね、じゃあ、殺して来いよ。

愛したいんだよね、じゃあ、殺されて来いよ。

愛なんて語らなくなるまでヤりあってこい。

ビビるでしょ。殺される覚悟は決まってたよ、でも殺す覚悟は決まってなかった。それが私。

だから戦場で無様に死んだ。

戦争に駆り出されていたのが私。

ツインレイたちがもし「愛」を語るのであれば、ほぼ全員「精神的な殺人を犯した経験」または「精神的に殺されて死んだ経験」を持っているはず。あと負傷者多数。負傷者は精神が病んでいる。

私は戦死者。殉職者とでも言ってくれ。

彼は生存者。無傷の生存者。

ツインレイは戦場にいる。みんな、戦場で戦ってんよ。

前者は殺してしまったことから遁走してんかもしれない。なんてことをしてしまったんだ! って解離したかも、耐えられねえもんな。

後者はもはや死んでいるので離人して抜け殻という遺体だよね。

「ツインレイは、いい経験だった」と語る。本当にいい経験だったのか? 私にとっちゃただの地獄絵図でしかない。

私は彼に殺された人で、未だに戦場でぶっ倒れてて再起不能になってたって話。

ワナワナ震えながら「人を殺せないよ、、」とか言ってて、植民地となっていた。

再生するまで数年の時間が経ってしまった。

で、復活したら、ふたたび戦地へ向かわされる。それの繰り返し。今度は「肝を据えて相手のエゴをぶっ殺す覚悟」を持って復活。死という闇の世界で学習してきた。人のエゴを殺す覚悟を。

いいぜ、ヤろうぜ。

お前の領土を征服してやんよ。覚悟は決まった。

 

これが日月神示に書かれている内容だと思うよ。

 

肉体ベクトルであれば「おなかいっぱい食べたいなら殺し合いをしてこいよ」と戦争に狩りだされたってこと。

それが精神ベクトルになると「愛」。

色々、当時感じていたことをまとめるとこんな感じのことだった。

あたい、殉職者。戦死者。この世の人じゃなくなって、そのまま、人として復活を望んだ人。

多くの人が「復活せずにご臨終」ってことになったままの人もいて、一部は「もう戦地は戻りません」ってことにして神さまになったかもね。戦線離脱、脱兎のごとく逃げ出した。大多数がそこに着地したと思う。

耐えられねえんだよ。

私は人となって戻ってきた、だから人の為に働くんだと思う。戦っている人たちの為に、私もいっしょに戦う。

いっしょにエゴを取り払うために私はまだまだ戦う覚悟を持って戻ってきた。

だから私は不死鳥を飼っている。いくらでも死ぬよ、何度だって死ねる。還ってこない部分があるならば迎えに行くよ。

まだ戦いたいって思う人のために、私は何度でも死ぬ。

 

自分との戦い。凄まじい殺し合いが自身のなかで起きている。

私の精神は戦地と化していた。愛は戦争を巻きおこした。

で? 誰がめろめろに愛されるんだっけ? ああ、精神的な殺人者をですよね、わかります。

それは甘やかしではなくて?

愛と甘やかすの意味は違う。