報告|彼に嫌われててもいいや、それがいい。すべての浄化。
自分とはまるで違う文化を統合するとき。それが私にとって彼だった。彼という存在を自身のなかに統合していくとき、地球規模の視点が得られるんだなァ。いわゆる、これが帝王学ってやつだとは思うが、どうなんだろうな。
でも、今ならば、それなりに先生たちが話しとった内容のようわからんかった部分の辻褄性を理解したって感じ。
彼くんと離れた後。色々と政治関係の判断力がうすらぼんやりとあった。それが今は明確にわかる——にまで至っている。
異文化による統合は争いのなかででしか交えることができない。そして、そこに傷があれば、その傷が争いを生む。
争いのなかには必ず傷がある。その傷を癒すために剣を交えることがあるんだろうな。そうやって痛みあうことでしかわからない世界がある。これが長期戦となる。
剣士とか、武術の極致には『勝ち負け』を超越した部分。呼吸が合う瞬間、相手が次にどう出るのかを理解している感覚。その感覚を得たとき、勝ち負けではなくなる瞬間がある。
ただ、この時間が未来永劫続けばいいと思う感覚。ただ、戦うことの楽しさみたいなものが生まれてくる。ただ戦っていたい。
勝ち負けじゃなくて、ただ、剣を交えることの喜びの瞬間がやってくる。この瞬間を迎えたとき、勝ち負けは放棄され、争いの喜びを知るというか。
もう心の傷はない。そうじゃない、傷の為に争うのではなく喜びの為に争う。勝敗を決める為ではなく、喜びの為に争うときがある。
誰かとの呼吸が合ったとき、なんかもう、それがぐちゃぐちゃしてしまうんだけれど。それもまた愛おしい時間だね。
それを一度迎えたことがある。彼と最後の最後に瞬間を迎えた。私はあのとき、争いを喜びとしてすら認識したんだよな。
つまり反抗期を喜ぶ心みたいな感じ。なんか、ちょっと嬉しかった記憶があるんだよな。あのときに私のなかに争いを喜ぶ心が芽生えた。本当に小さいもので気づかなかったけれど。
だから「よし」って思ったところがあった。なにかの合図でもあった。
相手を信じている瞬間がある。反抗するって信じている世界からしか生まれないんだろう。
彼は私を信じてくれていたと思う。その信じてくれた心が反抗期になった。
私は敗けたんだな。惨敗して、最後に彼と剣を交えた。あのとき、ようやく彼が剣を構えたのかもしれないし、私が剣を構えたような気もする。
あのとき、ようやく「対等に戦った」んだと思う。それまでは対等ではなかったんだな、だから私は敗け続けるしかなかったんだ。彼が戦えるようになるまで、敗け続けてきた。
そして、負荷を与えてきた。
負荷に耐えられず「対等に戦った」んだな。
離別は反抗期を迎えた証拠で、次に共存を探している。
嫌われててもいいや。
彼に嫌われてても、なんか、それでいいや。
嫌われたくないよ。でも、嫌われてても全然いいや。
それがいい。
私は嫌われたかったんだな。彼に嫌われたかった。
その過程を経なければ到達しえない精神がある。
それを想うと、あのとき、私は嫌われたかったし、彼に嫌われてよかった。
それがそうであるように、そうでしかないように。その道しか当時にはなかった。
私が私であれてよかったよ。
ようやく肯定することができる記憶たち。
慈雨。心の雨が降っている。あのときの罪をすべて洗い流すが如く。
浄化。