レイキ中に感じる苦しみを愛している感覚。愛しているって深いよね。
背中の大量に出来た吹出物。毒を摂取した後にでてしまったんだが、それを見て、私は「病とは美しいものだ」と思った。
今、恐怖に対してレイキを続けている。
恐怖で震えているから身体がガタガタしたり、冷え冷えしてはゾクゾクする。
過呼吸の症状が出てきては、息がしにくい。パニックの症状から頭のなかがぐちゃぐちゃする。
PTSDの症状を再び経験しているんだから、そりゃもうひたすら精神的な問題から出てくる症状がリフレインされていく。
大量に出てくる割に、ほとんどPTSDの症状は起こしたことがないんだけれど、なるほど。感覚を分離していたのだな、と。感じて無ければPTSDも起こりえないよな。
そしてふと思う。
私はこの症状を愛している。
過呼吸の症状は辛い、でも、どうしてかな。私はこの症状を愛している。
パニックの症状は頭のなかがぐちゃぐちゃしてどうしようもない気分になる。だけれど、私はこの症状を愛している。
恐怖で震えている私の体、そんな症状を私は愛している。
多くの人が嫌がるだろう、この症状。
私は、この症状を愛している。理由は難しい。こうだ、と言葉にすることはなかなか難しい。
だけれど、少し整理してみる。
どの精神的な問題から起こりえる症状たちをも私は受け入れているし、感じていくたびに、その苦しみを私は愛しているのである。
苦しみを愛しているというのは、少々おかしい話に感じられるけれど、私は、苦しみを愛している。
愛おしい感覚がする。
苦しみを感じるたびに愛おしい。
それって「頑張って生きてきた」ってことだもんね。
それってものすごく愛おしいよね。愛したくなるよね。抱きしめたくなる。
「苦しい」って言われたら「よく頑張ったね」って言ってあげたいよね。
それで、苦しみから解放してあげたいよね。
もういいよって言ってあげたい。頑張ったんだったら、もうそれ以上、苦しまなくていいと思う。
よく頑張ったと思うんだよね。
苦しいって「頑張った」ってことなんだと思う。
頑張って生きてきたから、苦しいんだと思う。
どうして、人生の後半に自分が自己破壊を起こしながら自己犠牲をすることが出来たのか。
その理由は苦しみが快感になっていた瞬間があった。苦しみが名誉な感覚すらあった。
自分が破壊されるときに苦しいと思う。だけれど、同時に快感を感じ、それは必ず誰かを愛している証拠だった。
苦しみはいつだって愛だった。
だから私は、自分の苦しみを、自分の痛みを愛しているんだと思う。
苦しみながら誰かを愛した経験がここで生きている。
私は私の痛みを、私の苦しみを、まわりまわって愛している。
私は愛しているんだな。人の痛みや苦しみを慈しんでいる。
苦しみ生きることは悪じゃない。少なからず、悪じゃない。
今、もし、苦しいかもしれないけれど、それは間違いではない。
病気も、人生の苦しみも。それは間違いではないと思う。
私はあるときから、苦しみさえも楽しむような人生を送っている。
苦しい、辛い。だけれど、それが楽しい。
苦しみが楽しみになる瞬間があるときやってきた。ひとつの超越にある。
それからは、苦しいことよりも楽しいことをいっぱいしてきたけれど、人からすれば、苦しそうな可哀想な人生だと思う。
それでも、私は楽しかったんだよな。
ツインレイのサイレント期間も、私は苦しかった感覚があまりない。実は、苦しみの実感の方が少なくて、考えている時間の楽しい時間のほうが大きな割合をしめている。
そして、私は「ツインレイ」という目的の為にこの数年を過ごしてきたわけでもない。私の目的は「考えること」であり、主体性は常に自分が何をするのかにあった。
私は苦しいことを楽しいことに切り替えて生きていく。
ツインレイでいることは苦しかったけれど、理論を考えることは楽しかった。だから考えていた。
楽しいことを優先していた。
苦しみは悪じゃない。あるときから楽しみにだって切り替わる瞬間がある。私は楽しかったんだよね。
その楽しい時間を否定されることは、やっぱり悲しかった。
苦しみが分からなければ、楽しみも分からない。
人からすれば苦しそうでも、案外、私は楽しかったんだと思う。
それは、その人が苦しいんだろうなって。苦しみが悪なんだろうなって。
私は楽しかった。共感されることではないんだと思う。みんな、苦しいから。
苦しみを愛していく。私は苦しみを受け取っていく。
そんな瞬間を迎え乍ら。