レイキは1st、2nd、3rdと段階をおってエネルギーのチューニングしている理由
レイキのエネルギーについてですが、色々な形で〇〇のエネルギーと呼ばれています。
光のエネルギーとか、宇宙のエネルギーとか。
基本的にはどこにでもあるエネルギーを集めて手から出す――っていう仕組みですが、つまりレイキのエネルギーは『どこにでもあるエネルギー』であって『ここにあるエネルギー』なのだと思います。
エネルギーを集めて出すわけなんですが、当人が持っている気を使っているわけではないので疲れないって話ですね。
私自身もレイキをやっているとき、疲れるっていう感覚がありません。
ただレイキが手からダダ漏れてるっていう感じでしょうか。
このレイキが出るエネルギー量を増やしていくのが、1st、2nd、3rdと段階をおってエネルギーをあげていくっていうことなのだと思います。
ある程度、レイキのエネルギーがでるだけの肉体改造は必要なわけでして、つまりはレイキを1stから2ndの間、2ndから3rdの間にどんどんとエネルギーの量をあげていく段階で自分にレイキを当て続ける修行が必要なのだと思います。
どんどんとレイキを当て続けていくと、肉体がレイキのエネルギー慣れをしてくる。
レイキのエネルギーも、当初は反発的に「ヤバい、レイキあてたくない」っていう拒絶が出ます。
1stの段階のレイキを全ポジションで当てていくんですが、頭とか、耳とか。レイキのエネルギーを拒絶しますから「うわぁぁぁ」みたいな感覚になりながらレイキをあてる。
Mじゃないとちょっと無理。
つまり、元々自分が持っているエネルギーとレイキのエネルギーが反発を起こし、従来のエネルギーがレイキのエネルギーを嫌がっていることがわかります。
私達もなんとなく体感的に「波長的に合わないな」って思う人とかもいまして、その波長が合わない人とわざわざ関わらなきゃいけないってなるとシンドい。
違うエネルギーのところにレイキをガンガン入れていったら「やめろォー(^o^)<うわぁーっ!」ってなる感じ。これを1stから2ndの間に先ずはクリアしていかなければならないわけです。
とにかく、水と油とまでは言わないけれど、私も低俗な人間だったもので、レイキのエネルギーを受け取るときは反発がすごくて拒絶もすごい感覚がありました。
レイキを当てたくないっていう拒絶。この拒絶してるところに「拒絶するならば敢えてレイキのエネルギーを入れてやろう( ー̀֊ー́ )」と思う鬼畜なとりいなければ、イマココでレイキなんてやってなかったと思います。
レイキを伝授されて自己ヒーリングやってみたい方でも、元々レイキをヒーリングでしてもらっている方と、全くもってゼロで伝授されると雲泥の差があると思います。
私はゼロの状態の伝授だったので、拒絶反応が強めに出たような気がします。
次に2nd、3rdと進みますが、個人的にはちゃんと期間を空けておいたほうがいいと思う理由は、伝授の際に直感が降りるケースがあるから。
伝授されるまでの間に体がレイキのエネルギーに慣れていると、直感が際立っていくんですが、その状態でレイキの次の段階の伝授をしていってもらうことで、伝授による何かしらのアクションが起こりやすいように思います。
今、単発でレイキを一日で全伝授とかあるんですけれど、個人的には1ヶ月ごとぐらいに伝授してもらうのがやっぱり効率的だなと思います。
伝授の際に何か直感が得られるかもしれない面白い可能性を放棄してまで早くレイキを伝授されたいとは思いませんね(`▽´)ヒヒヒ
とは言えど、1stの段階で学んだことしかやらず、半年間過ごしておりました。
確かにどんどんと伝授されることでエネルギーの質量みたいなものは増えます。体感的に分かりますが、それを使いこなせていけるだけの肉体ではないのもわかります。
まずリラックスができません( ˇωˇ )
1stしか半年間使っていなかった理由は、1stの段階から2ndの段階を理解できるまでに半年間かかったということです。
毎日、3時間以上のレイキを自分に当て続けて半年。半年目でようやく2ndの思想が理解できるようになりましたし、どのように使いこなせばいいのかも理解しました。
そもそも伝授の段階で説明されても、実際使うとなっても「よくわからない」です。
それにどんな価値があるのかとかも1stが終わらないと2ndはわからないです。わからないものは分かりません。
でもわかった気にはなれます、知識ですので。知恵になるまでには時間が必要です。
1stが「今」という概念ならば、2ndは「過去」「未来」になりますが、今が成立してないのに過去も未来もわかんないよ(_・ω・)_バァン…って感じでしょうか。
なので、1stが終わっていない段階で2ndは理解されませんし、2ndでは遠隔で他人にレイキをすることもできますが、1stが終わってないと、クソレベルで下手な遠隔しかできません。
当時のヘタクソなとりが何度かnaoさんに遠隔でやらせていただいたんですが、どういう原理なのかをよく理解することが出来ずにあやふやなことやイメージ頼りになってファンタジーなレイキしかできない。
現実性がもたらされず、あのままだったら私は「あなたに生霊がついています」とか「あなたには悪魔がついている」とか言い始めるようなヒーラーになっていた可能性があります。
つまりなんですが、2ndにはいる前に『幻想を抜ける』っていう段階があって、妄想と現実は違うっていう視点にまでいたる必要性があるんですよね。
1stは『今を受け入れること』であって、その今とは『現実』『精神』にあり、その逃避が『幻想』『妄想』っていうカタチになります。
1stをちゃんとやれば、自分がどれだけファンタスティックな世界に生きていたのか、真正面に現実だけを見つめることができていたのか――の答えがわかります。
私はファンタジーな世界の住人でした( ˇωˇ )
1stが終わる段階では「今抱えてる問題」はガタガタと片付いていきます。
2ndに入ると、過去の自分と未来の自分と向き合っていかなければなりません。
昔の自分と向き合い続ける。ひたすら過去の自分に影響を及ぼした他人と向き合い続ける。
2ndはシンボルによってエネルギーを切り替えて使いますが、1stの段階でちゃんと「今」が整理されていれば、無自覚にレイキのエネルギーを切り替える感覚がわかります。
シンボルを書かなくても勝手に切りかえてる。
ただここで「人間力」が問われていく。結局、過去の自分と向き合っていくのに、誰かと向き合った経験がなければ、過去の自分という他人とどのように接したらいいのかがわからない。
レイキをあてる。実際、これだけでは終わらない。個人的には終わらせて欲しくない。
3rdはもはや『今も未来も過去も関係ない』っていう段階に差し掛かるんだが、どういう意味だよ(^q^)ってなりますね。
単純に、過去と今、未来が全体的に浄化していくことが出来ますが、その概念を理解してレイキする。できません( ˇωˇ )
個人的には2ndで学ぶレイキがより私たちにとって現実的なレイキであって、3rdで学ぶレイキは、より霊的な感覚がします。
ですので、3rdは未だにシンボルを使っていますが、どのタイミングで使うべきものかがさっぱりわからないことも多いです。
全体的にエネルギーをかけて外部からのエネルギーを受け取らないように膜を作る時などに3rdのシンボルは使います。
たまーに自分の中に他人が入り込みすぎて、自分が行方不明になりやすい自他境界が曖昧な方がいらっしゃいますが、そういう方には大事なシンボルだと思います。
レイキって、ただ自分にエネルギーを流していくだけでも効果があります。
レイキのエネルギーに自分のエネルギーが変わってきますので。
たぶん、今の自分のエネルギーを『レイキのエネルギーレベルに合わせたい』ってことだったら、ただレイキを当て続ければ、そのうちにはレイキのエネルギー状態になっていきます。
個人的にはそれが『第八チャクラ』に合わせられていると思います。
つまりレイキヒーラーって極論言えば、第八チャクラの体現性を求めているように思うんですよね。
第八チャクラでは『適量』を意味しています。
過剰に必要以上には稼ぎません。必要な分だけ稼ぎます。
過剰に誰かを溺愛することはありません。適度に愛していきます。
自然体であり、よりナチュラルに緊張のない関係性を好みます。
悪目立ちもせず、出しゃばりません。
中庸を維持し、落ち着きがあります。
現状維持をし続けられるようになります。
この第八チャクラが不安定になっていると、人生そのものが陰気になります。安全を放棄したり、優柔不断になります。人生での芯が感じられません。
レイキは第八チャクラの活性化と覚醒を手伝ってくれているものかとも思います。
そのエネルギーを受け取るとき、私たちは自分の人生を取り戻し、自分らしいあり方を探します。
私たちは常に適量を愛し、自立しています。
不安から多くのものを欲し奪うことから離れ、依存を終え、自分が安心、安全、安定という世界を構築するための伴侶と結びつきます。
このエネルギーを現実であり肉体である意識の私たちが体現し始めることができる状態に、精神を浄化していく。
つまり自己レイキをし続けると、第八チャクラの状態に自分が定着していきます。
だからレイキを始めると、自分が道をはずれている部分から正しい自分の道へと戻ることができるようにもなっていきます。
鬼門はあります。その鬼門が抜けられるかどうかは人間性だと思います。
レイキをどんなにやっていても、レイキが人間性を変えてくれるわけではありません。
最終的に3rdの段階で得られるものは「第八チャクラを体現すること」なのだと思いますが、ここに到達するまでがなかなか難しく、また、この段階にまで至っているとき、私たちはたいてい幸福な生き物ではないかと思います。
ちょうどいい温度のお風呂にはいっているようなものかなと思うからです。
それを「生ぬるい」と思う心が若さかもしれません。適量以上に欲する心です。