胎児の記憶をレイキする『さびしくて、いっぱい考えた』(追記:絶対的孤独について)
昨日の夜、ハンモックの下生地を作っていました。
ふと、暗闇のような。なんとも言えない気持ちが込み上げて来ました。
虚無という絶望。ですから絶望ですらありません。絶望が虚無になり、なんとも言えない気持ちでした。
さびしさをほんのりと感じているのです。
この気持ちはなんだろうと思い、針を置いてレイキをしました。
『孤独を愛している』という気持ちがやってきました。
私は孤独を愛していました。しかし、本来はとても寂しがり屋でした。
これは私の根源にあたる暗闇だと思いました。
レイキをして、その日はハンモックに揺られて寝ました。
ハンモックは母体のなかの感覚に似ているのだそうです。
翌日である今日、昨日の暗闇はまだ消化し終わっていないよなァと思い、レイキをしてみました。
身体がゆらゆらと前と後ろに揺れている感覚がします。どうやらここは母体のなかのようでした。
安心があるようでありません。
私は母体のなかで初めてのワンレイとなりました。
私はひとりでした。孤独でした。
母体のなか、ひとりでさびしかったので、いっぱいいっぱい考えました。
みんな、私のことが大好きなんだ。私が産まれてくるのをみんなが待ってる。
そんな風に考えたらさびしくありませんでした。
生まれたら、どんなことをやろうかとか。いっぱい考えました。
私が生まれて家族に期待があったのは、母体のなかで胎児のとき、さびしさのあまりに色々なことを考えていたからでした。
私の中の胎児の記憶では『さびしい』が詰まっていました。
レイキを当てながら、いっぱい泣きました。
さびしかった、さびしかった。
子供が出来たら、妊娠中から話しかけてあげようと思いました。心が救われました。
胎児の記憶があると言われていますが、本当にあるんですね。
そして、その記憶が私の人生を構成しました。
さびしいという人生です。
しかし私は孤独を愛していました。あるとき、私は孤独を愛し、孤独と友達になったのです。
寂しがり屋の私は孤独を愛し、さびしさを克服しました。胎児の記憶の克服です。ひとりを楽しめるようになりました。
そして、ある日、さびしさが噴出したあと、彼に出会いました。
私は、誰かのさびしさを埋めてあげられることに気づきました。それは胎児の私です。
彼は孤独の人だったように思います。それは私の胎児の記憶を投影したのだなと思います。
私は孤独を愛していたから、彼を自分の事のように愛したのだと思います。そしてそばにいようと思いました。
胎児の私は『さびしさ』を乗り越えて、誰かのさびしさに寄り添おうとしていました。
ほかの人格たちも成長しているのだと思います。
そして、誰でもない私が胎児の私のさびしさに寄り添いました。
優しさは回り回って自分に返ってくるんだなって思います。
この記憶は胎児の記憶です。
それは未熟なワンレイの記憶です。
ワンレイはすべてを自己完結させますが、未熟なワンレイである胎児は、ワンレイであるがゆえのさびしさを知りました。
胎児とは究極のワンレイなのかもしれません。
母体の中はさびしかったから、さびしくない未来を想像しました。
それは母体の中にいる私の初めての創造でした。
しかし、現実は「思ってたものとは違うものばかり」でした。
それはさびしさを克服することができていなかったからです。誰かが自分の心を満たしてくれるという他力本願な創造は、ただの妄想となりました。
期待が裏切られ続けました。
あるとき、さびしさを克服した胎児は『自分がどうするのか』を考えました。これが創造の始まりでした。
私たちは自分で自分の世界を構築しています。
『自分がどうするのか』ということのみです。誰も自分の世界を構築してくれるわけではありません。
私は誰かのさびしさを埋めてあげることが結婚だと思いました。すべての人は無理だけれど、たったひとりだけならば、結婚ができる。
そう思った私が彼を見つけたのです。
誰かと共に生きていきたいと思う気持ちは、母体のなかで育まれた私のさびしい気持ちからでした(*^^*)
孤独とは人の起源になるんでしょうね。
人は孤独です。母体のなかで究極の孤独を味わい、それから生まれてきます。
希望を持って生まれてきた私は、さびしさのなかで「寂しくない妄想」をしていたので、けっきょくずっと寂しかったんだなと思いました( ˇωˇ )
女性はさびしさと同一化してさびしいという理由で子供を産み、男性はさびしさを否定して自立し、社会で働きます。
子供を産む理由が『さびしい』ではなくてもいいのだと思います。
そういえば、若い頃に「好きな人を好きになったから子供ができた」っていうことに憧れがありました。
さびしい動機で子供を産むと、好きな人との結婚ができないものなのかもしれません。
さびしい。だから、どうしますか。
私は、好きな人を好きになります。みんなを好きになります。
それは胎児の私が(´-`).。oO(みんな、なとちゃが大好きなんだ)って妄想したように、私のさびしさは「人を好きになること」で埋められるからです。
人のことを好きだと思うと、胸がギュッと締め付けられて泣いていました。
そういうことだったんだなーと思いました。
追記
こちらについても先生にお話してみたところ、先生曰く、これは絶対的孤独という人が持つ生まれた時点で感じる心ではないか——ということだった。
つまり、私が生まれた瞬間に捉えた感情みたいな感じ。
私が胎児だと思ったのは、これが私が胎児からこの世の存在として成立した瞬間に生まれた感情というか。
なんかそんな感じらしいです。
さびしいという感情は、一体化が存在し、次に分離したときにさびしさを感じる。
つまり、母子一体から分離してようやく「さびしい」になる。それが出産になるので、私が生まれたときに感じた感情だから、胎児の感情のように感じたのではないか——という結論になった。
誕生とは『分離してさびしい』ということなのかもしれない。
それを人が持つ『絶対的孤独』と呼ぶ。
私たちは必ず個体であり、孤独な存在である。これはすべての存在がそう。
私はこの孤独と友達だった。
絶対的孤独と友達になるまでは孤独——依存というカタチで、依存的な恋愛をしては破綻するような轍を踏んでいる。
あるときから、孤独と友達になった私は「ひとりでもいること」が出来るようになった。それまでの気持ちは「自分の寂しさや不安の穴埋めのために誰かを代替え品として道具のように利用してはならない」と思ったことにある。
孤独と友達になった私は、ある日『さびしい』という感情にかられて、彼と結びついた。
それでも、やっぱりうまくいかなかった理由は、自分のなかで感情たちが分離はしていたけれども、統合がなされていなかったからなんだと思う。
絶対的孤独を受け入れているとき、私たちには依存がなくなる。依存がなくなったはいいが、私はひとりだった。共存ができていないということ。
この共存が出来ていない理由は、分離が関係している。自己分離が甚だしく、自分のなかではてんでばらばらの人格たちが存在していたことが共存が出来ていないことに繋がった。
つまり、自己分離のなかのひとつにある『さびしい』という気持ちを受け入れることは、絶対的孤独を再び取り戻すことにも繋がっている。