異性人格も投影しているので解除していく。
自分と言う主人格が誰かに対して投影をしている状態が続き、それがツインレイの彼に対しての投影を終わらせることにより、私は「私の男性人格を探していた」という事実に気づく。
よって、これにて「ツインレイ=私の男性人格」という方程式を解除することになる。この方程式が=のままであるとき、私たちは精神と現実の混同を起こしている。
同様に自分のなかに存在している男性人格も、投影を行っている。
私はツインレイの彼くんのなかに存在している女性人格が好きだった。なんかこう「抱きたい」わけである。彼のなかに存在している「可愛い女の子」を見つけていて、その女性人格を好きになった。
それは男性人格が私という主人格を彼のなかに投影をした結果である。
また、uyuさんに対しても、男性人格は私の姿を投影してuyuさんのことが好きなようである。(ので、毎度「会いたい」とか言ってるんだが、これもまた投影に他ならないことに気づいた)
男性人格の私は男性である彼のなかに存在する女性人格が好きで、女性であるuyuさんのなかに存在する主人格が好きって感じなんだが、個人的に私の主人格は女性人格なので「なんだこりゃ? ようわからんな」というカタチになってしまうようである。
ここ最近は男性人格を受け入れつつあり、男性目線を理解しているのもあってわかるようになった感じだろうか。
なんだこの浮気状態は——と思うかもしれないんだが、どっちにしたって「私を現実で見つけようとしている」のであるわけなんだが、現実的に男性人格が探している人は存在せず、それは私である。
そして、uyuさんは私のアセンダントに太陽の合(自分軸)。彼くんは私のディセンダントに太陽の合(他人軸)。
このふたつが何か関係しているような気がしている。私の男性人格にとってuyuさんの女性人格は地上のツインレイで、彼くんの女性人格は楽園のツインレイなのだと思われる。
どちらも投影を終わらせることにより「自分の女性人格を探し続けてきた」という事実に気づいていく必要性がある。
投影をすべて解除されると、夢も希望もない。今までが夢のような世界にいたんだなと理解する。
そして、統合人格へとなるとき、私たちは私たちが背負っている親という宿命をすべてリセットすることができる。その後、私たちがどのように生きるのかは自由だと考えている。そして、何をしてもいいんだろうな、と。
統合人格者は投影を克復していくため、精神の覇者ともなる。そのとき、私たちは投影をしないが為に夢心地ではないが、自由である。
統合人格へと至らない人たちは投影をし続けていくために、幻想のなかに生き続けることになる。そのときの私たちは夢心地の世界に生き、カルマから自由になれず、何かを犠牲に指し続けることになる。
私たちは自由を手に入れるために統合人格へと到達していく。
自由は、カルマをすべて背負うことの先にある。
束縛のなかにしか存在しない自由を、幻想のなかに存在する住人たちは束縛を破壊し自由になろうとするかもしれない。それは社会のルールを破壊していくことで手に入れる自由である。しかし、それは社会へのアンチとなるだろう。
しかし、統合人格者たちは社会のルールを破壊せずとも自由になる方法を知っている。私たちのなかに存在している『誰か』を犠牲にしないことである。
それはこの世の現実的に存在している『誰か』を犠牲にしないことである。
その誰かが自分であるときもあれば、他者であることもある。何かを犠牲にしている限り、私たちは自由への扉を開くことができない。
私たちが行っていることは、投影の終了である。
夢の終了であり、そのゴングが鳴り響くとき、私たちの世界は自由の世界へとなっている。
もし、二極化世界があるとしたならば、それは『自由の世界(投影を終えた世界)』と『投影の世界(夢の世界)』である。
投影の世界で語られている愛は「あなたが好き」の意味が「自分が好き」と言っている状態にある。投影とは私たちのなかに存在するカルマにより生まれてくる。
風邪の時代では多くのカルマが吹きさらされ、私たちのなかにある幻想たちを吹き飛ばすことにもなるが、同時にカルマをそのまま抱え続けることもあるんだろう。そのとき、必ず子に再びカルマが着せられ、重く重く足かせをつけていくことになり、自由とは真逆の束縛の世界へと進むことになる。
私たちがもし、風の時代により『軽くなる』のであれば、それは自分自身のなかに存在するカルマの解消から、カルマを如何に背負いきったのかの話にある。私たちはカルマを背負い切り、軽くなっていくのである。
私たちのカルマは足かせではない、自由へ飛び立つために必要な支度準備した背負う荷物である。
風の時代では、この多くのカルマを背負う作業を行っていくが為に、自由になるものと、カルマに呑まれるものの2種類に分類されていくことになるだろう。
カルマは私たちの心をきつく縛り付け、犠牲を求めているが、そのときのカルマに呑まれたものたちは「自分は幸せだ」と思い込んでいるに他ならない。
真実なる自由は、私たちを因果から解消していく。
そのときの私たちは、とてつもなく自由である。そして、誰かを犠牲にすることもなく、誰かを好きになることも出来るだろう。
今までの時代では、好きな人を好きになることが出来なかった。投影があったからである、カルマがあるからである。
しかし、カルマの解消により、私たちは本当に好きな人を好きになることができる。
その人が「誰なのか」を知りたくはないか。それは自分ではないことは確かである。