裏と表の話を図式化した(風の時代を生きるために必要な道理)
裏と表の話をパソコンを立ち上げ、図式にして説明する。寒いと、凍えた手がキーボードを拒絶する。
入口(表)があって、出口(裏)がある。理義という道理が通せているとき、入り口から出口へ真っすぐ向かう。これを『産道』とする。
私のケースで説明をする。
こんな感じかな。入口で、彼と結婚したいから参拝する。社では、神により審判がくだされる。というか、それは本当に本心なのか? を聞かれている。
何度も何度も、聞かれる。色々とあれやこれやと聞かれる。それはもう多岐に及んで聞きだされてくる。その都度、回答を出していく必要性がある。
神の審判のなかで「マジもんだわ・・・・・・」ってなると、出口に向かうんだが、その出口の期間に禊に合う。なぜ、神が問いかけをしたのかといえば、おまえのなかに道理がないからだよって話。
自分のなかに道理がないから、その道理を構築していく必要性がある。欲しいものが手に入るだけの器を身につけなさいと言われている。その器を身につける手段が道理。道理を持って、どのようにしたら、その欲しいものが手に入るだけの器になるのかの答えを自ら構築せよと言われている。
道理を構築していく段階で「答え」がでる。この答えが、神のお眼鏡にかない、見合うものとするのであれば、出口に案内される。(大抵、都度「自分はどうしたいのか」を回答を自分なりに叩きだしていくだけの話。)彼が待っている。
ここで、神の問いかけの最中に、本当にそれがお願いなのか——が、間違いであるとき、たいていが『空間に保存』されている人たちに当たる。リアリズムを失い、現実逃避となる。お願いを叶えるだけの道理がないなら、産道が歩けない。参道が歩けないならば、戻りなさいって言われている。
でも「嫌だ—、嫌だ—! 神が自分のお願い事を叶えてくれなきゃ嫌だー!」と神を自分の願いを叶える道具のように思っている人たちもいて、その人たちは迷妄者として空間に保存されている。
迷妄とは「事実ではないものを信じている」という状態になるんだが「神は自分の願いをかなえてくれる」と思っているんだが、神はあなたの願いを叶えないっていう事実を受け取ることができないから「私は神を信じている!」みたいな感じになる。いや、神はおまえの面倒みねえからって突っ返されている事実を受け入れられない。
だってそれ、本当のお願いではないでしょって言われている。だから叶わない。
ツインレイの一部は裏口試験者
それが理義の試験会場で結ばれるみたいなことが起きる。それが迷妄者同士の結婚である。
いわゆる、道理が通っていないし、最後までやりきっていない。それがまた別の空間に飛ばされている。
ツインレイって何か? っていうと、裏口から入った人たちなんだなと思っている。
私からすると裏出口。裏出口とは何か? というと、それもまた『理義の試験会場』に繋がっている。そこで、入口から入って出口へ出ていく人と出会うことになるんだが、裏出口から入った人たちも、試験者たちと同じ会場に入るんだが、基本的に合格が決まっている。
つまり、試験やってないよ、でも合格だよって話になっている。いわゆる、出来レースみたいになっている。理由はわからん、悪魔にでも魂を売ったんかね?爆
とはいえども、大衆的に依存した幸福を手に入れる人たちで、よく目立ち、人の賞賛を受け取る。
簡単に言えば「ツインレイの再会をしました! ね? 羨ましいでしょ☆」ってことが大々的にできる人たちと言える。その人たちがもし、誰かに「いいな~! 羨ましい~!」って言われて満足げならば、それは裏口による試験である。
マジョリティーに依存した人たちとも言える。優劣意識を持ったまま、合格する。でも、試験は合格していない。自分の幸福を見つけられているわけではないから。
つまり、試験会場には、
- 試験を受けている人
- 迷妄者(試験が終わったことを受け入れられずに駄々をこねている人)
- 裏口試験で合格が決まっている人
の三種類がいる。
この試験を受けている人たちは、迷妄者と裏口試験で試験合格した人たちを相手にしながら、試験を乗り越えていくことになる。それもひとつの課題とも言えるから。
迷妄者のなかでも、試験に合格できなかったことを受け入れている人たち(地上のツインレイの私)のなかでも、運命論を受け入れている人たちは、サクッと出口にでていく。不合格であったことを受け入れ、ツインレイと結ばれない事実を受け入れることができる。
で。必ず、1回目は失敗する。これは絶対的な条件としてあげる。1回目は『絶対に』失敗する。これが世の理だから。失敗しないと、成功がわからない。自分のなかに一回でも失敗した経験がなければ、次にいかに成功させるのかの答えはわからない。
マジョリティーの幸福が自分の幸福なのかどうか——に審判をつけて、違うなと思う人たちは1回目で出口にでていくのである。そしてツインレイと結ばれないことを受け入れる。
だから、次に二度目の試験を受けるときは、迷妄者はいつかの自分だし、裏口から入って合格した人たちも、いつかの自分が成功したパターンなんだなとしか思わないが、それを『自分の幸福』とは捉えていないかどうかがが審判の基準になる。
マジョリティーに流れたら、もう一回やり直しになる。出口に戻される。グルグル回る。
最終的に、本当の自分の幸福が視えた人は、産道を通過し、本当の出口へとでていく。(というか、自分の社に到達する。これが『子宮』にあたる。)
簡単に言えば、自分の社に還るだけなんだが、この自分の社がわからん人たちは、この理義の試験会場でずっとウロウロしているような感じ。どこの神社に還ればいいかわからない感じ。自分の幸福がわからないから。
社会と一体化している幸福論
裏口の試験で合格する人たちは、マジョリティーの幸福が『自分の幸福』と思っている人たち。それが一体化を起こした感じ。
社会=自分が一体化した。
社会の幸福に依存している。だから社会から「別に羨ましくないや。」って思われる人口率があがってくると、家庭のなかの運気が落ちる感じになっていると思う。
人に羨ましいと思われてようやく自分の幸福が成立しているから。インターネットってすごく便利になってて、自慢が成立しているうちは彼らは幸福なんだけれど、あるとき、その幸福が「幸福ではない」というひっくり返るような出来事が起きたとき、彼らは不幸になってしまう。
つまり、社会基準の幸福だから、常に幸福ではない。社会から与えられた幸福の形が『幸福』でしかないのである。
でも、それが幸福の人たちもいるやんな、別にいいやんって思った。個人的に、正直「薄っぺらいのは何故?」と思ってしまうんだが、それが社会に依存している幸福なんだと思う。それもひとつの幸福の形だよなって思った。
マイノリティーがマジョリティーを受け入れる瞬間である。
それはマジョリティーからすれば、マイノリティーは敗け組で不幸組で見下されている。だけれど、それでいいやって思えば受け入れられる。マジョリティーがいてくれるから、私たちはマイノリティーでいられるのだから。
でも、これからの社会は、マイノリティーの集団がマジョリティーとして定義される時代に入ると思う。だから、今の社会依存したマジョリティーの意識(ツインレイである意識)は、排除されていく世界観かなと思っている。
今から三代目あたりに明確化されると思う。子孫に『迷妄者』がでてくるのか『理義者』がでてくるのか。三代目でキマる。そのときに、世界に適応しているのはどっち? って話。これはもう遺伝子の話にもなってくるんだが『今の自分』が三代目の世界観に適応できるかどうかは、また別の話なんだよ。
三代目に統合失調者がでて社会不適合となったら勝負が決まる。つまりなんだが、遺伝子が適応を見せるかどうかが見せ所なんだよな。子孫背負ってるねん、私たちは。結果は今でない、これからに期待。私が死んだあと、どのような結果が出るのかで勝負が決まる。
今の自分がよけりゃそれでよし——でやっている人たちは、三代目あたりでトチ狂う可能性あるってとこ。もう、芽がでていることに気づいている人たちは気づいている。
これが『社会の二分化』でもある。風の時代は早々にでてきているよ。面白いぐらいにね。赤裸々やろうが。
簡単に言えば、本当の自分の幸福=マジョリティーの幸福となっている人たちは、これからマジョリティーからマイノリティーの時代に入るからこそ、マジョリティーの幸福が崩壊する。
幸福が崩壊すると「自分がどうやって生きたらいいのかわからない」ってなる。
自分がどうやって生きたらいいのかわからなくなると迷妄者になる。自分のなかに指針がない。これが統合失調の芽になる。事実と現実を見極める能力が育たない。親がマジョリティーの幸福を持っているから『自分の幸福』がわからないのである。
これがずっと『三代目あたりで繰り返されている』のは、世間みればよくわかると思う。三代目で終わってるところ、多いと思う。
これを背負っているのが『定義上の長男長女』ってなってくる。家系を背負う者。
遺伝子のなかで一度、統合失調になった人がいて、そこから克服した遺伝子がいるのといないのとではまるで違う。
これからの時代、『エグい』と思う。現実が現実と判断しかねるような、よくわからない空想世界がデフォルト化していくから。
スピリチュアルが当たり前の世界になると言われているが、その『当たり前というマジョリティー』に呑み込まれて、正常な判断能力を欠落させていく人種が生まれてくる。
簡単に言えば「妄想が当たり前になっている人」と「妄想は妄想と遮断して判断する人」の二分が起きる。
自分に勝った人と自分に負けた人
自分に勝った人はマイノリティー化。社会から負け組。
自分に負けた人はマジョリティー化。社会からは勝ち組。
でも、これからの時代はマイノリティーの時代。今まではマジョリティーの時代だったと思う。
社会への適応がモノを言うのであれば、マイノリティーに進む人の方が幸福度が高いってこと。
人間の一番大事なことって時代への適応能力なんだよな。
時代に善悪はないが、その時代に適応する自分であり続けることができるとき、幸福は維持される。
アメリカはマジョリティー化するかもしれんな。社会の幸福は他人との比較による結果――みたいな。その兆しがきてる。
でも日本はマイノリティー化するかも。幸福は自分の価値観に依存する。
アメリカは世界に勝っても自国に負けたか。
日本は世界で負けて自国に勝ったか。
負けて勝ってる。それが真実の勝者。
社会に勝ってもなんもおもろくない。社会で勝ち組言われてもなんもおもろくない。
自分に勝ってる人達が、この日本に生まれてくる。そんな時代を目前に私たちは、自分の子孫の岐路にたっている。
なんかの予言であったよな。それの話をしてっかもしれん。
自分がある人って社会からは省かれる。でもさ、同じように猿も省かれんの。
自分がある人間と、欲求のままの猿は同じじゃない。でも同じ空間に突っ込まれてる。
はみ出しものであることには違いないから。
でも、人間でありたい人と、ありのままの猿は同じじゃないなって思う人たちもでてきた。
結果、神と獣に分類されるって話がでてくる。
とは言えど、これが起きるのも「一部の人間」だけ。
ほとんどの人は関係ない話だと思う。明らかにわかる人もいれば、わからん人もいる。
徳を詰んでいる人は神になるし、道理を踏まえて適応する。不徳がある人は獣になるし、道理もなく適応する。
明確にそれらがわかる時代がきた。
風通しがよくなって、土埃で見えんかったもんが見えるようになる。
猿は猿で意味があるねん。恋だよ。
神は神で猿を愛してるねん、道理がない恋を愛している。
じゃあ、何がわかるようになるのか。
猿でもなけりゃ神でもない、これは人ではないってこと。
それってなにか?
『人でなし』
これから人でなしと、人である人がでてくるよ。
じゃあ、この人でなしってなんだろうね?
あたい、わかるよ。感情(獣)がない、愛情(神)もない。
共感がないってこと。つまり、共感出来兼ねる人に共感する人がでてくる。それって「なんもない」ってこと。
なんも感じてないよ( ˇωˇ )
人がそこで野垂れ死んでても気にならんっぽい。どうでもいいみたい。
それって自分のことがどうでもいいってこと。本当の意味でね。
なとりもそういう人はどうでもいいみたい。
猿の方が可愛いと思ってる。反応があるから。
じゃあ、猿ですらない、神ですらない、人ですらない。それを『人でなし』って私は呼んでるけれど、これの固有名詞ってなんなんだろうな? って思ってる。
神――人――獣
これの真逆ってなんじゃろうね?
ヒットラーはロボット人間って呼んでたけどもね。
つまり、ルサンチマンだろうがなんだろうが、嫉妬があるだけマシってこと。
憎しみとかネガティブエネルギーがあるだけマシ。
人間ですらない人間がでてくっぞ。人間の面の皮被ったロボット。
私をそれをみた。反吐がでた。ニュースでは今、あんまり出てきてないけど、これから増えるかもしれない。
子供を守らねば。正義を持たせなければ。