運命を切り拓くだけの能力を持つ者だけが運命を乗り越え、宿命を組み替えていく。

2024年10月26日

| Ⓒ なとり

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ツインレイステージまとめ

私のステージが進むごとに更新していくステージをひとつの記事にして販売しています。


さよなら、ツインレイ Kindle版
さよなら、ツインレイ

当時はこれでおしまいなんだ・・・。そんな風に思いながら書いた『さよならツインレイ』。結果的にさよならしたのは、神交法の相手であるツインレイの霊体だった件。今更振り返って読んでみると納得がいく一冊だが、当時はよくわかっていなかった。

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地上のツインレイのサイレント期間中——。

このとき、私は、そのまま進めば、こんな風になったのかな? って人とタワーマンションで会った。

勝ち組なんだと語る彼女から私は「ツインレイ」の言葉を知った。

そして、私は「私は運命論は好きじゃない。」と言った。

理由は、運命やツインレイという用語で自分が抱えている問題がなかったことになるわけではないからである。

現に彼女はタワーマンションに棲みながらも、夫との関係性に悩んでいた。

そこからの逃避の材料として『運命』『ツインレイ』という用語を持ち出しては誤魔化しているように感じられた。

 

今もそうたいして変わらず——と言いたいが。

実際は、かなり精神的には許容範囲が広がった。

今や、運命を信じているとも言えるけれど、個人的に運命と宿命を語るのであれば。

運命とは、自分で切り拓いていくものであり、運命を語るのであれば、切り拓かねばならない課題がそこに生じ、問題を打破していく能力を備えていると言える存在になっていくことを意味していると思っている。

運命を突き進む人たちは『切り拓いた現実』と『切り拓くだけの能力』を持って運命を勝ち取っていく。

宿命とは、自分で背負うべきものであり、それは生まれもっているものとも言える。ありのままの自分とは、宿命ではないか——と思う。

私たちは宿命と言う存在である。ゆえに私たちは私たちから決して逃げることが出来ないことが宿命づけられている。そして、その因果というべきものが家系により生じている。

ツインレイがもし『運命の相手』だと言うのであれば、そこには立ちはだかる壁と壁を打破するだけの能力を兼ね備えなければならない。

私の場合『彼との関係性に精神的な問題』を抱えており、彼の場合『私との関係性に現実的な問題』を抱えていた。

と言ったところだろうか。運命の愛とは、いかようなカタチかへと変容しながら、運命という壁を与えている。切り拓かねばならないからである。

私は精神的な問題を切り拓いていくだけの能力を欲し、彼は現実的な問題を切り拓いていくだけの能力を欲した。

いわば、運命は自分で切り開いていくものだからこそ、その後、自分の想う未来を手に入れることができる。

これこそが『運命の愛』であり、愛の力によって成し遂げられるものだとも言える。

 

ただ、いささかツインレイ業界を見て回ってみると——。否、私は見て回っていないんだが。風の噂に聞けば、ツインレイを語ることで逃避している人が多くいるのではないかという話である。

現状、ツインレイであることを語ることで問題をなかったことにしている人が多数存在し、その方々に私は地上のツインレイのサイレント期間に出会ったとも言える。

彼らにとって『問題はなくなったのか』といえば、それはツインレイという用語でなかったことになり、現実、問題は常にそこにくすぶり続けているのが現状となっている。

 

私の場合、自分自身のいる階層に存在している問題を打破していくたびに、自分が抱えていた問題を抱えたままツインレイと再会したケースを垣間みることになる。

ひとりはツインレイの相手が嫌いなことを受け入れられずに『好き』と『嫌い』の分離を抱えたまま、ふたりは結びついたがゆえに、自分のなかにあるツインレイの相手が嫌いな人格が暴走しては、ツインレイであることに意味を持たしてなかったことにしている。

本来ならば、嫌いな人とは結ばれたいとは思わない。ひとりの人格を無視して嫌いな人と結婚したからこそ、ヒステリー人格が構成されてしまっているのである。ツインレイと自身を語ることになる。

ツインレイのふたりは『嫌い』を認識しなくなったとき結ばれることになる。

 

ひとりは救世主となった。自分のなかに存在している『愛』と『憎しみ』が分離を抱えているため、ツインレイの再会が出来ない。

ツインレイの相手に対して見返りがあり、その見返りが得られなかったために憎しみが募った。その憎しみは自分の世界を妄想性へと切り替えへ、自分の闇を常に現実へと転写させる。

その世界と思想は善と悪という概念により支配され、救世主となる当事者は愛により導き、同時に憎しみをも抱いている。

無条件の愛を唱えるが、そこにあるのは見返りにより生じた憎しみが主導権を握る条件付きの愛による世界。

ツインレイという用語は『憎しみ』に目を向けることが出来ず、ツインレイに愛されている自分への執着が生まれる。しかし、ツインレイの相手へ向けたものが見返りの愛であるならば、相手からも提供されているものは見返りの愛に他ならない。

ツインレイには憎まれていることを受け入れられず、また自分のなかにある憎しみに向き合うことができない所以は見返りの愛がそこにあり、憎しみ人格がそこに存在しているためにある。

ツインレイのふたりは『憎しみ』を認識しなくなったとき、結ばれることになる。

 

自分自身のなかにありもしない感情を「ある」としている人もいれば、そこに存在している感情を「ない」としている人もいる。

あるものはあり、ないものはない。その明確な判断をしていく必要性があるんだが、運命論は私たちのなかにある弱さにつけ入っては「ないものをある」「あるものをない」として自己都合的に解釈をする己を後ろ支えする。

 

私たちが運命を切り拓いていくとして、そのなかでも彼らは運命を切り拓くことが出来ずに、運命に呑まれた人たちだとも言える。

運命を切り開いた人たちは、運命を『運命』とは捉えない。私たちは既に運命を終わらせ、運命は当に現実として処理されている問題だからである。

運命を切り拓くことがなかった人たちは、運命を運命として捉え、運命に呑まれ、運命に依存する。運命が神から授かりし素晴らしいものだと思い、その素晴らしいものを享受している自身に恍惚としては自分のなかに存在し続けている問題から目を背け続けていく。

 

ツインレイの期間のうち、サイレント期間は『現実に向き合うこと』にあり、現実から逃避するがゆえに生じる精神的な弱さを浮き彫りにしていく。

現実に向き合いきるとき、私たちは自分の本心を受け取っていくことになる。

  1. 現実に向き合い、自分の弱さやトラウマを克復する
  2. 自分の弱さやトラウマを浄化する

というような順序で進んでいくのだが、現実に向き合い、自分の弱さやトラウマを克復することが出来なければ、自分の弱さやトラウマを浄化し、自己統合させる段階には進んでいくことができない。

このとき、運命論への傾倒性は、現実に向き合うことを阻害させ、当人を未だにモラトリアム領域へととどまらせようとする。

問題は、目の前にある現実を受け入れる弱さがトラウマの超克が出来ずに、私たちは未だに『ツインレイの人格の分離』が出来ずにいる。

私たちはトラウマによりツインレイの人格を分離させているがゆえに、ツインレイと同化している人たちは「ツインレイを夢見て幻想の領域にとどまっている」状態が続く。

この状態が続くことを私は妄想性や統合失調として認識しており、俄然、このままの状態が続くことは当人にとっても苦しいことである。また、彼らの特徴としては「自分の苦しみに気づいていない」という状態に他ならない。

現に、ツインレイが妄想としてそこに現れていることに『ツインレイの安心』として捉えているが、それは妄想である。妄想のツインレイと結ばれたいがゆえに、ツインレイの妄想といっしょにいることで停滞を続けているに他ならない。

私がなぜ運命論を忌むのか、その理由はここにある。

運命論を履き違えている人の多いことにあるのだと思う。運命は自らが率先的に動き、活動し、獲得していくものである。しかし、運命論へと傾倒している人たちの多くが「自分は何もしなくても大丈夫」なのである。

何もせずともツインレイの道は切り拓かれていくと思っているが、実際のところ、ツインレイたちに求められていることは動的作業にある。それもまたツインレイ女性の場合、精神的動的作業にある。

運命とはチャンスの連続にある。それは落ちるような穴を飛び越えるようなものだ。

しかし、その穴をチャンスと思わなければ飛び越えるのではなく落ちるしかない。

そして、落ちたまましっぽりと穴に納まり、安心を覚えている人たちも運命論者には多いように感じられる。

 

運命とは自ら切り拓くものである。しかし、切り拓くにしたって能力は必要である。

その能力を備えた人には、運命を乗り越えるだけの実力がある。

しかし、切り拓くだけの能力がないたちは、運命に対して乗り越えようとするのではなく、運命に呑まれようとする。

運命に呑まれたツインレイたちは、自らがツインレイであることをやめられない。

なぜならば、運命に呑まれたが故に『ツインレイ』なのである。

それは己の憎しみ、嫌いという感情から逃避した結果、ツインレイという運命に呑まれたのである。

ツインレイとは運命の相手である。否、ツインレイとは運命そのものとなり、いつかは己を蝕んでいく瞬間がやってくる。

それはツインレイの相手と『統合』したままだからである。そこにある依存は『嫌い』と『憎しみ』を生み出し、分離を迎えることが出来ずに精神体が一体となっているがゆえに、まるで親子のような関係性を模す。

そこにあるのは『運命論』という確固たる逃避材料がくすぶっている。

あなたは運命と同化したのである、そのとき、あなたはツインレイである。

私たちは運命ではない、宿命である。私たちは自らを切り拓いていくとき、必ずとも宿命を組み替えていく。

私たちが運命と同化し、運命を切り拓くことがなければ、宿命を組み替えることも出来ない。

 

強くなれ。運命論は常に私たちの人生を破壊する。現実をも妄想へと切り替えるだけの破壊力を齎している。

だからこその破壊力を利用して宿命を破壊し再生させることができる。

運命が破壊するべきは己の持って生まれた宿命であり、あなたの人生ではない。

あなたの人生を運命が破壊している人たちは「ツインレイ」を名乗っている。それが運命との同化だからである。

そして、運命と同化したツインレイたちは、今度は誰かを破壊する。その破壊を迎合した人たちは、己のなかにある運命を分離させていく。

ここまでくると、何が善で何が悪かは分からないが、悪は必ずあなたの味方となる日がやってくる。