助けてあげたくても助けられない自分を呪って。

Kindle版
さよなら、ツインレイ
当時はこれでおしまいなんだ・・・。そんな風に思いながら書いた『さよならツインレイ』。結果的にさよならしたのは、神交法の相手であるツインレイの霊体だった件。今更振り返って読んでみると納得がいく一冊だが、当時はよくわかっていなかった。
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一番に助けてあげたかったのは、彼のこと。
なんとかしてあげたかったけれど、なんともしてあげられなかった自分を呪って、私は彼の元を離れた。
あのときの私は、なんとかしてあげられると思ってたけれど、何も持っていない、何かを与えることも出来ない、ただの無力だったと思う。
自分の無力を痛感したのは、彼と出会ったこと。
私は彼を助けたいと思った。おこがましくも、私は彼を助けられる力を欲した。
今、ありがとうございますってレイキを通して言葉にしてもらえる機会が増えて、少しは「与えること」が出来るようになってきたのかな? と思っている。
大人とは『与えられるものがあること』なのだと思います。
そういう意味で、私は誰かに何かを与えられるほどではなくて——。ましてや誰かを助けることも出来ないほどに未熟だったのだ。
それが一番に情けないと思ったのは自分自身以外に他ならない。
神さんにも『貧しい心』と呼ばれるほどには、与えるものがなかったのだと思う。
この時期を私は『モラトリアム』と語るけれど、やっぱり私は青年期にいたと思う。
当時の私は、私を『声変りをする前の青年』と比喩していたけれど、確かに私は、未だに性を得ることもない段階にいたのだろう。
誰かに何かを与えることも出来ず、誰かを助けることも出来ず。誰かの心ひとつ満足に満たしてあげることも出来ない、見せかけの大人だった。
そのとき、私はまだ三十代の始まりのときで、未だに振り返って、あのときは未熟だったなァと感じられる。
彼は、私がどれだけ無力であるのかを痛感させた。私が何もできないところにいた。
彼もまた同じように無力を痛感したことだろう。それからどうなったのかを知らないけれど、きっと、私は彼の無力さを具現化したはず。
私は今、ようやく無力である自分を脱することが出来たと思う。
未来に見つけた一回り大きくなった自分の背中を追いかけ続け、私は今ようやくその背中となれたことを誇りに思う。
ようやく無力ではない、実力を持って、私が一人前として立ち上がることが出来たような気がする。
私は『幸せにしてもらいたい』人ではなかった。ただ、私は『幸せにしたい』と思っていた。幸せにしたいけれど、それは「与えること」からしか生まれない。
幸せにしたいのに、何もできない自分がここにいて、無力な自分がいて、それを呪ったのは私自身である。
私は呪われていた。確かに、私は私を呪った。あの日を境に私は私を呪ってしまったのだ。
その呪いが今解かれるときがきた。私はようやく『無力ではない』と思える。ようやく、彼を助けてあげられる、彼を幸せにしてあげられる力を取り戻した。私は確かに立ち上がれた。
当時の私にできたことと言えば『考えること』だけだった。自分のない頭を絞って考えることだけ。
そして、信念を持つ強さがあることだけが取り柄の人だった。
それを人に差し出すことしかできなくて、それは、自分を身を切ることでしかなかった。
私のなかに『なにもない』から、私は私を差し出していくことしかできない愚かなやり方しか出来なかったのだ。
でも、何もないことを痛感したからこそ、私は私のなかに『あるもの』を手に取ることが出来た。
自分のなかに『ない』ことに気づけたのは、心から愛した人がいたからである。
その愛が私を呪い、私を地獄に叩き落とした。私は私を地獄に自ら陥れたようなものである。
私は探し物をしていたような気がする。私が何かを手に入れるまでは帰れなかった。
私が愛のために、何かを差し出せるものを自らの中から見つけることができるまで、私は私の愛の具現化を果たすことができるまで、私は帰れなかった。
愛は精神的なもの。カタチはない。だけれど、精神をカタチにすることはできる。
それが『お金』とか、それが一般的だけれど、私は技術を欲したのである。
私は、愛をこの世に具現化したかった。私の愛を届けるには、技術が必要だった。この世で現実化を果たす必要性があったのだ。
愛が確かにここにあったのだと思う。
私は確かに自分の無力さを呪った。だけれど、それさえも愛だったこと。それがすべて私の技術として還元されたと思う。
もしかしたら「助けたい」という気持ちが救世主症候群とされてしまえば、確かにそれは問題だと思うけれど、それが心からの愛であるならば、きっと私はその誰かを助けることができるだろう。
私はようやく『帰れる』のだ。
私はようやく手に入れることが出来た。
これをもしかしたら黄泉の国と呼べるのかもしれない。
大国主が素戔嗚の元へ向かい、男として鍛え上げられた際、本当にヤガミヒメへの愛があるならば、それは確かに誰かに与えるものができる力を得たんだろう。
帰りたかった。でも、帰れなかった。だって何も持ち帰ることが出来なければ、あなたに何かを与えることも出来ない人間でありながら、あなたを幸せにできるなんて豪語できない。
ただ『幸せにしたかった』だけ。
心から、私は思っていたんだと思う。幸せにしたいって思った。そして、それが愛だったし、それが本当の愛だったからこそ、私は幸せにできるだけの力を持って甦る。
私は黄泉から『得るものを得た』し、人は皆、この地獄の探求、黄泉の探求で『得るものを得た』と思う。それが何かは人それぞれ違ったと思う。
私は、帰りたいし、幸せにしたいし、でも手ぶらじゃ帰れなかった。あなたを幸せにする力を持たずに結婚などできなかった。
未熟である。それは与えるものが何もないことである。
霊的な未熟とは、与えるものがないこと。
そして、青年期。
あなたが何を与えたいと思ったのか。何があなたの持つ『愛』なのか。
差し出せるものが人はそれぞれ違うけれど、愛が現実的な『何か』になったならば、私たちは一人前である。
一人前の霊となって、あなたの前に立ち、あなたに差し出したいものがある。
そして、与えられるものは人のためにだってなるだろう。そのとき、ようやく『呪いがとける』と思う。私はもう無力じゃない、人を幸せにできる力がある。
つまり、私は彼と出会って「なとちゃ、彼くんを幸せにするんだァ( ・´ー・`)」みたいなドヤ顔かましてたんだけれど、全くもって幸せに出来なくて、何もできなくて、無力を体感したんだ。どんどんと彼が不幸になっていく感覚すらした。
ものすごくショックだった。できると思ってたのに出来なかった。
その無力さに打ちひしがれてしまったわけで、そのまま、地獄に落ちた。無力な自分を呪ったからである。
そして、地獄で鍛錬していた。((⊂(`ω´∩)アチョ–
ようやく無力ではなくて、強くなり、幸せにできる! みたいな感覚が得られるまで鍛錬していた。これがサイレント期間。
ようやく彼くんを幸せにできる! みたいな感覚とか、彼くんを助けてあげられる! みたいな実感が湧いて「なとちゃ、ようやく帰れる」になった。
ただ、幸せにしたかった。たぶん、すごく純粋な想いだった。その想いが私を『与える力』を与えた。
人が愛のもと、何かを差し出したいって純粋に想えば、その願いは叶うんだと思う。
そして「かえりたい」って思うと思う。それが『黄泉がえり』ってことに繋がっていると思う。
だから今『ただいま』。幸せにする力を持って帰ってきた。
すべてが愛だったと思う。呪いも、愛だった。私にとっては、すべてが愛だった。私を苦しめるものも、すべてが愛だった。すべてが愛で、私が与える力を、あなたを幸せにするために得るために必要なものだった。
ただね「ありがとう」って言ってほしかった。「ごめんね」じゃなくて「ありがとう」って言ってほしかった。
ごめんね、それは私が身を切っていたから。
ありがとう、それは私が与えることができるから。
とても衝撃的でした。ごめんねじゃなくて、今度はありがとうって言ってほしい。
私の人生で、これ以上に人を愛することはなかったでしょう。
そして、その愛が『叶った』のも、今、このときだと思います。
何もできない自分が苦しかったけれど、自分をも助けられたと思います。
今はもう何もできないなんてことはないからである。
私が持った絶望はただひとつ。大事な人、愛する人さえ、助けることができない自分自身である。
私自身が『絶望そのもの』だったと思います。苦しかったです。何もできない自分が苦しかった。
苦しみは愛ゆえ。愛は苦しみゆえ。
地獄は愛ゆえにそこにあり、いつだって愛を齎すとき、地獄は現れる。
あなたのなかに地獄があるのであれば、それは愛ゆえである。
あなたが誰かを愛するために地獄がある。
あのときの私はまだ子供で、未熟で、与えるものさえ持っていないのに、誰かを幸せにできると思い込んでいた。
それすらも今は懐かしい。
できないのにできると思い込んでいた自分が、今は愛おしく、ほほえましい。
あのときは若かったと、今ならば笑い話。