天使と悪魔の共存と、悲しみ(∞)
Kindle版
さよなら、ツインレイ
当時はこれでおしまいなんだ・・・。そんな風に思いながら書いた『さよならツインレイ』。結果的にさよならしたのは、神交法の相手であるツインレイの霊体だった件。今更振り返って読んでみると納得がいく一冊だが、当時はよくわかっていなかった。
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私のなかにあるエネルギーの方向性が真逆であることに気づいた。
本来、右回りであるべきなのに、左回りとなっている。いわば、これは私が『他者』として生きている証拠でもある。
私たちは、相手を見るとき、右回りに見ている。自分からは左回りにみえている。つまり、私にとって他者とは私なのである。
彼とは私なのである。それが真逆であるということ。
私にとって、この世界は、すべてが真逆なのだ。
∞のカタチを導き出した。
私のなかで、∞が存在しているんだけれど、これはふたつの円がどのように成立しているのか——である。
一つ目の〇を右回りとすれば、もうひとつの〇は左回りとなっている。
これは、もう一方は『逆』となるが、逆とは何かである。それは空間的に反転しているという意味であり、左右の反転と上下の反転を合わせて逆であり、これを鏡とする。
まず、右回りが『善』として存在しているのであれば、左回りは『悪』とされる。
この構造がセフィロトの樹とクリフォトの樹(悪魔の樹)の構造である。
しかし、左回りとは何か。それは悲しみである。悪の根底には悲しみがある。
善悪に囚われている私たちは、悪の下に存在している悲しみに触れることができずに「悲しみを悪」として捉えてしまう。
それでも、左回りに生きている人たち。利き脳が右の人たちにとっては「悲しみは悲しみ」なのである。悪とは捉えることができない。これが『エンパスが絶対的な善人である』という思考回路にあたるのではないかと考えている。
エンパスのなかに悪は存在していないが、悲しみにより存在している悪を見続けている。
自分のなかにあるエネルギーの方向性を切り替えている。
しかし、私は「右回り」も出来るし「左回り」も出来る。
つまりは、どっちも回すことができるけれど、本来、人間とは右回りの人体構造をしているのだということ。
霊的なものを肉体に受肉させるのであれば、霊が左回りであるはずだから、肉体とは『∞』という構造を持たねばならない。
いわば、左回りの学習をしなければ、霊の受肉はなかなか難しいということ。