傲慢——だから、私はやり直せない。 彼がそれを望んでいないからである。

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さよなら、ツインレイ Kindle版
さよなら、ツインレイ

当時はこれでおしまいなんだ・・・。そんな風に思いながら書いた『さよならツインレイ』。結果的にさよならしたのは、神交法の相手であるツインレイの霊体だった件。今更振り返って読んでみると納得がいく一冊だが、当時はよくわかっていなかった。

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私のなかに存在している『傲慢』をようやく捉えることが出来た。

シュタイナーが論じているアーリマン・ルシファーは、これのことを指していると思われるんだが、たぶん、シュタイナー自体の説もまだ曖昧だったんじゃないかなと思った。

さて、この話のどこが傲慢なのか——なのだが。

だけれど、私が縁を切る行動をとったのは、根底にある絶対的な信頼も存在していたことも事実なんだ。

「この縁は切れない」っていう絶対的な信頼。

LINEを断ち切ろうが、私の持っている彼へと繋がる手段のすべてを打ち切ろうが、私と彼の縁は絶対的に切れない信頼。

だから、私は、自分で彼との縁を切った。

引用:私が連絡先を消したり、データをすべて削除をした理由と、私が持つ私への絶対的な信頼。

ここである。

私が彼との縁を切ったとしても、絶対的に切れないだろうと思える『絶対的な自己信頼』。

これこそが私のなかに潜む傲慢である。

もし、理論上だけならば、確かに可能なことだと思う。そして、それを私は実行した。

だけれど、ここには絶対的に重要なものが欠けている。

それが『心』である。

私は、彼と私の縁を切っても、絶対的に大丈夫だと思うだけの絶対的な自信を持っていた。

つまり「彼と私はやり直せれる」と思っていたということ。

この部分で、私は「彼の気持ち」についてちゃんと考えることが出来ているんだろうか?

そして「私の気持ち」についても、ちゃんと考えることが出来ているんだろうか。

この点、この傲慢さの暴走は、一切に私の気持ちも、彼の気持ちも無視しているのである。

 

この傲慢さの代償というものとして、私は彼との縁を失ったのだということ。

今回の私の暴走は、結局、このような結果を出した。

理由はワカラン。

なぜ、こんな風に傲慢が暴走したのかもわからない。

ただ「何かが起きていた」ことだけはわかるんだが、それが「何か」なのかもさっぱりわからない。

しかし、私のなかにいる『傲慢』は、満ち満ちたエネルギーであり、やる気に満ちている。

そして「できる」という絶対的な過信をしている。

それは、私ならば再び縁を繋ぎ直して見せるっていう絶対的な自信。

これこそが、私のなかに存在している傲慢であるならば、私はこの傲慢さんをいさめなければならない。

 

「やり直せる」と思っていることが、そもそもの問題。

切れたものを再び結ぶことは出来ても、切れたものが再びくっつくことはない。

壊したものを戻すには時間を巻き戻すしかない。この世の時間は一方通行だから元通りになることはない。

「破壊」には「再構築」が存在している。

しかし、その再構築を行ったところで、破壊したものと『同じもの』が出来上がるわけではない。

ゆえに「やり直せる」とは言えない。

そして、それが「出来る」と断定し「やってみせる」と思い切ったところが、私のなかの過ちであり、傲慢である。

 

やり直そうとするには、それこそ、ふたりの関係性であるならば。

それは、どちらもが歩み寄る必要性がある。

一方だけが向き合おうとしても難しい。

もう一方が向き合う気持ちが無ければ、やり直しは出来ない。

だから、私はやり直せない。

彼がそれを望んでいないからである。

悲しいけれど、これが今んとこの事実だと思う。

でも、人の気持ちはどうしようもないよね? って思った。

だって、私の手の及ぶ範囲を通り越しているから。

それがもし意思であるならば、どうしようもない。

 

これが彼の意思であるならば、それを受け入れるしかないなと思った。

 

つまりさ。

彼からすれば、私の思いだって、私がどうしたいとか。どんな気持ちなのか——みたいなことは、彼の意思の前では拒絶されてしまう。

彼はもうそもそも「私を受け入れるつもりはない」ってことなんだと思う。

その姿勢をしている人に「やり直したい」って言ったところで、どうしようもないのに、私はずーっと彼の家の前で、彼が家からでてくるのを待っていた。

でも、彼くんは全く家からでてこない。

これはもう「意思」なんだと思う。

「そうしない」ってこと。それをやらないことにしている。

だから受け入れてはもらえない。

だから、私も、受け入れてもらえないことを受け入れるってことだな。

そこにいかなる動機があるのかは私は知らない。

それがどれほど素晴らしい美学なのか、それとも浅ましい感情論なのかはわからない。

だけれど、彼は「受け入れたくない」わけで、だとしたならば、それが彼なんだろうなと思う。

つまり、私とやり直したくないのが彼で、私を受け入れたくないのが彼。

そういう意思がある人を、私は受け入れる。

同じように私も「やり直したい」っていう意思があった。

意思のぶつかり合いがあったんだと思う。なるほどなと思った。