大人と子供の違い。ツインレイとして、私が大人になるってこと。
Kindle版
さよなら、ツインレイ
当時はこれでおしまいなんだ・・・。そんな風に思いながら書いた『さよならツインレイ』。結果的にさよならしたのは、神交法の相手であるツインレイの霊体だった件。今更振り返って読んでみると納得がいく一冊だが、当時はよくわかっていなかった。
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ツインレイとして、私が大人になるってこと。

大人と子供を別けてみたのだが、大人が『大人ではない』ことがしばしばあり、その件について。
子供とは精神的な発達を意味し、大人になるとは現実へと適応する精神を持っていることを意味する。精神と現実のギャップを埋める際を『青年期』とする。
大人とは、共感性と現実性の両方を両立させ、自己現実を果たす存在にある。精神的な豊かさと、現実的な豊かさの両方を兼ね備える。
しかし、昨今の大人として「子供だった時の苦しみを放棄して大人になる人たち」が多く、その苦しみを自分の子供にも与える存在たちがいる。これが負の連鎖や虐待の連鎖など呼ばれている事例である。この場合、子供だった時の苦しみを消しているので、子供が育てることになる共感性が欠落している状態にある。
もうひとつとしてアダルトチルドレン。精神的な傷つきを抱えたまま大人になり、現実や事実へと適応することがなかなか難しい状態に陥っている場合がある。
大人モドキやダルトチルドレンたちはスピリチュアルリズムに傾倒しやすい傾向性があるために、ツインレイ界隈でも多い種別のような気がする。
大人モドキ・アダルトチルドレンの共通点は、現実適応に難しいことがあげられる。
大人モドキは現実適応のために、精神的な傷つきを排除し捨て去る傾向があるために共感性を欠落させる。
アダルトチルドレンは現実適応よりも精神的な傷つきの比重が多く、捨て去り排除することが出来ずに現実適応を欠落させる。ゆえに「子供のまま」なのである。
大人になるとは、子供の時に傷つきを繰り越さずに癒し、次に、現実を受け入れるだけの度量を培うことにある。これが現実による責任なわけなんだが、責任がとれない状態のままであることが『大人モドキ』である。アダルトチルドレンは逆に責任逃避型でもある。
私たちのなかには、大人モドキの部分(傷つきが自己分離している)、アダルトチルドレンの部分(傷つきが分離していない)の2種類が存在し、自己分離している部分は自己統合を果たし、統合されている部分は心を癒していく必要性がある。
いわば、子供から大人になるに渡り、私たちはアダルトチルドレンになり、次に大人モドキになる傾向がある。大人モドキになるには、アダルトチルドレンの肝となる精神的な傷つきをすべて分離させ、認識しないことにより『大人』となれるわけである。
ゆえにアダルトチルドレンの進化系が大人モドキってことになる。大人モドキになれないアダルトチルドレンは傷つき苦しみ続けることになる。
つまり、心を捨てて大人になるのか。はたまた、心を捨てずに大人になれない子供のままになるのか。どっちかでしかなかったために『未熟』のままなのである。
大人モドキは無責任に結婚をしたり、子供を生んだりする傾向がある。つまり子供のままだが、オママゴトのように大人のフリをして生きていく人たちである。(ゆえに離婚しやすいし、子供を虐待の連鎖に巻き込んでしまう)
アダルトチルドレンは責任を回避する傾向があるために、結婚したり、子供産んだりすることを望みはしても、手に入れることがなかなかできなかったりする。だからといって心捨てろっていうの? 無理・・・・・・・ってなってしまう。
大人モドキも未熟だし、アダルトチルドレンも未熟である。
そして、自己統合とは何か——だが、それは『子供だったことを覚えている大人』のことである。または『子供だった時の自分を受け入れることができている大人』である。
青年期とは、子供だったときの自分を受け入れることであり、それは傷つけられた経験を受け入れたりすることでもあるんだが、本来は現実に適応するために責任感を培う年代とも言える。それまでは親に従い、守られている段階から、次の段階である自分のことは自分で決め、自分の責任をとる時期である。
しかし、このときの大人モドキになる人たちは、精神的な傷つきを無視し、無責任な大人になる。子供だったときの自分の心に親が向き合うことがないことで成立する。親が「自分は悪くない」という姿勢で子供にすべての責任を背負わせることにより、子供は「子供のまま」となる。
このとき、大人モドキもアダルトチルドレンも『自信』と『責任』が決定的に欠落している。大人モドキは自信のなさをひた隠しにしながら生き、アダルトチルドレンは自信のなさを露見させながら生きるしかない。
また、大人モドキが『現実的成功』を手に入れた際には、傲慢となる。
アダルトチルドレンが『精神的成功』を手に入れた際には、大人となる。
また、大人とは『精神的な幸福』と『現実的な幸福』の両立となる。
大人モドキは、精神的な幸福が何かを知ることはなく、現実的な幸福が『幸福』だと思い込み、比較をしながら傲慢となる。誰かよりも優れている生活をしている自分を絶対視するのである。
ここでのひとつの課題は『大人モドキ』と『大人』の違いを明確に認識せよってところのなのかもしれない。
子供だった時の心の傷つきを受け入れている人たちは共感性を持って生きているが、忘れてしまった人たちは共感を失い、もし、その人生が成功することがあれば傲慢へとなる。しかし、私たちは自分が傲慢になっているどうかに気づくことはない。もし、傲慢になっていることに気づいているのであれば、それは傲慢とは言えない。
大人モドキは見せかけの幸福と、中身のない自分を持ち、自信のなさと一人で生きる頼りなさを感じている人生である。また、依存心や依頼心を持ち、支配しなければ自分の居場所に安心することはない。
大人モドキは、アダルトチルドレンを見つけては心の隙間につけ入り、安泰しようとしているようにうかがえる。
いわば、大人モドキという子供だった時の自分を捨てた人たちは、アダルトチルドレンという未だに子供だった時の自分を抱えて苦しんでいる人たちにつけ入るようにして抱え込む傾向がある。
私がツインレイのことで過去見てきた事例は、これかなと思っている。
というか、私自身が彼との出会いは『大人モドキ』と『アダルトチルドレン』のふたりであった。だからこそ、ふたりは支配と従属という関係性を持っていたし、しかし、このままじゃいけないと自分を先に進めることは「子供だった時の自分に会いに行こう」ってことだったのだと思われる。
私は、
- アダルトチルドレンと大人モドキのカップリングになる
- 相手と自分の関係性が反転する関係性を持つ
と順番に事例を見てきているのだが、先ず、1のカップリングは『他者』により見れらたため、自己分離が完成しているとする。そして、それが私の未来ではないからこそ、他者により自分の世界線を見せられる。
次に、相手と自分の関係性が反転する相手と出会う。大人モドキがアダルトチルドレンになり、アダルトチルドレンが大人モドキになる関係性である。支配関係が反転することになるが、これも上手くいかない。
この2点を満たすことで、次の段階における『大人』へと進むことができる。
いわば、私が彼と過去に再会することがあれば、それは『未熟のまま再会していた』ということであり、大人になっていたわけではないのである。
そして、この道を決定的に決めつけたのは、彼とのサイレントの始まりのときのことである。このとき、私たちは『大人になること』を決めたのである。それは、アダルトチルドレンでもなく、大人モドキでもなく、見せかけの大人ではなく、中身も表も全部大人になる必要性があるということ。
今回、私は姉という『大人モドキ』と話したとき、私は『アダルトチルドレン』だった。姉は私と言うアダルトチルドレンを作り出すことによって、姉は『大人になった』のである。そして、その姿を私は「大人」とは思わなかった。なぜならば、共感性を持たない、謝罪ひとつまともにできない、責任をとることができない人が大人だとは思わなかったからである。
このとき、私は『大人モドキ』という世界線には乗っかっていない。
私は否定により、導き出すのである。そして『大人とは何か』を理解していく。
これは、正解を与えられていないからこそ、否定によって『では、どうあるべきなのか』と考えることにある。
大人とは、行動の責任、発言の責任、影響の責任をとることであり、決断の責任をとることでもある。
責任とは『精神』に由来している。子供である自分を全て受け入れていく私たち、自分たちが子供だったことに責任をとること、それが私たちの精神的な大人になることに繋がっている。
子供だったときの自分を責任をとることができた私たちは、過去の傷に多く触れ、自分の心の痛み、苦しみに寄り添うことになるだろう。しかし、それこそが私たちが『私たちである』という責任にある。人が人である責任である。
自分が子供だった時の責任をとることが出来るようになれば、大人になった際、現実における責任もとることができるようになっていく。
つまり私は、最初、大人モドキ×アダルトチルドレンっていうカップリングの道を彼くんと進んでいた。でも、これ違くね? ってなったので、解除した。
したらば、次に、大人モドキ×アダルトチルドレンのカップルに出会う。このカップルを観察し、どう思う? って考えるわけなんだが、自分が否定したものがそこにあるって感じ。本来は、あのまま彼くんと私が結ばれていれば、私たちはこうなっていたって感じかな。
次に、関係性を反転させた関係を構築するが、そもそも、反転させようが「違くない?」って思うので解除される。解除されたら、次に『アダルトチルドレンの自分』『大人モドキの自分』を癒していく段階に入る。
ゆえに、最終的には『大人モドキ』『アダルトチルドレン』の両方を否定し、同時に『カップリング』も否定している。
否定(大人ではない)すれば、肯定(大人である)がやってくるので、それが『大人になる』ことである。
ただ大人になろうとしていただけなのかなと思っている。
どうして大人になろうとしたのか。それは愛かな~と思う。
アダルトチルドレンの相手を愛するとき、子供の心を受け取るし、それを愛した。他者愛。
大人モドキの相手を愛するとき、分離した子供の自己を演じることになるし、そんな自己(自分)を受け入れた。自己愛。
だから、相手を愛したってことなのかな? って思っている。
子供の時だった相手を愛したことは、子供だったときの自分を愛することに通じている。
そして、子供だった時の自分を受け入れていくことは、徐々に『大人になる』のだと思う。