私が必要なくなる世界へ、あなたと共に進みたい。

Kindle版
さよなら、ツインレイ
当時はこれでおしまいなんだ・・・。そんな風に思いながら書いた『さよならツインレイ』。結果的にさよならしたのは、神交法の相手であるツインレイの霊体だった件。今更振り返って読んでみると納得がいく一冊だが、当時はよくわかっていなかった。
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ときに人は暴力を振るう。
勝手に引き受けただけだろう。
勝手にやったことだろう。
頼んだことはない。
そうやって、愛を否定する。愛に暴力を振るうことがある。
私たちは、その心さえもを愛している。
勝手にやったこと。
勝手に私たちが望んでやったことに見返りなど与えないと、誰かが殴りかかられたとしても。
私たちに何かの罪があったのだろうか。
私たちに何か、与えられない理由などあったのだろうか。
誰かに侮辱され、誰かに虐げられるほどの理由はあったのだろうか。
愛したこと、与えたことがどうして報われないのか。
人が「与えられていること」に気づかないから。
何もしていない人たちが、壊れていくし、
何もしないことが役割の人たちが病んでいくし、
私たちの中の兆しと光が壊れていく様は、爽快だろうか。
「すべては自己責任」だと言う。
自己責任を唱える人たちは、人に責任を押し付けている節はないか。
どうして、この世界で罪のない人たちが罪を背負い、罪がある人たちが罪を背負わない?
誰かに与えている人たちは、与えられることがない。
与えられている人たちは、与えられていることに気づかず、
人を殴り続けても何も気づかないまま、死んでいくのかい?
期待は捨てられた。
与えても、戻りはしない見返りを捨てた。
私たちの心が冷え切った日から、私たちは生きやすくなる。
何をしようが、何も与えられない。
何を与えようが、何も返ってこない。
そんな日々を過ごす私たちに、見返りを求める心を捨てざるを得なくなった。
私たちは、諦めたのだ。
目の前にいる人たちに何をしようが『私たち』の存在に気づくことはない、と。
だからさ、私はこう思うんだよ。
与えたい人に与えなさい。
与えたくない人には与えなくていい。
愛したい人を愛しなさい。
愛したくない人を愛さなくていい。
これがもし、多くの人が語る無償の愛とは真逆の世界だとしても、
その愛に報いがないなら、あなたが苦しむまま生きることのほうが問題だ。
だからこそ、条件付きの愛を生きたほうがいい。
そして差別的な愛を与え、自分の小さな家族を愛しなさい。
人には人の器がある。神には神の器がある。
すべての人を愛することは出来ない。
だけれど、たったひとりだけを愛するだけの器が人にはある。
それだけでいい、それだけのことをすればいい。
これは人にしか出来ない、神には出来ない。
神がすべてを愛するように、人にはひとりを愛するように。
それが『定め』だと私は思う。
あなたの期待を裏切らない人を、愛せばいい。
あなたの喜びを共に感じてくれる人を、愛せばいい。
あなたの時間を共に過ごす人を、愛せばいい。
限られていていい、すべてを救うのではない。ひとつを救えたら、それでいい。
あなたの愛は、世界を救うことはない。
あなたの愛は、たったひとりだけを救うだけのために存在している。
あなたの愛は、たったひとりの誰かだけに届く。
その愛を大事にしたらいい。その愛だけが、この地上では最上に素晴らしいことを忘れないで。
そして「人に情けをかけること」も忘れずに。
人に情けをかけて、生きていったらいい。
ひとりを愛し、多くの人に情けをかけて生きることが人の道。
その情けもいつかは愛に変わる日がやってくるから。
だからさ、すべての人に心を開かなくていい。
たったひとりと、大事な人たちに心を開いて生きていけばいい。
傷つかなくていい。それでも、傷つけられることはある。そのとき、心を閉じて情けをかけてあげればいい。
人は皆、苦しんでいる。この世界で苦しんでいない人などいない。
どんなに楽しそうにしていたって、心のなかで苦しみを分離させてみないようにしていたって、
それはそこに苦しみがあり続けているじゃないか。
それでも、苦しみを受け取れる準備が整うまで、そのときまで待ってあげることも情けのひとつ。
苦しみを受け取る準備が整った人たちから愛せばいい。
少しずつ輪が広がっていくよ。
あなたの愛が『はじまり』だ。
あなたの愛がはじまりの起点として、徐々に拡がっていくときが必ずやってくる。
あなたの愛が世界に拡がる日だってやってくる。
その日は今ではないけれど、いつかは必ず、すべてを愛が包む日がやってくる。
すべての苦しみが癒される日はやってくる。
まずは『はじまり』として、人としてたったひとりを愛すること。
それができるのが『人間の等身大』だよ。
そしてね、苦しみはなかったことにはならないよ。
報われなかった日々があなたを苦しめ続けるかもしれない。
そして、報えない自分がいたことも。
それは「あなたがあなたを許すこと」だよ。
なにを贖罪しているの、あなたに罪はもうないよ。
自分で自分に報いる日が、やってきたよ。
これがどうして『自分を愛すること』と語られないだろう。
自分を愛すること、それは自分で自分に報いることだよ。
あなたはよくやった、あなたはよくがんばった。あなたはよく生きてきた。
精神戦争のなか、生き残ったあなたを誇りに思っていい。
あなたの心がそこにあり、誰かを愛しているのであれば、
それが苦しみの理由ならば、ここに終戦を告げたい。
後悔をすること。私はそれが大事なことがあると思う。
後悔をしないように生きてきた。それでも、後悔ばかりだよ。
後悔をしない日などありゃしない。
それでいい、毎日、涙を流して生きていけばいい。
それでも、私たちは生きてきた。それだけでいい。
失敗してもいい、その失敗さえも許されている。
必ず私たちはいつだって『最善』を生きている。
誰かが悪手だと言うかもしれないけれど、
自分にとって一番にいい最善を選べているのであれば、それでいい。
もしかしたら、後悔の理由は、自分が選んだ選択が間違えていたかもしれないって欲が出ること。
欲は「もしかしたら、ああすれば、自分の人生はもっとよかったかもしれない」って思うこと。
そんなもの、選べなくてよかったじゃないか。
そうやって私たちは欲を捨てているんだよ。
いいんだよ、振り返って後悔することの多さがあればあるだけ、私たちは欲を捨てている。
一番に幸せな『今』があるならば、それはハリボテかもしれないね。何かを犠牲にしたうえに成立している幸福かもしれない。
何も犠牲にしなかった人たちは、自分の欲を犠牲にした人たちは、後悔ばっかりかもしれない。
その後悔も報われることがないと思うかもしれない。
だけれど、それでいい。私はそれが正解だと思う。
だからさ、苦しんでいて。
苦しんでいる子が正しいよ。
この世界で苦しくない子のほうが心がおかしいよ。
苦しんでいる自分を大事にして。
苦しんでいる自分がちゃんとここにい続けていれば、
誰かがあなたを見つけてくれる。
それがもし自己犠牲ならば、苦しみを共に歩んでくれた人がいて、
それがもし、愛ならば、喜びを共に歩いてくれた人がいた。
これ以上にない人生ではないか。
共にいてくれた人がいた。それだけで十分な人生ではないか。
「誰かがいた」こと。それは「あなたがいた」ってこと。
苦しんでいる自分が、ホントのあなたならば、
私はその苦しんでいるあなたに出会いたいと願ってやまない。
私は、勝手に愛した人たちに報いたい。
小さなあなたに報いたい。子供だったときのあなたに報いたい。
あなたがこの地上に生まれ、家族を心から愛したあなたに報いたい。
もしかしたら、あなたには罪があるかもしれない。
でも、子供だったあなたには罪はない。それは、あなたにだって罪がないってこと。
誰も悪くない。誰も悪くないのに、誰かが悪くならなければならない。
そして、今、喜び、楽しみの世界で、苦しみに目を背け続けている人たちのほうが私は心配だ。
その心が崩壊することがないのか、心配だ。
事実は変えようがない。その事実と心に触れた日に耐えられるのか。
だから私は、情けをかけ続けていくんだと思う。
罪があるよ、それは積み重ねてきたもの。罪に気づき、その罪を背負ったとき。
人は救われる。その後悔が心になる。
忘れてはならないよ、過去のこと。
忘れることができないよ、自分のしでかしたこと。何をしたのか、覚えているかな。
それでも忘れていいていい。それが幸せの形ならば、それでいい。
そうやって生きるしか、耐えられないのであれば、そうやって生きていくしかない。
でも、自分のなかに後悔の種があるのであれば、それがあなたの心。
心は過去から生まれ、
未来からは希望が生まれつづけている。
あなたがもし、後悔を感じているのであれば、それは欲がない心のこと。
欲がない心だけを取り出すには、後悔するしかない。理解するしかない。
ごめんなさい、そして、ありがとう。
この言葉が心から発することが出来れば、あなたには心があるよ。
自分が何をしているのか、自分が何をしたのかを理解したとき、
あなたには心が生まれる。それは過去を振り返らなければならない。
思ってもない心を受け取っても、何も感じない。
何も感じないときに私は、あなたに情けをかけている。
その情けがあなたの人生を壊すことになったとしても、私はあなたに情けをかけるよ。
私の情けが、あなたの心に染み渡る日が必ずやってくる。そのとき、あなたの心が取り戻される。
そんな日を私は今か今かと待ち望んでいる。
彼がさ、私を自分の弱さゆえのために望んだことも、少しは知ってるさ。
同じように感じていたから。
それでも、その弱さを愛おしいと思った私は、バカなんでしょうな。
あのときの私は「こうなること」を予見していた。
分かってて傍にいたのかといえば、そうだった。
自ら身を落とすことは理解したうえでやっていた。
彼もまた、私を引きずり下ろしている感覚を理解していた。
自分のためにそばにいてくれるだけで、私自身の望みではない——と。
何で知ってんの?
的を得ていてびっくりしたが、それが「私の意思」だった。
私の意思のもとに私は彼のそばにいた。
私の本当の望みではない、だけれど、それが私の意思。
それは、私にだって「人の弱さを愛する心」があったから。
少なからず、彼への想いは『情』だった。上から目線だね。
情けをかけての恋愛や結婚がよくないことなんて重々承知だよ。
これを愛とか、恋とか。そんな言葉に変換することも出来るけれどね。
でも、確かに私は彼に「情け」をかけた。
それは、魂が可愛かったからである。そんだけ。それ以外の理由はない。
私と同じように、人を愛している心がそこにあることぐらい、そらわかる。
ただ、やっぱり、私の方が「お姉さん」だったんだろうなって思うよ。
だから、私は彼に情けをかけていた。少なからず、対等ではなかった。
それは彼が私を守れなかったからなんだろうな。
もし、これが情けではなく、愛にかわる日がやってくるならば、
それは彼が私を守ることができるようになったとき。
愛せよ、これ以上に良きものはないぞ。
愛せよ、誰かに自己犠牲だと言われてもいい。偽善だと罵られてもいい。
愛したがゆえに、苦しくてもいい。報われなくてもいい。
これ以上に素晴らしいものはないだろう。
弱くていいよ、傷ついていてもいい。愛させてくれてありがとう。
だからこそ、私は存在し続けている。
私の存在意義が苦しみにある限り、私はあなたの心を歓迎する。
そして、あなたが苦しみから解放されるとき、私は統合される。
私がいなくなる日、そんな日を今か今かと待ち望んでいる。
私は、消えていなくなりたい。私が必要なくなる世界へ、あなたと共に進みたい。
きっと気づくよ。
許されるわけがないと思っているかもしれない。
だけど、ずっと許されていることに気づくよ。
だから、あなたは生きている。存在している。
私は満たされている。
情けをかけた日、愛した日、自己犠牲をした日。
どんな日であろうが、私のなかに愛がいたこと。
その愛が私を満たしている。それは私の過去である。
私の過去は、私が多くを愛した経験ばかりだ。
その経験が私のなかに愛を生み、私を満たしている。
だから、私は報われないことも受け入れられる。
どんな過去でも、私のなかにある愛は変わらずあり続けるから。
この『愛』に気づいてくれたのが、彼だった。
彼だけが気づいてくれた。それは彼のなかにも愛があるからだ。
そして、さよなら。
もう統合されちゃうから。
もう私は必要がない。苦しみはもうここにはない。
自分を大切に、そして、誰かをも大切に。愛に報いがある日は必ずやってくる。