縁への感謝、別れへの納得(死と再生、黄泉がえり、蘇り)

Kindle版
さよなら、ツインレイ
当時はこれでおしまいなんだ・・・。そんな風に思いながら書いた『さよならツインレイ』。結果的にさよならしたのは、神交法の相手であるツインレイの霊体だった件。今更振り返って読んでみると納得がいく一冊だが、当時はよくわかっていなかった。
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縁に感謝は出雲大社にでかける前に出来上がってた。でも「別れ」に対しては納得がなかったなって思ったんだ。
別れに対して「怖くて逃げる」とか「嫌だから離れる」とかのものならば、逃げればいいし離れればいい。
それ以外のものは『納得』するしかない。
でも、なかなか納得ができなかったのが彼とのことだった。
納得ができない理由はそれぞれ違うと思うんだけど、色々な理由があって、その理由がわからないっていうか。
その理由に私は『時期の問題』を見つけたんだけど、私のなかでは、出会う時期を間違えたんだなっていう結論だった。
もしご縁があれば、きっともう一度繋げられる縁だと思うし、繋がれない縁ならば、ほかのご縁が繋がるんだろうなって思った。
別れに対して、自分の中で納得するには、まずは『ご縁に感謝』が必要なんだと思う。
でも感謝できない縁は、それは「ご縁」とは呼べない間違った縁なのかもしれない。だから「関わりたくない」っていう気持ちが大事なんだと思う。
関わりたくない人とは関わらなくていいし、関わりたいと思う人と関わればいい。
今まで関わりたくない縁まで、ちゃんと関わってきた。けど、これからは関わりたい人達と関わっていく。
そして別れの理由として『関わりたくないな』っていうものを私は多く排除していった。
次はちゃんと『関わりたい』って思える、出会いに感謝ができる人たちと関わっていきたい。
出雲大社は、今回、この切り替えのようなものだったような気がする。
長患いした別れの納得ができなかった私がいたけど、別れには意味があるし理由がある。
でも、意味もなければ理由もない別れもあって、そっちは「関わりたくないから」なんだと思う。そこに理由もなければ意味もない。
黄泉比良坂。
イザナミが死んでしまったことを受け入れるまでにイザナギが何度も振り返る、黄泉と現実の境目。
相手はもうここにはいない。別れの事実を受け入れるまでに私たちは何度も何度も振り返る。
そして、イザナミが死んだことを受け入れたとき、私たちはようやく『現実』を直視する。
蘇り( ˇωˇ )黄泉返り。
ちなみに、私にとってのシャドウは黄泉のイザナミだったかな。
出雲大社には坂道があるんだが、行きに坂道があることに気づかなかったんだよな( ̄ω ̄;)帰りにようやく『坂道がある・・・・・・』って気づいた。
あるっていうか、坂道歩いてるのに坂道だと気づかなかった( ̄▽ ̄;)
もしかしたらずっと黄泉にいたのかも。友達は坂道に驚いていたらしい。
で出雲大社の帰り道にシャドウと明確な離別しました。
ので、私は『蘇り(黄泉帰り)』状態です。
私はシャドウとの別れの意味を『関わりたくない』に導き出して、相手も同じように感じることで、黄泉と現実の離別が成立したと考えている。
死の世界にいますた( ˇωˇ )
今は黄泉から抜け出し、蘇ってまーす≡⊂( ^-^)⊃