『みんな』という概念を受け入れて半身半霊化。

2025年1月4日

| Ⓒ なとり

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ツインレイステージまとめ

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さよなら、ツインレイ Kindle版
さよなら、ツインレイ

当時はこれでおしまいなんだ・・・。そんな風に思いながら書いた『さよならツインレイ』。結果的にさよならしたのは、神交法の相手であるツインレイの霊体だった件。今更振り返って読んでみると納得がいく一冊だが、当時はよくわかっていなかった。

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みんなと生きていく。そんな思想を受け入れて、思い出したことがある。

私が「みんな」という概念を受け取った瞬間のことだ。

 

幼稚園の年長さんで、もうすぐ小学校に入るだろうときのシーズン。

お母さんがお迎えにくるまで、それぞれみんなが遊んでるときに、ふと私は我にかえり、教室を見渡した。

すると、そこには「みんな」がいて、みんなはそれぞれ自分の好きなことをして遊んでいた。

そのときの私は『無』だった。そこに私はいなかった。

みんなのなかに私は組み込まれていないのである。

 

これは何度か子供の頃から繰り返された。

「みんながいる」と自覚されると同時に、私の中には多くの無価値感がこみあげてきては、ここにいる価値がないと思う。

みんなにとって私はいなくても同じこと。変わらないのである。

私にとっての無有の価値観は、

  • 有・・・・・・みんな
  • 無(死)・・・・・・私

により構成されていたのである。私は無なのである。

今回、無有をひっくり返した。

私が「みんな」になったからである。私は私を消失させ、みんなとなり、みんなから「私」をうみだし、私は存在することになった。

すると、無がみんなになった。

深淵のそこには「みんな」がいて、私はみんなと生きていくことになった。

 

フィールド的な「みんな」を認識すると、私は無だったから、みんながいる場所では常に虚無っていたんだなと思った。

みんながいると私は消えてしまうのである。だから私は「みんな」にならなければ、存在が出来なかった。でもそれでも自分はいない。

エゴの消失である。

で、最後は自分が生まれて、みんなと生きていく。

 

幼稚園のときの課題だったんだなと思った。

ずっと仲間はずれを感じていたのである。

私は、この世界から外れている孤独を感じていたのだ。

私は何者でもなかったのである。私はつい最近まで存在すらしていない無だったのだから。

 

なんだかとても不思議な気分。

たしかにそうだよなと思う。

私がみんなを認識した。でも、みんなが私を認識してくれなければ、私は存在が出来ないということ。

みんなが私を認識して、ようやく「私」が生まれる。

でも、みんなは私を認識しない。そこに私が必要とされる価値がなければ、私を認識することはない。

人が人を認識するとき、何かしらの思いが必要である。その思いがどのようなものであってもいいんだけれど、私は私を認識していない人達に「認識してくれ」というアピールすらしなかったのである。

私は「私」を見て育てられていない。親にも私は認識されていなかったのである。

 

「霊」という意識は「無」なのかなと思った。

霊である自分をほとんどの人が認識しない。無だから。

でも、彼が霊の私を認識したような気がする。目が合ったから。

だから、私は霊としての力を発揮することが出来たんだと思う。

 

無の自分。それは霊体の自分。

霊体の自分が有に転じて、この世に存在し、みんなといっしょに生きていくのである。

半身半霊ってことなのかな? と思っている。

ハイヤーセルフの受肉である。(最近、この用語が頭のなかをチラついていた)

 

このタイミングでインフルエンザにかかって自分の肉体をアップデート。