風の時代のメモ――表の入口と裏口と裏表の出口の違いと神さんの話
風の時代に入ったみたいです。私のなかでひとつの方程式がたったので、風の時代の方程式を提示するね。
私たちは表から入りますので、真っ直ぐいけば裏にでます。
ですが、一部のかたがたは表から入って再び表にでてきて「ここが裏だ」と思っています。ここを「裏表」とします。
裏と表をどのように定義しても面白いです。
表・・・・・・入口
裏・・・・・・出口
裏表・・・・・・入口に戻る
神社も同じです。
裏と表があります。私たちは表の神社にいきますが、そのうち、裏に案内されます(されます!)
しかし、そこが表のこともあります。これが裏表です。
ツインレイにも裏と表があります。
表から入って裏からでていく人たちもいます。王道に出口があります。
しかし、裏だと当人が思っても表にでている場合は、これが裏表です。
裏表の人達は、表にたっています。これから表玄関から入ろうとしている人たちの憧れとなります。
裏表にいる人達は、新しく表に入る人たちと関わりますが、裏に行く人たちとは別れます。
裏で待ち合わせているふたりもいますが、表で待ち合わせているツインレイもいます。言葉は明確に使います。
裏で待ち合わせているふたりは恋に落ちますが、裏表で待ち合わせているツインレイは表でツインレイと出会い、多くの人に賞賛されます。
ツインレイは『表の入口』ですが、玄関にいる人たちが『裏への案内』をするのではなく、再び、表に戻ってくる裏表の案内役です。
自分の道を道理で進む人達は裏への案内を必要としません。
裏へ進む人と繋がることもありますが、それは自力歩行で道しるべがない道をいきます。
私の場合、道理(恋がない)――恋(道理がない)という裏と表です。裏表がツインレイです。
ツインレイの道を道理で突き進みましたら、裏口で恋を知りました。道理がありません。
私はツインレイの入口に入りましたが、道理の道を進み、最後は道理がなくなり恋という裏口にでました。
裏表という堂々巡りでは「表にでたツインレイ」を意味していますが、このとき、表に向かった人たちは恋心がありません。
このとき、恋と道理が同じです。恋に理屈が必要です、恋に理由が必要です。これがツインレイです。
恋に理由が必要な人達がツインレイ。理由などいりません、その恋に意味などありません。
裏表はふたつでひとつのツインレイ
裏は個人というワンレイ同士の恋人たち
これが私の定義ですね。
道は自分で進まねばなりません。これが道理ですが、これは一本道です。
ですが、ぐるぐる回って裏表にでた人達は「ツインレイの再会」をしますが、裏に出た人達は「恋人の再会」をします。
意味が違います。裏と裏表では意味が違いますが、そこに道理の道を歩いたかどうかの違いがあります。
恋に道理はありません。ないものはないです。
これが「理の理解」です。単純に数学ができるかどうかの話です。
言語は数学なんですが、ここらはプログラムということ。
いわば、論理性です。論理性が鍛えられている人は真っ直ぐ道理に沿って歩きます。自分の中に道があるので。
ですが、道がない人はぐるぐる回ります。
答えが同じように見えますが、意味が違います。新しい裏口に出る人と、元々居た表を裏口だと思い込むのでは意味が違います。
できた! と思っても、出来ていないと判断されます。
ツインレイの再会をする人は裏表に戻って表に参拝する人たちを誘います。
そのなかでも、道理がある人は裏口へ自ら歩きます。
裏口では恋人が待っています。それは「ツインレイ」ではありません。あなたの恋人です。
あなたはツインレイに出会いたいですか、それとも恋人に出会いたいですか。
これはあなたの望み通りの結果がでてきます。
ツインレイに出会う人達は表玄関に戻って、新しいツインレイたちの賞賛にあうでしょう。
裏口にでていく人たちは、恋人との待ち合わせに向かいますが、誰も賞賛などしません。必要がありません。
ふたりの間に誰かが居なくたって、誰かが認めてくれなくたって、ふたりはお互いが恋人であることを知っています。
神は誰しもが喜ばない結婚だったとしても、そこに道理があるふたりであり、道理のない恋であるならば、祝福をします。裏口にでるとはそのようなことです。
裏表には多くの人が賞賛し、喜んでくれるでしょう。神の祝福ではなく、人の祝福を受け取ることになります。
そこに結ばれるだけの理由があって結ばれたからです。
そこには結ばれるだけの理由がありました。
その理由がないことを証明した私は裏口にでました。
多くの神の問いかけでした。
私は裏にいくことにしました。
皆はどうすることにしましたか。
私は神の道の人ですから、やっぱり神に祝福を受けたい。そして、多くの人に祝福されることがなくても、私は恋人と結婚したい。
理由がない人と結婚したい。
ツインレイとして表で多くの人に祝福を受けたいわけじゃない。
動機が「みんなに認められる結婚」ではありません。自分の素直な気持ちです。
神社の裏と表とは、
表の神社とは入口です。
裏表の神社とは多くの人からお賽銭をいただけます。人から与えられるネガティブエネルギーを受け取っていきます。
裏の神社とは誰からも与えられることはありませんが、自らのポジティブエネルギーを与えます。
裏の神社に行くと『与えられる』ようになります。神から与えられ、あなたも誰かに与えます。神のエネルギーを与え、神の祝福を知ります。
表・・・・・・ツインレイの入口に賞賛を受けているツインレイ達がいて憧れを抱き、この道に入る
道中・・・・・・『恋』を調べられる
裏表に戻る・・・・・・動機が不純ゆえに晒し者にされる二人、人から祝福される
裏・・・・・・恋の証明がなされ、神の祝福
これが私のなかでの正解かな。
裏表の人が表にたってさらし者にされているわけなんだが、当人たちは「自分がさらし者」にされている自覚はない。
から、私は恥ずかしいな!?と思っても当人たちは、人からの賞賛に夢中だから気にならないと思う。
それ以外の「恥ずかしいから関わらんとこ」って思う人達の意見は入ってこない時代だし、なんなら排除されていると思う。
これは私の意見であって見解。なんだこれって思ってるけれど、裏と表と裏表の原理が明確にわかりやすいよなって思った。
ツインレイ以外にも、この原理があると思う。
表にたっている『憧れ』には『裏がある』ってこと。
例えば裏口入学やら、裏ではケンカが耐えないとか。
隣の芝生は青いもので、家の中で何が起きているのかはわからない。
裏口がでていく人は「表という入口」にはいない。
誰も道は教えてくれない。裏に進むには自分の中の道理が教えてくれる。
あなたのその恋に理由があるなら、表に戻される。表で結ばれて晒し者になりたい人も多いらしい。
裏があることも知らずに。
私は裏にいる。だから、裏表にいる人が遠くにいるよ。羨ましいとは思わなかったし、なりたくないなって思った。
恥ずかしいなって思った。
この方程式、上手く使えば、人生のコツになると思う。
風の時代、すごくよくわかりやすいと思う。
裏表っていうインターネットが流行ってるから。ここには何もねえよ。あるのは裏表のハリボテさらし者が目立つ世界。
裏ってどこだと思う?
『現実』だよ。
インターネットはどこまでも嘘がつけるぞ。
自分にも他人にもね。他人を欺けたら自分のことも欺ける。
でも裏口にでていく人たちは、自分の気持ちに嘘はつかない。
だから、私は最初から今まで「彼のことが忘れられない」んだと思う。これが恋だから。
他の人にも見向きもしないんだと思う。これが恋だから。
私の神の道として、
表の入口・・・・・・玉依姫
裏口・・・・・・稲田姫
裏表口・・・・・・スゼリ姫
こんな感じかな。あたいの道。
玉依さんは良妻賢母。稲田さんは大和撫子。
スゼリと玉依は同一に見えると思う。表は表だから。スゼリは目立つが、玉依は家庭に入って目立たんよ。
大和撫子の心があるかどうかの違い。
稲田姫って、この神、バッタやで( ˇωˇ )直感だけども。
玉依さんが蛞蝓(なめくじ)で、稲田さんが飛蝗(バッタ)。
夫だが、スゼリはオオクニヌシを捕まえてお金持ち。でも大和撫子の恋心はもってないよ。円満かどうかは謎。オオクニヌシ、浮気者じゃん( ˇωˇ )裏表の道。
玉依は、ウガヤフキアエズを夫にする。金持ちかどうかは知らんが、神武天皇を夫婦で育てる。夫婦円満の仲良しだと思う。表。
家庭内では恋が成立する大和撫子、スサノオに愛されまっせ。裏。
お金持ちではないんだよね。誰かに賞賛されるわけでもない。能力があるわけでもない。
とりわけてどこにでもある普通を極めた平均的な家庭。
『あたたかい家庭』を築ける。
プラスがあるってことは、マイナスがあるよ。それが裏表。±0ってこと。
それぞれバラバラにプラスとマイナスができた人たちは「平均的な家庭」になるんだ。
これが人の幸福でしょ? って話なんだよな。