地獄の世界と理義の関係性について。

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さよなら、ツインレイ Kindle版
さよなら、ツインレイ

当時はこれでおしまいなんだ・・・。そんな風に思いながら書いた『さよならツインレイ』。結果的にさよならしたのは、神交法の相手であるツインレイの霊体だった件。今更振り返って読んでみると納得がいく一冊だが、当時はよくわかっていなかった。

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前にもう少し地獄の概念を書くって言っていた件を書く。

『逆さまの世界』と『裏の世界』について。

図の説明:逆さまの世界と裏の世界

逆さま(クリフォト)の世界とは、表の世界から逆さまになると、そのとき『悪』が生まれる。物事に対して、逆さに捉えることが悪を生む。つまり自分とは真逆=悪という世界観かな。

裏の世界とは、表の世界からひっくり返すろ、そのとき『偽物』が生まれる。物事に対してひっくり返して捉えることが偽物を生む。つまり自分とひっくり返っている=偽物という世界観。横に並べて、どっちが本物かな~? って感じかな。

逆さまと表と裏がひっくり返っていることは、似て非なるものである。

逆さまとは善悪による考え方が生じる二元性であり、裏とは真偽が生じる二元性である。

物事を逆さまに捉える時、悪を生みだし、悪を善として捉えるようになる。悪への同一化を起こす。

物事を裏に捉える時、偽物を生み出し、偽物を本物として捉えるようになる。自分を喪失し、偽物に依存する。

逆さまにものを捉える人と、裏に捉える人がいる。このとき、逆さまの人は善を悪とし、裏の人は偽物を本物とする。ので、逆さまの人は悪人になるし、裏の人は偽物に騙される。

悪人は正常の人を悪人に仕立て上げようと躍起になるし、裏人は偽物に騙されて本物を疑う。正常判断ができない状態って意味だな。で、私はこれを『地獄』と呼んでいる。正常な判断が出来ていないからこそ、地獄なのである。

逆さまに捉えている人は、上下が反転していて、裏に捉えている人は左右が反転している。

図の説明:生命の樹・クリフォトの樹・偽物の樹

悪があれば、善がある。偽があるから、疑がある。

自らの中にある悪に気づき、成敗せよ。そして、自らの中にある偽に気づき、排除せよ。悪いことをするな、自分を偽るなってことだな。(悪いことをする人は捕まるし、自分を偽る人は騙される)

善——悪、偽——疑

ここまで分離しきると、最終的には『偽悪』が生まれる。

図の説明:疑善と偽悪

新しい世界観、疑善(善を疑う)世界と、偽悪(偽物の悪)世界になる。つまり、偽——疑、善——悪の自己分離が明確に仕切れると、次には、善を疑う——偽物の悪という分離が生じることになる。化学式みたいなもので、精神構造内で複雑化していくイメージ。でこれが『次元が上がる』ってことである。

次元が上がるとは、より複雑的な解釈になるってことなんだ。より、どこがどのように複雑化されたのか——を明確に認識できて、ようやく『次元があがる』ことを意味する。で、より、認識が単純化されることが『次元がさがる』わけなんだが、実際、この理論で言えば、魂の方が次元が低いことになる。魂に時間の概念がなく永遠だとするのであれば、それだけ単純化された解釈になる。人間は複雑に思考することよりも単純に解釈することの方が難しい存在だと思う。(複雑の方が難しいと思うのは、それは論理性の低さを物語ってて、本来は論理性が低い部分に本質があるってことになってくる。)

 

で、ここでツインレイの話をするけれど、偽物の樹は「本当に偽物だったのか」、クリフォトの樹は「本当に悪だったのか」ってことを理解する必要性がある。

ツインレイの彼は偽物だったのか、ツインレイの彼女は悪者だったのか。(ここで偽ツインの話が出てくるんだ罠)

何が偽物で、何が悪者なのか。考えていかなければならない。一方は何故、偽っているのか、一方は何故、悪となっているのか。その原因を探る必要性がある。

私はクリフォトの樹のほうに進んでいる人だったから、物事が逆さまに捉えている悪人がシャドウになって悪人に仕立て上げられる。偽物の樹に進んでいる人は真実が偽物に捉えている人がシャドウになるから、シャドウに騙されることになる。

  • 偽物の樹
    • 偽物に騙される
  • クリフォトの樹
    • 悪人に仕立て上げられる

で、本当の『偽物』、本当の『悪』とは何か——。自らの中にある偽っている自分と、自らの中に定義された悪である。この世界が『偽悪の世界』である。いわば、偽悪者になることが正解(?)なんだが、ここで、偽物になるのか、悪者になるのかがバラバラのとき『善を疑う』という世界が生まれる。

偽物は善を疑っているし、悪者は善を疑っている。どちらも共通して『善を疑う』に通じている。でも疑うべきは、偽物だし、悪者である。ここで善とは何か——だが、自らを疑えるのかって話になっている。

自分を疑うことができない人は、騙されるし、悪に同一化する。騙される人は他者を信じているし、悪人になる人もまた自分を信じている。問題はこの『信』である。信じるなって話になってくる。

信じるとは、依存ではない。依存が残る信じるは信仰を生む。その信仰が『騙される』し、『悪人になる』のである。

ここから、依存がある人は騙されるし、悪人になるのである。依存がない人は、自分が持つ善を疑うし、自分の判断を疑いもするが、ひっくり返して信じているわけではない。偽物の樹とは『信じるから騙される』のである。

今、自分の視点が偽物の樹から生命の樹を見ているのか、または真逆なのか。このどちらかなのかは当人では認識しきれない。基本的に人は自分は大丈夫っていうバイアスを持っているから、騙されているのに騙されていないって思う生物だと思う。騙されていないのに騙されていないって思っているときは偽物の樹から生命の木を見ているから、認知が左右の反転を起こしている。この人たちは『比べる』のかなと思う。比較をする人たち。自分と他者を比較したりしてる感じかな。

クリフォトの樹から生命の樹を見ていると、善行が悪行に視えるっていう感じかな。で自らの思い込みで相手を悪に仕立て上げていく作業を行っていく。頭のなかでずーっと誰かの悪口を言い続けていることあると思うんだ。それが『真実だ』って思いこんでいる時、クリフォトの樹から生命の木を見ている。上下の反転を起こしている。この人たちは『優劣がある』のかなって思う。上下で人を認識している感じかな。

世界を見る時、私たちは悪を見下し、偽物と本物を比較しているってことだな。優劣がある人はクリフォトの世界観を持っていて、比較がある人は偽物の世界観を持っている。このひっくり返っている世界観を立て直す必要性がある。これが自己統合である。

偽ツインレイの概念が生じるのは、偽物の樹の概念がある人が比較によって『偽ツインレイ』っていう概念を作ったんだと思う。私は『悪のツインレイ』的なものを作ったんだが、それがクリフォトの樹の世界が私のなかにあるってこと。

偽物を見抜くことが選ぶことではないはず。

悪を見下すことが人の上に立つ正義ではないはず。

自らの中に存在している偽物を見抜かなければならないし、自らの中にある悪を御す必要性がある。しかし、人は偽物を見抜くことに躍起になって、悪の上に立つことを正義と考えている。

本来は、偽りを持たず道理を通し、悪を正すことが正義である。で、それぞれ必要なものが『理義』である。道理と正義である。(私が持つ夢で見たツインレイの課題のひとつである・・・・・・)

図の説明:道理と正義——理義

偽物の樹の課題は『比較』である。そして、導かれるは道理である。そのなかにある論理性、そして、道理を通すことが出来れば騙されることがない。

クリフォトの樹の課題は『優劣』である。そして、導かれるは正義である。正しさを導き、自分を律する力である。自分を律する力があれば、悪に手を貸すこともなく、自身が悪に見舞われることがあったとしても、誰彼を守ることも出来る。

この理義とは、真逆のものとして『比較』と『優劣』が存在していたということだ。

子供の世界は、比較と優劣の世界であり、大人の世界は、道理と正義の世界である。私たちがもし、青年期で、モラトリアムだというのであれば、優劣と比較と戦わなければならない。それは他者ではない、自らの中にある優劣と比較に理義を持って戦わなければならない。

大人の世界では、比較ではなく『選ぶ楽しさ』があり、優劣ではなく『育てる楽しさ』があると思われる。

比較——道理——選ぶ

優劣——正義——育てる

道理もなく選ぶことは比較であり、育てる意思のない正義は優劣である。

では、大人の世界とは何か——だが。大人の特権とは『結婚』と『出産』である。

伴侶を比較して選ぶのではなく、道理を持って選ぶことができる。

子供を優劣で育てるのではなく、正義を持って育てることができる。

理義が先に道理が来るのも、伴侶が先にきて、後に子供が来るから。

で、大抵、伴侶を優劣で見下し、子供を比較で育てるねん。これがトチ狂っている地獄の世界観である。先に子供がいて、次に伴侶がいる状態なのかな? と思う。

私が「男は種馬じゃねえぞ」って言うところに繋がっていると思われる。まずは道理を踏まえなさい。道理とは夫婦があって子供がいるってことだな。伴侶がいてこその子供なのに、子供欲しさに結婚すると、理義が反転してしまうのだと思われる。

 

ここ最近、思い出したことなんだが、ツインレイの彼と出会った当初、ほかにも三人ほど異性がいた。四人のうち、彼を選んだ理由は「彼ならば、幸せにできる」と思ったから。それ以外の人は、私は幸せにしてあげられないって思った。(ただ、これも、一転ひっくり返すと「私が彼でなければ幸せになれない」という視点もあるんだなってことを考えていた)

ツインレイの相手を選ぶ理由は何か。そこに『道理』があるのか。そこに『理性』はあるのか——である。そこに何かしらの優劣を異性に決めて、誰にするのかを選んだりはしていないのか。

道理が整っていれば、正義もあるのではないかと思う。正義とは『理性』だから。自分を律する力は理性のなかに存在している。道理とは理性が外に向かい、正義は内に向かっている。基本的には理義とは人間の認識では、前頭前野により生まれている理性なのだと思われる。

そして、理義(理性)による選択が喜びに繋がっている時、私たちは子供の世界でも大人の世界でも、幸福なのである。だから、子孫も喜びの世界に繋がっている。

 

で、この理義が成立しきるとき、自らは偽物でもなければ、悪者でもない状態になる。つまり『〇〇ではない』だけで、実際は何物かになれたわけではない。悪を知ることで善を知り、偽物を知ることで真物を知る人もいる。

私は悪を知っていたし、偽を知っていた。だから、善を知らないし、真を知らない。で、こたび、善を知り、真を知った。

全部ひっくるめて自己統合して、私は大人になった。

つまり、悪がある世界も、偽物がいる世界も、そこは子供の世界。

 

で、この世界には地獄はない。この世界は『現実』で構成されている。現実だけを受け取っていくことができるのが大人の在り方であり、理性的な人たちである。

現実とは理性により構成されているし、道理と正義により支配されている。でも、子供のまま理義がない状態で、結婚し、子供を生む人たちもいる。その人たちはやっぱり、理義の課題が後世に残る。

 

あと思ったこと。

誰の子供が欲しいのか。の次は、自分の子供の父親に誰になってほしいのか——だなと思った。

このふたつの条件を満たす相手と結婚することは、とても幸せなことだと思う。

だから、未来を想像せよ。誰の子供ならば愛し抜けるのか、自分の子供の父親として不足がない人を選ぶこと。想像してみて、納得の先で結婚すること。

これこそ、理性的な結婚ライフ!

地獄