波動が高い——波動が低い。だけではなく、波動がある——波動がない

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さよなら、ツインレイ Kindle版
さよなら、ツインレイ

当時はこれでおしまいなんだ・・・。そんな風に思いながら書いた『さよならツインレイ』。結果的にさよならしたのは、神交法の相手であるツインレイの霊体だった件。今更振り返って読んでみると納得がいく一冊だが、当時はよくわかっていなかった。

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波動が高い——波動が低い
波動がある——波動がない

図の説明:波動が高い、低い

ここには波動があることが前提に存在し、その裏側には波動の『無』が存在している。高低の高い方が善とされるのも、今の内なのかもしれない。

波動が低い人がいるから、波動が高い人たちがいるのではなくて、そこにはただ波動があるってだけの話で、その波動をどう使うのは勝手なのではないかな? と。

それから、波動が低いとは重力の問題だと思うが、この重力を受けている波動を持っている人たちは『説得力』とか『存在感』とか、他にも、その人がそう言ってんだからそうなんだろうぐらいの言葉の重さや存在を持っている人たちのことを意味しているんだと思う。

だから悪口とかって気になるよね。それは波動が重いから、存在感が生まれるんだと思う。ただ、まァ、波動の使い方が「あれ」なだけなのかなとは思う。人の悪口なんて依存症の症状だからね。

波動が低い人からみれば、波動が高い人は薄っぺらい、ハンコでついたような人種だと思われる。中身がない。

波動が低い部分を持っていない波動が高い人は『ぺらぺらの感謝』しか感じられないんだと思う。その言葉に重みや存在を持たせるには、やっぱり重力が必要で、より、波動が低い経験が必要なのではないか。

ただ、波動が高い人たちは身軽なんだろうなとは思う。動きが軽やかで、次に進むのが早い。

ちなみに私はポジティブな人苦手ですね。そこにネガティブなものがあるからポジティブ思考を生んでいるようにしか見えない。マイナスを打ち消すためのプラスなんて、マイナスにしか思えない。

波動が高いを「美味しいものを美味しい」と思う心だと思うし、「不味いものを不味い」と負を肯定的できるものだと思う。

そして、波動が低いを「存在を齎すもの」や「説得性や影響力を持つもの」「現実性や持続性」を意味するものだと思う。

私は、ここしばらく波動が低かったと思う。おかげで、私の存在や説得性とか、影響力についてを与えられたような気がする。

そこから、波動が高い人たちを見ていても「なるほど、軽いな~」と思うが、それが薄っぺらく見てしまったりもするわけだ。感謝の言葉を伝えることも大事なんだが、感謝の裏側に「心がある」「説得力がある」という感謝の存在感を持たせるのが波動が低いことだと思う。

つまり、波動が高いだけだと、その人の感謝の気持ちは誰にも届かない。

お店に行っても「美味しかったです~」と店員さんに伝えても、その気持ちは届かないのが波動が高いだけ。

波動が低い人が同じことをすると「美味しかったです~」の言葉に存在が生まれて、店員さんも嬉しい気持ちになる。これに違いがあると思う。波動が他者に影響を及ぼす基盤を持っている。

伝えるひとつでも『波動が軽いだけ』だと、相手になにも影響を及ぼせないし、何もできないんじゃないかな。波動が低くて重たくて、そこに何か確固たる『主観』みたいなもの。『自分の感性』『自分の存在』『自分の価値』みたいな。

レッツ自分! みたいな波動の低さはネガティブをも生むけれど、そのネガティブを自分に向けて『自己の確立』をすることができれば、その言葉に重みを生むことができるものだと思う。

 

つまり、波動が低い人が波動が高くなると「他者への影響を及ぼすことができる」「他者へポジティブなつながりを求めることができる」という状態になる。

波動が高い人が、波動を下げてくると、たぶん「なんだこのネガティブな世界は」っていう嫌悪感しかないと思う。

サイレント中に私はゴッソリと波動を落とされたんだが、『自分を確立させた』のか『ネガティブな世界に嫌悪したのか』によっては大分違うのかな? と思う。そして、ネガティブに嫌悪もしたし、自分を確立させたのは、その嫌悪感があったらこそとも言える。

波動が低いときは、自己の確立の段階で、無理に高める必要性もないんじゃないかって思う。まァ、確かに、モテないし。確かに、人付き合い減るし。確かに、心のなかで悪態つくことのほうが増えるけれども。

でも、そんな期間だからこそ、切磋琢磨して得られたものがある。それが自分っていう存在だった。

 

波動を高くする以前に、そこに、波動が低い状態で自分を構築しなければ、波動が高くなった時に薄っぺらいと思う。そんで、言っている言葉が他の人が言ってることと同じじゃんってなると思う。感謝の言葉も心にまで伝わらないと思う。

簡単に言えば、全くもって凄くない人に「すごいね」って言われるのと、凄い人に「すごいね」って言われるの、どっちが嬉しい? 完全に後者だよねってことだ。

 

この『高低』という、波動が低い部分に「地に足をつけた自分らしい自分」が存在し、波動が高い部分に「他者への影響力」が存在しているとき、裏側には『波動がない』状態があると思う。

つまり、自分自身には波動が存在しないから、他者には波動として影響が及ぼされていく。

自分から生み出されていく波動が周囲へと影響を及ぼし、他者が影響を受け取れる。これがポジティブにやれる。他者への影響がポジティブになる。

なとりがいる。なとりが喋るだけで誰かが嬉しい。こんな感じかな。

でも、なとりがいない。こんな状態もあると思う。でも、なとりがいない、それが普通なのかな? と思っている。

今、ここに私がいる。同じように、私は今ここに私がいない。そんな状態も愛している気がするんだ。

波動がない自分を愛している。他者へ影響を与えることもなく、ここに存在すらしていない私を愛している。

 

この世に悪もなければ善もない。でも、善悪があるとき、波動が高いなかに善悪が生まれ、波動が低いなかにも善悪が生まれるものだと思う。

善:波動が高い——影響力
悪:波動が高い——薄っぺらい
善:波動が低い——存在感
悪:波動が低い——悪意ある

こんな感じかな。SNSで発信している波動が高い方々にも『存在感がある』のと『悪意がある(ダークエンパス的な?)』のも2種類ある。

波動が低いなかで『存在感』をどのように定義するのかでも違ってくるんだと思う。この部分で「より自分らしい」とき、影響力も、影響したい人に影響し、影響を受けてくれる人たちも、心を動かされるものなんだと思う。

そして、そこには影響を受けたいから来る人たちもくるようになるんじゃないかな。

影響力にも善悪があるし、存在感にも善悪がある。

そして、そこにある存在感が「より自分らしいこと」、影響力が「繋がりたい人と繋がれること」ができるとき、私たちの世界はより豊かなものになると思う。

より自分らしいこと、そして、繋がりたい人と繋がれるとき、私たちの波動が「ある」としてされ、同時に波動が「ない」状態もあると思う。

つまり、自分らしくもない、繋がりたい人とも繋がれていないときもある。そんな「波動がない人」もいて、波動がない人たちが悪かといえば、そういうわけでもない。ただ、自分らしくないから、繋がりにくくなっているだけかな・・・・・。

そこから、波動を出していくのに、どのように自分を構築するのかによって、影響の提供も決まってくるのではないかと思っている。

この一気に「波動が無になる」っていう瞬間を迎える人は、繋がりがすべて消える。アイデンティティの拡散をする。っていう経験をすると思う。

すべてが無になってしまえば、すべて立ち消えてしまうものね。そして、無から有が生まれるように、無からは再び波動が放出されるとき、私たちは自分を再構築せざるを得ない。

 

でも、どうして、この波動が無になるんだろうね? そのとき、波動が極限に開放しきらなければならないんだよな。

たぶん、これがアセンションに関係していると思われる。

感情を大量に溜め込む。それが善だろうが悪だろうが、感情を極限状態にまで溜め込むと、「波動が極限にある」状態になって、解放されて、すべての感情が出切ってしまえば、次には『波動が無』になる。

波動が無になれば、次に『有』がうまれる。波動がうまれるとき、それは無から有が生まれる。

 

単純にリセットの話だった。

人間って、そもそも波動が低い生き物なんじゃないかな。

で、波動が低いことを受け入れられていないと、波動が高いことも活かせれないものなのかなと思った。

やりたいことをやるにしたって、何がやりたいのかがわからなきゃできない。その「何がやりたいのか」は、波動が低い部分でしか得られないものではないかと思った。

それは、人がワンネスとは程遠い個人という存在であるがゆえ。

波動が低く、人と心で繋がれない、人の気持ちも分からない。それが人であるが所以であり、だからこそ、私たちは面白い。

そして、波動が高い人たちが思い込みの話をしているのであれば、それは現実性がない話だなと思う。

私たちは波動が高いんです~と言っている人たちが波動が高いとはどうしてか思えない。

また、私は自分が波動が低いと思われる。でも、それが悪だとは思えない。

色々な人とモメたりなんだりもしたし、切磋琢磨したし。コミュニケーション不全を起こしまくって伝わらない問題にも直面したし。これが地球じゃない?

でも、そこで頑張って「人の話を聞こう」としなければ、そして「伝えよう」としなければ、人とはホントの意味では繋がらないと思う。分かり合えない。

なんていうのかな。人間は波動が低くてさ、その波動が低いことが悪だということは、人間の存在が宇宙の悪だと言われているよなものなんだよ。人類愛を持つ私にとっては「いや、待ってくれよ」と思うわけだ。

本当の悪とは何か。私はこのように思うよ。

あなたが苦しんでいることが悪。

悪とは、誰かを指すわけではなくて、その人がもし苦しんでいるのであれば、その苦しみこそが悪だと思う。憎むべきものは「自分が苦しんでいること」であって「誰か」ではないはず。

そして、その苦しみが解消されるためには、ちゃんと人の話を聞くことだし、思い込みで捉えないことだし、ちゃんと伝えようとすることだし。

ただ、私はあんまり人に伝えるつもりがない人だなと思った。理解されようとする気はあまりない。私を理解したいと思う人と一緒に居たいと思うし、伝えたいと思っている。

 

だからさ、分かり合いたいと思う人とは、ちゃんと話をするべきだと思う。

その話し合いがちゃんとできる人が『波動が高い』って言うんじゃないかな。

相手にちゃんと自分の想っていることを伝え、自分の間違いを認め、自分の思い込みを打破し、相手とまっすぐに向き合う心。

そうやって、互いに波動を高め合っていくことができる人たちが、本当に「波動が高い」んじゃないかな?

 

これは、本当に波動の話なのかな。

もしかしたら、低次の自我と高次の自我の話をしているのかもしれない。爆

ただ、波動が高い人は「相手と繋がれるだけの健全なコミュニケーション能力」があるんだと思う。だから繋がれる。

それから波動が低い人は「相手がアクセスできる自分という存在」があるんだと思う。だから理解される。

このふたつが揃って『波動がある』。

波が動いている。動きがあることが波動があるわけで、自分をどんどん変えていける力と、人とコミュニケーションをとっていくことができる力を意味していると思う。

いわば波動がある人は『自分を変えていく力がある人』を意味するのかな?

 

人は繋がりたい生物だと思うし、理解されたいと思う生物だと思う。

でも理解できない人とは繋がれない。そこに『自分』がない人とは繋がれない、理解が出来ないから。これがコミュニケーション不全。だからモメる。

 

波動が高くなるには、ふたりが必要。他者がいなければ、互いに波動を上げていくことは出来ない。

いわば、コミュニケーションって「波動を上げていくために必要な愛の循環」だと思う。

知りたい、理解したい。そして、伝えたい。波動が低い私たちには、せいぜい、これらの努力が必要。

波動をあげる——ということは、それなりにあげなきゃいけなくて、そのためには、コミュニケーションが必要なんだと思う。そのなかで、コミュニケーション不全を起こす人たちもいるから、その人たちは波動の低い部分を再構築せねばならないがために、モメてるんだと思う。

自分が変わるのは労力がいるから、変わるよりも、相手に変わってもらいたい甘えがあるから。

その甘えが「苦しみ」を生んでいる。

波動