エーテルコードについてをだらだら書く。

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ツインレイステージまとめ

私のステージが進むごとに更新していくステージをひとつの記事にして販売しています。


さよなら、ツインレイ Kindle版
さよなら、ツインレイ

当時はこれでおしまいなんだ・・・。そんな風に思いながら書いた『さよならツインレイ』。結果的にさよならしたのは、神交法の相手であるツインレイの霊体だった件。今更振り返って読んでみると納得がいく一冊だが、当時はよくわかっていなかった。

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迷妄は火にいる夏の虫。ツインレイは覆水盆に返らず。言い得て妙だな、よきかな、よきかな。

昨日はエーテルコードにファビョる私がいた。

いや、有り得ねえからと歌い始める私がいるが、私の中で彼がこのブログを見ている可能性ってことが潜在的にはあったんだなと思った。

その打ち消しの為に「読まれたくない、読んでいない」っていう発言があった。同時にこれは、相手からすれば「読んでほしい」っていうエネルギーで届いていると思う。

これがエーテルコードの仕組みだと思う。

深層の欲求が繋がり合うこと。

この欲求を向こう側は拒絶しているから、結局、読んでないと思う。

ムキムキstyle♪

 

では、この深層の欲求とは何か――だが。

欲求にも二種類あると分類する。

  • ネガティブな欲求
    • トラウマによる欲求
    • 否定している欲求
    • 他人へ向かう欲求
    • 執着
  • ポジティブな欲求
    • 希望的な欲求
    • 肯定している欲求
    • 自分へ向かう欲求

このように、エーテルコードにもポジティブなコードとネガティブなコードが存在している。

エーテルコードとは、エネルギーの交換ツールってイメージがあるけれど、個人的な感覚では、自分が背負えないものを相手に押し付ける最適なバイパスってイメージ。

これがネガティブなエーテルコード。

トラウマを背負いたいはずがない。だからエーテルコードを通して自分のトラウマを相手に押し付ける。

自分が否定している欲求を誰かが満たしてくれるだろう期待。だからエーテルコードを通して、その期待に繋がる人が結びつく。

愛されたい、だからエーテルコードで縛り付けてここに執着させるためにエネルギーを搾取する。

『奪うこと』『いらないものを押し付けること』がエネルギー上で可能だということ。

相手から欲しいものを勝手に搾取。いらないものを押し付ける。

エネルギー泥棒だし、エネルギー不法投棄みたいな感じかな。でも、それが許される。理由はエネルギー上で目に見えるものではないから。

これから『エネルギーなどのスピリチュアルが当たり前の時代になる』のであれば、エネルギーに関する罪も法律で定められるってことにもなる。

ありえないよねって思ってるよ( ˇωˇ )

話が脱線したが、エネルギーコードと呼ばれているけれども、個人的には『トラウマの共鳴』と感じている。

出会いがトラウマによる縁であれば、トラウマの共鳴を起こしてエーテルコードが繋がる。

お互いが持つトラウマが相手に結びつき、そのトラウマを再現する道具ともなり得る。

相手に繋がる縁がないなら、トラウマを突っ込んで一致させればいい。

暴挙だなと思うが、私もたまにやられる。

相手に傷つけられる等が不正であるとき、自分と同じ傷を相手につけることで一致をはかるのである。

ので、相手と自分が『同じ傷を抱えている』と感じるが、実際は、相手が傷を持っていて、その傷を相手につけることで強制的にエーテルコードを結びつけるってことができる。

結びつけてしまえば、幸福そうな人のエネルギーを搾取できる。相手の気を引けば引くだけ、エネルギーの搾取ができる。気を引くってよりも気を奪うって感じ。

上記、エーテルコードを利用した人のエネルギーを搾取する方法になるが、いわゆる生霊飛ばすのと同じ容量だと思われる。

エネルギーでも他力本願で生きている人っているんだなって思った。

もっと言うと、親にエネルギーを搾取されて最早自分ではどうしようもなくなると、親に奪わた分、子供から奪う。または他人から奪うようになる感じ。

子供は簡単に傷つけられるし、他人にも嫌がることやり続ける人とかは大抵、相手の気を引きたいからゆえにある。

エーテルコードをそうやって使う人もいるってことだな。これをエネルギーヴァンパイアって言う。

エネルギーヴァンパイアは親に奪われたからヴァンパイア化して、誰かのものを奪うことが当たり前って感じかな。これが継承される因縁。

根源には奪われたっていうトラウマの経験がある。

相手を傷つけようとするのも自立してないし、相手に傷つけられるのも自立していない。ここが結びつく。

だが、自立している人に新たに傷をつけて足をくじかせる人もいる。新しく殴って傷つければいい。

エネルギー上での攻防戦が行われているのである。

 

新しく傷つけられるものは甘えられているのであり、誰かを傷つける人は甘えている。

誰かに傷つけられたんだったら、人を甘やかしている。未熟。

誰かを傷つけている人は甘えてる。当人たちは「自分が傷つけられたから傷つけた」っていう主張があるけれど、これが因果の継承にある。

やったらやり返す。親にやられたから自分の子供にもやっていい、自分よりも弱い立場の存在にだったらやってもいい。

そういう考え方がある、これが甘えである。

で、この考え方で『弱者側』に回る人達は被害を受けることになるが、大事なのは、自分のなかにトラウマがあるってことなんだ。

エーテルコードはトラウマに結びつくし、愛にも結びつく。

トラウマに結びついたエーテルコードは、私たちを搾取しているように感じられるが、それは自分のなかで搾取を許しているところがある。

奪われているっていう被害者ヅラしたらいけない。奪われることを許している自分が自分の加害者になっている仕組みがある。

奪われたんなら奪い返せ。これはエネルギーヴァンパイアになるからいけない。江戸時代さながら、仇討ちは許されても復讐は許されないものである。

まず、自分で自分を追い詰めている加害者たる存在と向き合わなければならない。

復讐している人格である。

私のなかには「気づいて欲しいめそめそ人格」がいた。

ゆえに私は、自分が辛いことに気づいてもらえずにめそめそしている誰かの気を引きたい人のエネルギーに自分のエネルギーを奪われる。これの場合、自分の時間を奪われるに近いかもしれん。

私の他人とのエーテルコードが繋がりやすいのは、この人格が『他人の気を引きたい』からである。

とは言えど、私は他人の気を引きたいって意識はあんまりない。だから、私の気を引きたい人格は倫理で抑圧されているがゆえに他者という概念で気を引きたい人がよってくるのである。

その人への対応の仕方が、自分のなかに存在している人格への対応である。

他者への対応は、たいてい自分のなかへの人格への対応でしかない。

 

トラウマを癒すってことは、自分のなかにあるエーテルコードをネガティブな繋がりにしないってことでもある。

エーテルコードは愛により結びつくこともできる。

だけれど、私たちにはトラウマがある。なけりゃこんなブログを読むことは無いだろう。

エーテルコードは私たちのなかにあるトラウマの存在を教えてくれる。

だから「切ればいい」ってもんではない。

エーテルコードがどこと繋がっているのかに気づいていくことがひとつの愛だと思う。

相手の欲求は自分の欲求である。自分の欲求に気づくことは、相手の欲求にも気づきやすくなる。

エーテルコードが『悪』であるとき、私たちはエーテルコードを断ち切ろうとするけれど、その関わりの中で気づくこともある。

自分のなかにある苦しみに気づいたら癒していける。

気づくことは愛だと思う。ただ、その気づく上で他人を過剰には傷つけてはならない。この『過剰』の部分を、人は現実的な犯罪として認識する。

だから、エネルギーレベルのことがこれから「当たり前になる時代」にはならない。

ただ、そういう知識は生まれてくるとは思うけれど、そこにもスピリチュアルって意味合いが「神しゃま」のお話になるのか。より現実的なお話により現実対応ができるのかは別の話だと思われる。

 

レイキでエーテルコードを断ち切ることは可能なんだけれど、根源的に自分のなかにあるエーテルコードを必要とするへその緒を持っている子がいるなら、その子を自立させてあげる必要性がある。

つまり、エーテルコードってへその緒なんだよな。

他人と自分を繋ぐへその緒。これを切っていく作業は、他人から卒業するってこと。

他人から搾取もしなければ、悪意を押し付けることもしない。自分が持つ根源的な欲求は自分で満たすことが出来るようになる。

誰かにこのブログを読んでもらいたいのならば、読んでもらえるだけのブログを書けばいいだけの話。

気づいてもらいたいなら、気づいてもらえるだけの人間になったらいい。

ただ、自分で自分の欲求を満たすための努力ができていないとき、へその緒から他人のエネルギーを欲するようになる。

何にもしないより、努力したほうがいい。その努力が出来ない人は永遠にへその緒がとれない。

ママ(他人)に自分が背負うべき感情の責任を背負ってもらいながら生きていくことになる。