アセンションする人たちとは?まとめ
アセンションする人たちについてまとめておこうかなと思いました。
- 自分が『逃げ』だと思う方向へ進めない
- どこかへ帰りたいと思っている
- 無があり、絶望し死にたい
まわりをみても、この3種類がアセンションする人たちかなと感じている。
どう頑張っても、自分が『逃げ』だと思う方の選択をしようにも出来ない。
逃げない、だから人生が苦しくなってしまう。
私の場合、結婚をすることは自分の人生からの逃げだったから、結婚ができない。
アセンションの確約が得られたときに「ようやく結婚ができる」と思ったのも、アセンション前の結婚は逃げでしかなくて、アセンションしなければ結婚が出来ないのである。
面白い感覚として「帰りたい」である。宇宙のどこかの星とか、私はお父ちゃん(自分の魂の生みの親)とこに帰りたい人だったんだが、何はともあれ、ずーっと「帰りたい」って気持ちが私の中にある宇宙意識の帰還を願う気持ちだった。
また「死にたい」というのも、無という宇宙意識に繋がりつつある意識があるから、絶望してしまい、死にたくなるのである。
たいていここで死んでもアセンションだと思われる。つまりアセンションできる準備が無により出来ているからこそ、死にたいとも言えるのかなと。
宇宙に帰るためには死ぬしかないわけである。
ただ、こたびは『宇宙意識』と『人間意識』のうち、宇宙意識だけが宇宙に帰還するゆえ、死ぬのは宇宙意識のみである。
アセンション後、半分死んでて、半分生きているって状態とも言える。これが半身半霊とも言えるんだろうし、半分は『無』により構築されていると思われる。
ちなみに私はものすごく気配が薄い人なんだが、もしかしたら、気づく人には気づく程度の気配になるってことなのかもしれない。
あと写真に透明になってうつるとかあるけれど、有り得ないと思われる。物質は物質だから。
アセンションした人達の特徴だけれど、
- 普通の人
- 神童も大人になればただの人
- 無でボーッとしてる時間が長い
- やりたいことやってる
- あんまり深く考えてない
- 直感は冴えてる
- 身についているスキルがある
- 精神的なものに惑わされない
- お金の使い方を理解している
- 普通の生活をしている
- 『差』がわからないけれど『違い』は理解する
- 傷つけあうことから距離がある
- 他人への期待値が底辺
- 感情の抑揚が一般人化
- 依存物がない(または少ない)
- 共存的、共産的
アセンションした人たちは、アセンションした自分が特別な人間で、自分たちだけユートピアな世界に生きているっていう考えを持っていない。
アセンション後、明確に『凡人化した感覚』が得られ『無』なので、自分を特別視していた過去が恥ずかしいとすら感じている黒歴史があることを記憶しているが、正直、それすら記憶の彼方で、どうでもいい内容にすらなっている。
多くの人がアセンションを目指しているわけなんだが、アセンションしたら、あなたが「自分は特別だ」と思えるようなものはすべて取り払われてしまい、手元に残るものは『凡人の自分』であって、目指す価値があるかというと「特別であることがことごとくしんどいこと」への理解がなければ、アセンションはしないと思われる。
- すごい自分になりたい
- 憧れの的になりたい
- 注目を浴びたい
- 誰かの特別になりたい
っていう意識がある時、アセンションは出来ない。
アセンション後の意識は『対等・平等』なわけで、自分だけが誰かよりも上の意識があると、新しい世界観が構築されない為にである。
すべてがアセンション後は『平均化』される。それは能力が平均化されるのではなく、自分の意識が『人類みな兄弟』に近く『人類みな平等意識』に繋がるために隣人との比較があってはならないのである。
なんなら『比較しないでいい人間性の構築』が求められるようになる。
これからのアセンションするか、しないか――の違いだが、単純に『持っている人』と生まれてきた個体が『持っていることへの苦痛』により持ち物を捨てている人達がアセンション側である。
逆に『持っていることが自慢』の人たちはアセンションしないと言える。
たいてい「なるほど、慢心だな」と思う行動と発言が見られると思われる。この時点で確定である。
ツインレイも同じことで『ツインレイであることが苦痛』であるならば、アセンションが進んでいて、その傲慢さを捨てなさいって意味かもしれない。(私は自慢したいわけじゃないなと思って捨てた)
結婚したという報告も「ツインレイと結婚しました☆」みたいなものは出さない。私はツインレイという傲慢とは結婚しない為である。
ツインレイって「ツインレイという究極の恋愛をするだけの価値が自分にある」っていう自分を価値化させることだと思っている。
だから「自分はツインレイだ」って語っている人たちはアセンションしなかったって話になる。
最終的にはスピリチュアル的なものからも脱却すると思われる。
精神意識(宇宙意識)から現実意識(人間意識)に切り替わるから、スピリチュアルよりも、より現実的なものに興味が行きやすいと思われる。
また、凡人化した私たちは、ありとあらゆる社会の間違いについてや多くの欠陥などについてや社会の陰謀についても興味が失せていくことになる。
私たちがより精神意識(宇宙意識)に繋がっているとき、傲慢な人間であり、無を目前に死にたくなりなっているからこそ、自分には何かしらするべきことがあってそれを遂行する存在なんだ! と思い込むことで自分から逃避しているだけなのだと思われる。
つまりアセンションからの逃避である。
ライ麦畑でつかまえての主人公のように、毎日を生きる大人になりたくない人たちがこれから蔓延するとも言える。
アセンションから逃避する人たちは、社会でよりよく目立とうとし、目立つなかで自分を満たすことをしている(これを承認欲求と呼ぶ)が、もし、ある時、当人が「凡人」になったとき、露見するものが必要最低限のものだけになるだろう。
ギフテッドがこれから増えてくるのではないか――と言われているが、ギフテッドがアセンションするのであれば『ギフテッドであることを捨てること』である。
アセンションした人達が軽やかになるかどうかだが、人体が重力を受けなくなるわけではないので相変わらず私の体重は47kgである。
つまりはこれから
- アセンションして凡人化した人(大人)
- アセンション逃避して能力者になった人(青年期)
の2種類が生じ、後者は色々なところで露見されているし、インターネットではよく見かけるようになると思われる。
人は何かを持たされて生まれてきたわけじゃない。何も持たずに生まれてくるのである。
だというのに、私たちは「自分だけが特別になにかを持たされている」という幻想を受け取っては、そのようなビジョンのなかで生きることもできる。
人は何も持たないから良いのである。
ただこの人生を生きることだけが与えられた使命だと言うのに、私たちがそれ以上を望むようになってからは人との共存が破壊されている。
人に優劣などない。しかし、人は優劣をつけたがる。なぜならば、そこには『大人になる恐れ』があるからである。
子供の恐怖を抱えたまま、私たちがどうして大人になれたと言い切れるのか。
アセンション。それは子供の恐れを手放して、大人という自由を手に入れることである。
それは『凡人』になることであり『超人』になることではない。
凡人になった私たちは、ようやく大人になって結婚をするのである。
好きな人と結婚をし、どこにでもあるような結婚生活に幸福を感じるのである。
しかし、青年期の結婚では、多くの条件により「好きな人が誰なのか分からない」ものであり、特別な生活に不満を感じるものである。