なとりというツインレイの人生(依存性パーソナリティー障害)

| Ⓒ なとり

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ツインレイステージまとめ

私のステージが進むごとに更新していくステージをひとつの記事にして販売しています。


さよなら、ツインレイ Kindle版
さよなら、ツインレイ

当時はこれでおしまいなんだ・・・。そんな風に思いながら書いた『さよならツインレイ』。結果的にさよならしたのは、神交法の相手であるツインレイの霊体だった件。今更振り返って読んでみると納得がいく一冊だが、当時はよくわかっていなかった。

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ツインレイのブログである世明けのツインレイと萌ゆるゆるのふたつを統合させた今、ここで私の人生について語るとか——。なにか意味があるのかようわからんが、とりあえず、私自身がいかなる人生であったのかについてを振り返ってみようかと思う。

 

私自身の性質はHSPだよと書いている。が、実際のところ、私の人格障害者レベルにまでいたっていた問題は『依存性人格障害』ってところだ。

分離不安を持ち、自分でなにひとつ決めることがない自己主体性のない自我である。

詳細的なものは、ほかの専門的なブログが存在しているからそちらで読んでみてほしいと思う。私がとりあえず回遊して探し出したなかで一番わかりやすかったブログさんがこちら

不安や恐怖に支配され、自分で何もできない。周囲の評価などに対してとてつもなく敏感でした。で、なんもできない。

 

人格障害にはA群、B群、C群と存在している。

A群『奇妙で風変わりな』

  • 妄想性人格障害
  • 統合失調質人格障害
  • 統合失調型人格障害

B群『感情的で移り気な』

  • 反社会性人格障害
  • 境界性人格障害
  • 演技性人格障害
  • 自己愛性人格障害

C群『不安で内向的な』

  • 回避性人格障害
  • 依存性人格障害
  • 強迫性人格障害

と3分類され、私自身は、C群に分類されていると考える。

つまり、私自身の人格のなかにある性格的傾向性は『不安で内向的な』という部分が存在している。そして、対局するようにしてB群である『感情的で移り気な』という性格が存在している。

私の感覚だと、このふたつは悪い意味で相性が良いとも言えるかと思われる。

そして、このC群のうち、私の性格的傾向は依存性人格障害に強く出た——ということろだ。

あたいは家族から家畜扱い状態で、ペットにするしつけはされているとてもいい子ではあったんだけど、家族に従順な感情的に支配された動物って感じかな~。

とりあえず、そんな生活が私の幼少期だ。色々あったぜ、あたいは家族みんなの感情のゴミ箱だからな。爆

ほかにも関連して出てきやすい気質が『回避性』と『強迫性』ってところだろうか。

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あたいはこの人格そのものを肯定的に捉えている。

途中までは自分が依存性人格障害であることにも気づき、人格障害を克服する方向性へ向かった。

そのために猛勉強もしたし、自分が『自立する』という方向性へ向かおうと躍起になった。

だけど、私は途中で「もう、大丈夫だ。」と思った。

それはひとつ、いかなることがあったとしても、私は私の味方である。この実感。

そして、これから何があっても、最後まで生き抜くぞ、というひとつの覚悟だ。

それからの私は『依存性人格障害そのもの』を肯定的に捉え、内包する方向性へ向かった。

 

私自身が行ったことは『仕事をやめる』『自己の喪失を行う』『依存する』である。

依存性人格障害のある人は、この三拍子がそろっているはずだ。私は、この三つを『肯定する』ことにしたのである。

これは私が幼少期に構築してきた人格そのものである。

仕事をやめることはとてつもなく不安があった。将来が不安だったから、仕事をしている方がある種の安心があった。だけど、あたいは仕事をやめた。

出勤することが苦手なことを受け入れることにしたのである。

ニートである罪悪感をも持った。しかし、ニートを肯定することにした。あたいはニートであることにほこりをもって生きていくことにしたのである。

そして、自己の喪失をも実行することにした。自分のなかにある『自分は』という自我をすべて喪失させていくことにした。

自己アイデンティティを意図的に拡散させて、『自分の人生』と、『他人の人生』を依存的に融合しようとする依存性人格障害です。

『他人との愛着・親密さ』を維持することに自己無きタイプの依存性人格障害の人の目的があり、自己犠牲的に他人に奉仕することで、『他人の幸福』と、『自己の幸福』を密接不可分に一体化しようとします。

引用:依存性人格障害

つまりなんだが、私は依存性人格障害者として中途半端に自我が存在していたのである。(ある程度は克服していたからな。)

ので、その自我を喪失させ、自他同一化を図ろうとしていた。

この依存性の人たちは『安心するために』ということなんだろうが、私は実行するって感じで、依存性の性質を手に入れることにした。

あたいには自我が喪失されていく経緯を経験していった。
空っぽになればなるほど、私は軽くもなったが、未来は重くなっていく。爆

だが、なるべくその恐怖と向き合わないように気を付けるようにした。不安と恐怖で行動をすることを私は恐れた。

未来はなんとでもなる、自分でどうにかすることができる。自分を『信じる』ことにした。

つまりなんだが、あたいは依存性人格障害を模すことにより、自分の人生を破綻側へ寄らせながら、自分の未来を信じるっていう意味の分からん分離活動を行っていたのである。

そして、最後の『依存する』。依存性人格障害について肝になる性質だ。

しかし、あたいは時すでに依存性人格障害が克服もされている段階で依存することはなかなか難しいが『何もしない』ってところで依存していると思ってくれるといい。

「何もできない自分を受容する」ってことである。

 

これにて私は、三拍子の依存性人格障害を模すことになった。

自我のない私だが、なんだかよくわからないとてつもない自我を持っているような性格ともなってしまったというカタチだ。

今、私へ「無責任な人間」とか「自信のない人」「依存的な人」「自己主体性のない」というような依存性人格障害の持つ感覚を認識することは難しいかと思われる。

表面的にはそのように見える、がちゃんとその人自身を見てみると真逆じゃね? ってことがわかる。

ふつうに、責任感強めの自信バリバリあるような自立的であり、自己主体性の強い人間である。

 

私は何をしていたのか、私の潜在意識による性格を『肯定』したのである。そしてその人生を歩み肯定することで、対局する要素の性格を持つことになった。

かなりの強いギャップ状態である。

ニートなのに、なんかよくわからんけど、すごい働きまくっているみたいな感じ。

ちなみにあたいは、一日の執筆量は1万文字を超すことも多々ある。ちなみにサイト収入はほぼないと思ってくれ。サーバ代ぐらいは稼がせてくれよと思いながら、家族に依存した生活を送りつつ、私は奉仕的な執筆活動に燃えている。

私はこういう生活が楽しいと思っている。

つまりなんだが、あたいは『依存性人格障害の擬態者』になっている。

もともとはそういう人生だった。が、途中で、依存性人格障害を克服してしまったが故に、擬態して潜在意識の性格を肯定する方向性へ進んだ感じである。

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そして、ツインレイの彼と出会ったのである。

依存性人格障害者の擬態者が、ここぞとばかりにツインレイの相手に引き出される潜在意識により依存性人格障害者として明確になり替わることになった。

その経緯で私は『不安』『恐怖』を乗り越えていくことになる。

ツインレイの相手である彼くんに、引っ付いていれば、あたいの将来は安泰である。依存的に黙って従順であればいい。これが依存性の性質だ。未来も不安だ、だからそうすればいい。

だけど、あたいは真逆の決断をすることになる。

「それは違う。このままじゃだめだ。」

あたいは、彼くんを不安や恐怖の代替品として欲しかったわけではない。

この性格は顕在意識により育て上げられた性格である。

 

あたいは、この人生で『依存性人格障害者』であるべきだった。だから、この性質を肯定するような人生を送っている。

しかし、それは表面的に——である。もう私はその人格障害は存在していないのである。

そろそろそれを受け入れていかなければならない。

私はもう時すでに、依存性人格障害を克服しているのである。

当初は、自分の依存性人格障害を否定するかのような人生だった。一生懸命頑張って克服した。依存はなくなった。

次に、依存性人格障害を肯定する人生となった。頑張って依存した。

最後は、自分の人格障害を卒業するタイミングに、ツインレイの彼に出会ったのである。

あたいは、自分の人格を『否定』『肯定』とし、最終的には『統合』させたのである。

 

自分の人格を否定する人生が『顕在意識の確立の人生』。

人格障害の克服による顕在意識の人格の成立時期にツインフレームの彼に出会っている。(自分の潜在意識を肯定する方向性へ向かうためにさよならをした。)

自分の人格を肯定する人生が『潜在意識の受容の人生』。

潜在意識の人格障害を受容する顕在意識の人格の成立時期にツインレイの彼に出会っている。潜在意識から魂の人生への移行時期に、ツインレイの彼に出会っている。(自分の顕在意識を肯定する方向性へ向かうためにさよならをした。)

ツインフレーム(年上) 顕在意識が潜在意識の肯定により離別
ツインレイ(年下) 潜在意識が顕在意識の肯定により離別

ツインフレームの関係性は『支配』であり、ツインレイの関係性も、同様に『支配』であった。だから私は、この一方通行性の関係性を終わらせる必要性があると考えた。

そして、このふたつを循環させているのが、統合である今である。

循環が始まると、なかにくすぶっている闇が消えていく。不安や恐怖、そして罪悪感が消えてなくなっていくのだ。

 

あたいは自立的であり、依存的である。これを共存とする。

このふたつの顕在意識による人格と、潜在意識による人格の両方を肯定することは、私の人生のすべてを肯定することに繋がっているのだと思われる。

そして、自分の人生のすべてを肯定することで、私のなかが平和なのである。誰も悪くない自分の心の平和が今生まれている。