金色のオーラの人が思う『金色のオーラ』の特徴
数年前に、オーラをみてもらったとき『金色』と教えてもらいました。
しかし、オーラの色の意味はわからないと言われ、金色のオーラがどのようなものなのかはわかりませんでした。
それから先日、座敷童子のお宿でみた夢が『金色のオーラの夢』でした。
私が金色のオーラを発している夢です。
そして、私の友達の頭と、緑風荘で今しがた知り合った年下の女性ふたりの頭(三人)にそれぞれ二本の光の筋が私から繋がっていて、私はふわふわ? くるくる? と飛んでいるような感じでした。
そして「私がもっている幸運は分けてあげられる」ということと「二元性」とのことを言われ(?)ましたが、教えてくれた人は『女性』で、座敷童子のように子供ではなかったように思います。引用:体験談|座敷童子のお宿『緑風荘』でのオーブと夢を体験してきた。
それから私も金色のオーラについて色々と調べてもみましたが、なんとなく、的を得ているようで外しているような感じもしました。
自分なりに金色のオーラについて説明してみようかなと思います。
金色のオーラは珍しい『豊かさ』の象徴
金色のオーラは珍しいと言われていますが、その理由は『神が介入しているか』『当人のオーラなのか』により、だいぶ意味合いが違ってくるように思います。
神が介入をしているのであれば、それは当人が神に守られていると考えることが出来ます。神に守られながら精神の成長を進ませ、最終的には当人のオーラへと変容していくことになります。
金色のオーラそのものは『豊かさ』の意味を持ちますが、金色のオーラを持つ当人が豊かである場合は神が介入している段階であり、豊かさを人へ提供することができるような段階で当人のオーラが金色として成長していきます。
簡単に説明をすると、オーラの原因が神である場合と、自分の場合の2種類があるってことです。
最初は神のオーラを借りていて、次に借り物オーラが自分のオーラになっていきます。
金色のオーラを神から借りている段階では、金銭的な免除を受けることが出来ます。
代わりに精神的な側面を成長させていかなければならない段階でもあり、ある種、金色のオーラを背負うには背負うだけの人生を歩むことになります。
だから金色のオーラを背負っている人は、お金に頓着がなくて人に無償で施しをしていたり。徳をつんでるんだろうなァっていう雰囲気の優しい人が多いのも事実。
そして、金色のオーラとしての生き方やあり方などを学びきった暁には(人へ与えることに慣れ切ること)、ようやく金色のオーラを自ら発することができるようになり、他者に何かを与えることができる存在へとなっていくことができます。
金色の豊かさとは何か
金色が持つ気質そのものは『豊かさ』であり、豊かさとは人に与えることができることを意味しています。
しかし、金色のオーラだったとしても、最初のうちは『貧しい』とされ、貧しいとは人に何かを与えることができない心を意味しています。
金色のオーラの人たちは「人に何かを与えたい人たち」です。何かを与えたいのに何も与えることができない自分のふがいなさをも理解しながら、人に何かを与えるために精神修業をしているとも言えます。
最終的には、人に何かを与えるまでに鍛え上げられたとき、金色のオーラの人たちは自らのオーラを金色としていきます。
与えたとして受け取ることがなかなか難しい段階でもあって、与えることに一生懸命過ぎて受け取ることにまで意識がいきません。
金色のオーラは良くも悪くも『与える豊かさ』を目指しているので『受け取る余裕』は最初のうちにはありません。
お釈迦さまは金色のオーラである
仏教のほうのお釈迦さまなどの仏像がきらびやかに金色となっていることがあります。
私たちが夢や意識体などでお釈迦さまなどを見ると『金色』に見える為であり、ちょっとした誤解があってなのか、お釈迦さまは金色の仏像となっていることが多いです。
しかし、本来のお釈迦さまはオーラを外してしまえば、普通かと思います。ただオーラが金色に放っているが為に『金色の仏像』となっています。
かくいう金色のオーラの道を進む人は神に守られているとし、人を金色のオーラの道(お釈迦さまへの道)を進ませているときのバックボーンとしての神は、金色に輝やいている仏教系の神だとして考えることも出来ます。
金色のオーラにも転落がある?
金色のオーラの人は、総じて金運はいいとして考えられます。まずに『お金に困ること』はありません。
が、この金色のオーラの人の持つ金色の意味が『因縁』のケースなどもあります。
私たちは人生のなかで人に何かをやらかすと、やっぱりやり返されるところがある。
お金に強い因縁があるときも、金色のオーラのことがあります。因縁を再現するために金色のオーラが必要なんですね。
このページでは、因縁ではなく、後天的に金色のオーラになっていく人たちについて書いています。
金色のオーラになるためには
金色のオーラになるためには『我欲(エゴ)』を捨て、自分自身のなかにある『低次の自我』を抑制することが求められます。
金色のオーラは、そもそも神の色であり、その色が人のなかに入り込むためには先ずは人間側が神が入り込めるだけの器となる必要性があります。
そのために、先ずは自分がよければそれでいい等の我欲を理解し、自分が持つ低次の自我を捨てる必要性があると言うこと。
最終的には低次の自我も、自分自身のもとへ戻ってくることにはなりますが、その前に『欲求』を捨てていく必要性があるのです。
欲求とは、我欲とは何かといえば、良心とは真逆の心を意味しています。
人は本来、良心そのものを持って生まれてくることになります。それが神の心でもあり、ハイヤーセルフや高次の自我と呼ばれるものとなります。
しかし、その良心に触れる前に欲求が邪魔をし、良心とは真逆の方向性へ進んでしまうことが人には大いにして存在しています。
誰かよりも優位な存在になりたい、誰かよりも劣位でありたくない。というような優劣意識が大元となる我欲が関係しているかと思います。
自分ばかりがいい思いをし、そのとき誰かが不幸になっても構わない。そんな考え方をしているとき、私たちは『我欲』にしたがい、神である良心からかけ離れた生き方をするようになります。
人には必ず『我欲』が存在しており、それが悪いこと——というわけではありません。
しかし、この我欲を中心に考え続けている限りは、金色のオーラへ近づきません。
我欲を捨て、低次の自我を抑えるとき、私たちは『嗜好』や『主観』など、個人が個人であるとする重要な感覚を捨てていくことになります。そして、すべてを捨て去ったとき、私たちは嗜好や主観が我欲のもとに構成され、また本来あるべき『低次の自我』ではなかったのだと気づいていきます。
つまり、金色のオーラとは、低次の自我が真実なる低次の自我へと変貌するまでの経緯と、そして、真実なる低次の自我を内包したときに生じるオーラだということです。
無価値感を受け入れる
私たちはやっぱり『価値が欲しい』と考えてしまいがちです。
だけど、金色のオーラのいたると、自分の価値を底辺へ据えていくことになります。
自分に価値があり、相手には価値がない。というような考え方だと、相手に与えることが出来ません。
自分が我慢を強いてでも、相手へ与えるという意識を芽生えさせていく経緯で自分を無価値として設定していきます。
金色オーラの人の性格『ひたすら優しい』
他人から見れば、とてもなく価値がある人。ですが、自分自身では金色のオーラをまとっているとか、そんな価値があるとかまるで考えていません。
自分の信念(他者愛)のもとに生きていますので、他人からの評価を気にすることもありませんし、自分に対してはとにかく無頓着のような人が多いかも。
けっきょく、神のエネルギーが介入しているのもあって、自分のことを一番に考えるよりも、まずは他人のことを考えるのが優先となっているので優しい人が多いです。
目下には穏やかであり、目上を尊敬する心もありますが、自分が尊敬されることにはむず痒しい感覚があります。しかし、その評価も受け入れることが愛情だとは思っていると思います。
金色のオーラってところから、金運がありそう・・・・・・とは思いますが、当人で稼ぐことが当初はできません。
たしかに金銭的な援助があることから、金運はありそうです。しかし、当初の当人にとっては少々コンプレックスです。それさえも乗り越えなければならないのも事実ではありますが。
次に金色のオーラが自力で放たれていくとき、ようやく『お金を稼ぐ許可』のようなものがでてきて、これからいかに稼ごうかって段階へ差し掛かりますが、それまでゆっくりマイペースに生きているところから、確実に『人生を生きる生身の人間としての鈍感力が半端ない』感覚がします。
確実に人に施すことが主体となる人生であるがゆえに『慈愛』に満ち溢れた存在ではありますが、その境地に至るまでの道のりは長いように思います。
よく目立ちます。金色のオーラがあるからかもしれませんが、何かしらよく目立ちますが、当人は特に気にしておりません。目立っていることにも気づきません。
自分に世界のなかで生きているからこそ、外界からの視点に気づかない感じです。
金色のオーラとなってから前期は修行僧のような人生を送りますから、優しいですが、自分にはとてつもなく厳しいです。
この厳しさが『無私』の領域へ達する度に自分という概念がなくなっていくので、ある種、自分がありません。
本来、自分がない人って意見もないし意思もんしような人になるかと思いますが、金色のオーラの人の自分がないとは、無私になるための信念だけはあるような状態です。
人にやさしく、自分を1番にしないことを信念とし、人に与えられるものを与えることをモットーにし生きているだけあって、精神力だけは鍛えられていきます。
ストレスの負荷が強くかかっている状態でも、笑っていられるような精神力を鍛えていく人たちでもあります。
金色のオーラの人の知性は高い?
面白い人が多いです。知性そのものが豊かさに繋がっているので面白いです。
私の周りの金色のオーラの人たちは賢い方も多いですし、優秀な方が多いです。本質的には超絶真面目で信念を貫き通すだけの知性があります。
が、私の感覚からして、私を含め『生きるの下手すぎる人が多い』のも事実です。
精神主義に傾倒して自分を放棄するだけの人生を歩むだけの知性があるけど、人としての存在としてはすこぶる生きるの下手な人が多い。
知性の使い方を精神主義から物質主義へ切りかえたら、もっと生活や人生の中で『お金』が溢れかえって幸せなんだろうなと思います。
思いますが、それが選べないだけの信念主義って感じです。
ですが、面白い人が多いです。話していてオリジナル感が強いのでおもしろいです。会話のテンポなども上手い人が多いです。
金色のオーラの人には霊感があるか
少なからず神に気に入られるぐらいには霊性があるとして考えますが、霊感はある人とない人がいるように思います。
先天的に金色のオーラを持って神に愛されています!というタイプは、霊感が強い方が多く、霊なども見えており、直感はとてつもなく強い方が多いような印象です。
というか、過去であってきた金色のオーラの方々はそんな感じでした。
私は後天的に金色のオーラへと昇格しましたので、その辺りから、神の夢をみたり、霊的な現象に悩まされるようにもなりました。
ですが、視える等の霊感はありません。直感は冴え渡っているほうかも、、しれない。
自分のことなので比較が難しいですが、自分のことの予感を直感で知るようなことも多々ありました。
人の未来を一度、視え知ったとき「これはいらない能力だな」とは思いました。知ったからと言って何か出来るわけではないからです。
それからはみていませんので、みえていない人ですね。
金色のオーラの人は、総じて直感を使いこなせれるようになっていくかと思います。が、使いこなせていく人はその中でもごくひと握りになる。
霊感や直感に金色のオーラの人が興味を示すことは多いですが、霊感の道に進むかどうかはそれぞれの希望にそうかと思います。
霊感的なことが好きな人は紫系のオーラの方が好きそうな感じがします。
金色のオーラの人たちは、霊感的ってよりももっと『お金儲け』的なことが好きだと思います。
精神主義に偏りすぎた影響でしょうか・・・・・・ 。
金色のオーラの人の恋愛と結婚『博愛主義』
まず、結婚がしたくないとか、興味が無いと金色オーラについて語られていることが多くて、ちっがーう(´TωT`)と言いたい。
たしかに金色のオーラの人って、人生が独立独歩。なんなら他人が何を言おうが我が道を自己開拓していくような人たち。
だけど、それが結婚異興味が無いとか、したくないとか。スキルアップの道具のように結婚について考えているわけではありません。
ただ、ちょっと恋愛に対して『めちゃくちゃ誠実すぎて上手くいかない』っていう事実を話したいです。
少なからず、私は結婚がしたいし家族が欲しいとも思っているし、金色のオーラが恋愛ごとに興味が無いっていうのはちょっと違う。
恋愛そのものから金色オーラ時代は遠のくことになりますが、理由として
- 自分はまだ未熟だから無理
- 自分の不安のために誰かを犠牲にできない
というようなネガティブなセルフイメージから、恋愛や結婚ができません。
超絶真面目で、人に対して誠実なことも過ぎれば人生の毒となっている状態です。
神からの金色エネルギーだって、未熟な人が受け取れば、謙虚を通り過ぎてただのネガティブなセルフイメージを自分に持っていくだけです。
この段階を通り過ぎ、金色のオーラを自ら醸し出し、THE オンリーワンっていう意識が芽生え始めたとき、ようやく『家族が欲しい』と思い始めます。
この段階までは、恋愛も結婚もお預けの精神で、年ばかり食っているというのにセルフイメージが低いばかりに婚期を逃すようなことも『自己責任』とか思いながら過ごしています。
金色のオーラの人たちは、低次の自我を無私へと切り替える段階では、恋愛をほとんどしません。
人を好きになる感覚も実際はよくわからなくなっていきます。ただの博愛主義者へなっていくことで無私へと近づきます。
無私とは『なにか固有を大事にする』というこだわりや差別愛(単純に自分の好みの人を好きになってただひとりを愛し大事にすること)を持たないことでもありますから、人を好きになることもありません。
ゆえに好意を寄せられても実際は自分の気持ちがわからないのでお断りすることも多いです。
自分でようやく金色のオーラを持つことができたとき、無私の段階から『オリジナルの自分』が出来上がっていきます。
この段階に差しかかるまでは博愛主義ゆえに、誰が好きなのかもわかりません。
わからないので恋愛や結婚ができない、他者に愛着がもてないというのが真相のように思います。
オリジナルの自分を持つことができたとき、金色のオーラの人は『たったひとりを一途に愛し抜く』という博愛主義とは真逆の道が始まります。
決して恋愛や結婚に興味がないわけではありません。ただちょっと精神的に真面目すぎるのが痛手なんです。
あと女性は『玉の輿』に乗ることもあるのが、金色のオーラなんだそうな。
金色のオーラの人の人生『大器晩成』
特殊です。金色のオーラの人の人生は、とても特殊な人生ですので、人に理解されることはありませんが、『なぜかそれが常に許されている』状態です。
本来ならば、はやく独り立ちをして身を立てることも求められ、家にい続けることなど『未熟者』としてのレッテルから当人もあがき、周囲からの目線も痛くなるはず。
しかし、金色のオーラの人は、むしろそれが許されるし、なんなら家にいてくれた方が嬉しいと思われていることが多いです。
金色のオーラの人は、まずは無私への道にあるので、無私である『いかなる最悪な自分でさえも受け入れながら生きる』し、そもそも主観も放棄されていきますので、特に気にならない人が多いです。
しかし、それも『無私』から『オリジナルの自分』へと金色のオーラが転身した暁には、金銭的なことから恋愛や結婚など、今まで無私であるために無視し続けてきた自己の欲求を解放していくことになります。
人生の前半と後半がはっきりするかのような『明らかな転身』が金色のオーラの人にはありますから、たしかなる大器晩成といえる人が多いです。
特に人生の前半では、地道に研究だったり、自分を捨てる行為と共に自分の精神を構築していく(自分の精神力やエネルギーの量や器)ことになります。
大器晩成の前半で『精神力』『人間力』を鍛えます。後半では『生きがいのある人生』を送ろうと考えるため、自分のやりたいことを突き抜けて才能を開花させていくことになります。
少なからず、金色のオーラの人は無能な人はいません。しかし当人は無能で生きていますし、それを受け入れていく人生です。
金色のオーラの人の人生は、途中ではっきりと切り替えが生じるかと思います。
ゆえに大器晩成です。
金運や仕事運などがよい、名声を得る、栄誉を受け取る等ありますが、とくにそのようなことはありません。
金色のオーラの人たちにとっての『人生の成功』と一般的に語られる人たちの人生の成功とは違うことかと思います。
金色のオーラの人が持つ『人生の成功』とは、やりたいころをやり、そのやりたいことが人のためになっていることです。
そして、そんな人生に喜びを感じていくことが金色のオーラの人の成功であり、名誉であり、勲章です。
金色のオーラがあるから、仕事運がある、金運がある等言われますが、ありません。精神的な充足を重要視し、そのなかでお金を稼ごうと思う人たちです。
いわゆる『棚ぼた』があったり、『名誉職に着く』などもありません。
人生のなかでの喜びが、仕事のなかに見つけられ、常に楽しく嬉しく生きていくことが出来る、他者との比較の苦しみなどから逃れているような人たちです。