精神世界と現実世界の仕組みと、人のせいにし続ける人の末路について
私たちは『物質的なもの』を現実世界とし、『視えないもの』を精神世界とする。
このうち、物質世界を担当しているのが高天原の天津神で、精神世界を担当しているのが国津神ってところ。
神話のなかで、地球を担当していたのが『国津神』だったわけなんだが、途中で地球を担当したいとアマテラスがいい始めて、色々なやり取りをした結果、高天原のアマテラスさんを主体とした『天津神』が地球を担当することになった。
私たちは物質世界と精神世界が反発し、相容れないような状態にもなってしまいやすい。
物質世界で責任を取らない人は精神世界の責任をとるしかないし、精神世界の責任を取らない人は物質世界の責任をとるようになる。
いわゆるメカニズム上そのようになっている。どっちかの責任をとるようになっている。
が、私たちはわりかしワガママなのもあって、精神世界の責任を取っている人は物質世界の責任を取りたいと考えている。
物質世界の責任を取っている人は精神世界の責任を取りたいと考えているところがあるような気がする。
だけど、本質的には片方の責任をしっかりととることが出来ているとき、もう片方の責任は取らずと良いともされている。つまり、どっちか責任がとれたらそれでヨシって感じだと思われる。普通の人はそれでいい感じ。
その場合、自分の管轄外を人に責任を押し付ける等のことはおきない。周囲が「まかせて!」といわんばかりに担当してくれている状態になる為、とりわけて管轄外における問題が生じる等のことがないということ。
自分の感情の責任をとるとは、いかなる感情を己のなかに発生させたとしても、その感情は『自分の感情である』という自己責任である。
自分の現実の責任をとるとは、自分の行動を起こした内容により発生した結論が、いかなるものであったとしても自己責任ということである。
自分の感情の責任を取っている人は、現実の責任を免除してもらえる。
現実の責任を取っている人は、感情の責任を免除してもらえる。
世界の責任放棄と人のせいにすること
それぞれの世界でも『責任放棄』をとっている人たちもいる。
現実的な部分で「人のせい」にする人もいるし、精神的な部分で「人のせい」にする人もいる。
まずは一方の責任をとる必要性がある。そのとき、私たちはもうひとつの世界を知ることがない。
精神側の存在は、現実側の存在を知らない。つまり、現実側からの視点を理解することはない。
いわば、この循環の図の通り、現実と精神の循環は逆に回っているからこそ『相容れない』状態なのである。
精神が停滞しているとき
現実的な部分で『自分の発言や行動による結果』の責任を取らないでい続けると、精神的に傷つきやすくなる。
精神的に流れが生じていないために『傷つく』のである。そこにある心が凝り固まっている為、破壊するようにして傷がつく。
うまくいかないのは人のせい、うまくいかないのは運気のせい。うまくいかない原因は自分にはない。何かしらの原因があって、現実がうまく回っていない。(自分には問題がないということ。)
このような現実的な部分で、うまくいかない事実に対して受け取れず、なにかしらのせいにし続けているとき、精神的な部分で傷つきやすくなる。
ツインレイの場合は『ツインレイの彼のせいで』という感覚があると、現実が停滞し自分が傷つく方向性へ進む。
いわば、ツインレイの彼が未熟だから——等も同じようなものかと思われる。
現実が停滞しているとき
自分の感情の責任を取らずに「自分を怒らせた理由は相手にある」と考え続け、自分が不快な原因を人のせいにし続けていると、現実的な部分が停滞となり、現実が先に進まなくなる。
たとえば「嫌だな」と思う原因を他者に見つけ、人のあら捜しをし続けることなどである。この時点で『あら捜ししている間に時間が過ぎている』ので、現実の停滞が進むわけである。
『人のせいにする』『なにかのせいにする』とは停滞とさせる。
人のせいにし続ける人の末路とは
人のせいにし続ける人は、なにを人のせいにしたのか——によって結論は違う。どっちにしたって、どこかが『停滞』する。
精神的に発展がないので「子供のまま」の精神状態である。
現実的に発展がないので「なにもやらない」の現実状態である。
精神が子供のままであれば、大人のなりした子供であるがゆえに、人は寄り付かなくなる。現実的にやりたいことができない状態に自分を縛り付けていくので、なにもやれない人になる。
根源にあるのは『現実を直視できない』ということ。現実と向き合うことができない何かしらの理由がある。
責任をとることにより人から責められるのが怖いなどあるようなんだが、当人が人を責め続けているので、そりゃまわりまわって人に責められてもおかしくはないだろうなと思う。
いわば、因果応報。自分がやったことは必ず自分にかえる仕組みを理解しているからこそ『責任をとるのがますます怖い』になるのだと思われる。
その責任を他者に押し付けていった方が楽だと思っているようだが、それがドンドン大きくなるほうがマズいことになると私は思う。
だけど、逃避しようが何しようが最終的には『ぶち当たる』から、そのとき考えればいいのかもしれない。
自己責任をし続けると――
精神的な責任と現実的な責任を取り続けていると、人に責任を押し付けられるような仕組みに巻き込まれていく。
もし、背負うものがあれば、それは『自分が過去にやらかしたこと』である。責任を背負わせていただくが、本来、私たちはエゴイズム的なので「人の責任なんか背負いたくない」わけである。
ゆえに、人の責任に対して「背負いたくない」と反発が起きることにより『停滞』、または『病気』が生じる。
しかし、『自分が過去にやらかしてもいないのに責任を押し付けられる』等のことが起きると、スルーされる。自分が背負うこともなく、スルーされ、相手にかえっていく(すーっと過ぎていく)。
一時的にはモメたしても、背負えるのは一人分の魂分である。それ以上は背負えないのである。
つまり、他人の責任を背負うことは自分の責任を背負うこととなる。
自己責任も他人の責任をいただくことも、最終的には『自己の魂分だけ』しか背負えないから、自己責任でしかない。
自己責任をし続けると停滞する
すべての責任を取り切ると停滞する。
あれ? って思った人、いると思う。
そう、人のせいにし続けた反対側の世界も停滞するし、自己責任を取り続けた世界も停滞する。
いわゆる『同じ土俵』に成立することになる。現象そのものは同じということ。
- 精神的に子供
- 現実的になにもやれていない
この2項目が人のせいにし続けている人たちにもあるが、同じように自己責任を取り続けている人たちも、精神的に無邪気な子供で、現実的には何もやれていないような状態となっている。(だが、人のせいにし続けた人たちは『許されない』けど、自己責任し続けている人たちは『許されている』のである。)
人のせいにし続けた人たちは『自分の反対側』が停滞するけど、自己責任し続けた人たちは『自分側』が停滞することになる。
現象は同じですが『反対側』になるかどうかが違う。
だけど、同じ土俵でもあるため、ツインレイのサイレント期間では『自分とは真逆の存在』として闇の刺客が発生することになる。それは『闇』なのか『光』なのかの違いだと思われる。
人のせいにし続けた人は闇であり、自分のせいにし続けた人は光になる。
空間的に理解すれば、上から下に行くことと、下から上に行くことに違いはない。どこを上として定義しているのかということ。これが『自分の視点』であり、また相手の視点が真逆であったとしても、それを責める必要性はないと思っている。しかし、相手からすれば、自分の視点とは真逆だから責めなければならないわけである。
こういったことが『同じ土俵の上で成立する』ようなタイミングが私にとってのサイレント期間だった。
この期間が魔境にある。
この魔境期間で『自分のせい』というカタチで自己責任していた人たちは『他責』についてや『自己愛』についてなどをも学ぶことになる。
いわゆる精神的な自己責任を取っていた側は、最終的には現実的な部分の自己責任がとれていない事態に気づく。
偏ってしまうと言うことだ。
現実的な自己責任を取っていた側は、精神的な部分の自己責任がとれていない事態に気づくことになる。
が「そこは平地」である。人のせいにするとかしないとか。そういうことでもない。ひたすら『自分とは真逆の世界観を犠牲にしていた』という事実に気づくのである。
精神的に偏れば現実がおろそかになる。現実的に偏れば精神がおろそかになる。
この偏った自己責任者は反対側の世界が「何もない空っぽ」状態となっている為、そこに取り掛かっていくようになる。(いわば何もやっていないのである・・・・・・)
しかし、今まで100%の偏り抜いた人生は間違いではないことも理解している。その経験があるからこその真逆の世界を構築していくことが出来る。
これが『豊かさ』に繋がっている。
精神という土壌のうえに成立する現実。豊かな現実。(従来は貧しい心が始まり)
現実という土壌のうえに成立する精神。豊かな心。(従来は貧しい現実が始まり)
オーラ的に、
精神的に偏り切る⇒現実を構築する場合は、金色になる。
現実的に偏り切る⇒精神を構築する場合は、銀色になる。
まだよくどういう仕組みなのかはわかっていないが、おいおいかけていけたらいいなと思っている。