瞑想中に起こる魔境についての解説と魔境の抜け道

| Ⓒ なとり

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さよなら、ツインレイ

当時はこれでおしまいなんだ・・・。そんな風に思いながら書いた『さよならツインレイ』。結果的にさよならしたのは、神交法の相手であるツインレイの霊体だった件。今更振り返って読んでみると納得がいく一冊だが、当時はよくわかっていなかった。

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よくスピリチュアルな方々が瞑想のお話をしているが、私自身はほとんど瞑想をしません。

私はよく寝ている人です。一日約12時間近く布団の中にいるほどの過眠の人が瞑想をしてみてください。

一日の過ごす時間の半分以上が『意識がない』ってどうなのよ? って思いませんか。少なからず、私には瞑想している時間がないほど寝ているというのが実態のように思います。

本日も、起きたのは昼の2時。それから活動を始め、今、4時にようやくパソコンデスクに座り、記事の執筆を始めています。

それでも、私は『魔境』に陥ったことがある。それは私自身が大いに自律神経失調症の状態であるからなのだと思います。

瞑想をしなくとも、魔境に陥り、その先にあるキリスト化現象を引き起こすことが出来ます。

 

この記事では『魔境の本質』へと迫ります。

そして、その魔境とは人それぞれの精神構造により違い、その魔境は瞑想をすることがなくとも陥ることになります。

最終的には『二元性』へと到達していくことが私たちの目標なのだと思います。

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瞑想の目的とは?

瞑想の目的とは何かについて説明します。

これは私自身の見解です。

 

瞑想を行うことにより、私たちは夢のなかで整理されている内容を起きながらにして経験することが出来ます。

ゆえに、瞑想中にいろんな映像をみたり、聞いたりすることになります。

この手段は寝ている状態で行っている自分自身の感情などの整理を意図的に行うことができるというような状態でもあります。

瞑想の目的とは「寝ているときに行っている脳みその整理を加速させる」ということができるので、ある種、思考の浄化にも至ります。

ほかにも、瞑想をすることにより霊性開花を行うことができる(?)等の話もあるようです。

が、瞑想をしても霊性は開花しないように思います。

理由は、瞑想をすることによって自分の中の思考がクリアされることにより、論理の先にある直感が冴えわたることがありますが、瞑想は『自分をクリアにする』ことが目的であって、次に直感が冴えわたる状態へ導きます。

瞑想の目的は『自分をクリアにする』ことであり、霊感をあげるための手段ではありません。福禄的についてくる可能性はありますが、目的をそもそも危ぶんでしまう人もいらっしゃるように思います。

 

そして、その道のさなか『魔境』というものに遭遇することにもなります。自分をクリアにしているなか、自分のなかに存在する悪魔に気づいていくためです。

瞑想の『魔境』とは?

瞑想中に起こる『魔境』についての解説です。

魔境とは、瞑想中に起こり得る「不可解な現象」とも言えるのではないかと思います。

たとえば、瞑想中に『神を見る』『悪魔を見る』等の出来事が起き、仏教のほうでは神を見ても殺せというほどの言葉が存在し、キリスト教のほうでは悪魔にそそのかされた話が存在している。

瞑想中に起こり得る魔境とは、自分にとって欲しいものが提供されているような状態とも言えるかと思います。

たとえば、神を見たいと思っている人には神を見る、悪魔を怖がっている人には悪魔を提供し、私たちの心の弱さをついてくるのが『魔境』だということです。

ほかにも、好きな人が現れたり、禁欲中であればおせっせが始まったりなど、魔境中にはありとあらゆる煩悩や、自分にとってはとてつもなく嫌なことであったりなど、乗り越えねばならない出来事が何度もやってきます。

魔境中に起きる出来事
  • 自分が嫌いな存在がやってくる
  • 自分が嫌悪しているものが向かってくる
  • 自分が欲しているものが手元へくる
  • 私利私欲をついてくる
  • 自分の恐怖がやってくる

いわゆる私たちにとって『乗り越えねばならない壁』が、魔境中にやってくる——ということ。

そして、それを瞑想中に克服していくことが禅の道にあるということです。

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魔境は人それぞれ違うカタチでやってくる

魔境は人それぞれ違う形をしています。

魔境そのものの本質は『自分のなかに存在する悪を受け入れよ』です。

悪の定義は人それぞれ違います。

簡単にいうと「なりたくない存在」です。

なりたい自分になろうと一生懸命生きてきた素直な人は、魔境では「なりたくないと悪にした存在」がやってきます。次に、自分のなかになりたくない自分を認識し、認めていきます。

 

悪を受け入れて「なんでもかんでもやっていい」という否定的アイデンティティを爆発させ、犯罪者になる人は『自分は神である(だから何をしても許される)』という自意識が存在しているときがあります。

ものすごい悪人が天啓を受け、最終的に聖人になる話は色々と残っております。

悪人も行き着けば行き着いた先でひっくり返って『善を理解する』ことにより、二元性へと着地するのだとは思います。

二元性の理解がキリストの状態なのだとすれば『善の道側から進む』のか『悪の道側から進む』のかの違いであり、魔境へ行く人もいれば天境へいく人も存在しているということです。

どっちにしたって同じことでもあります。自分が排除している意識を受け入れること——です、排除している意識が『いかなる具現化』なのかにより違うだけ。

相手にみえている側面性は常に『自分である』ということ。その自分を常に受け入れていくことにより、二元性へと到達していきます。

魔境を抜けていく経緯について

  1. 魔境が起きる
  2. 自分のなかに存在する悪と対峙する
  3. 自分のなかに存在する悪を受け入れる
  4. キリスト化

最終的に、すべてがうまくいくと『キリスト化』が起きるようです。

この『魔境』の間で、自分自身のなかに自意識過剰が起こり続けていくことになりますので、この自意識過剰をも克服していく必要性があるのではないかと思います。

多く散見されたのが『自分は神だと思っている』という人や『自分はすごいんだ』という人。ほかにも『自分は特別なんだ』という方々がとても多かった。

ちなみに私は、自分に対して凄いと思う一つでもあるのであれば、それは人に与えるものだ——という意識がありました。才能があるならば、それは人のために使うものって感じです。

自分で言うのもなんですけど、私は自分がバカではないし、人よりも少しは知恵が回ると思っていました。だからこそのこの知性は人のために使うものだと自分に言い聞かせていたし、少しは学ぶことができるのであれば、その知識は人のために使うこと——として考えていました。

おかげさまで、恥ずかしい自意識過剰の姿からはずいぶんと外れることが出来ていたような気がします。

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魔境中に起こる『自意識過剰』

瞑想中の魔境のひとつに『神を見る』というものが存在しています。そのとき、私たちは「神を見るほどにすごい人間なんだ」と、自意識過剰に陥ることがある。

つまり、自分自身が神なのだ——と思い込んでしまったり、自意識過剰のような状態に陥るため、仏教のほうでは「神を見たら神を殺せ」というような話があります。

しかし、ほかの聖人などの話では「天啓を受ける」等の話などもあり、じゃあ、これは魔境であり嘘っぱちなのか——という疑問も生じることになります。

いわゆる宗派や宗教によって魔境に対しての考え方が違うということでもあるかなと思います。

 

私自身が思っていることは『自意識も大事』ですし『謙虚も大事』だということです。考え方をどう持つのかなのだと思います。

つまり、神を見るほどの自分なのだという自意識も大事ですし、神をみるには恐れ多い自分であるという謙虚さの両方ともが大事なのではないかと考えています。

どちらかに偏ることの方が問題なのではないかということ。

謙虚すぎても問題ですし、自意識過剰に陥っている状態も問題。

一番に大事なのは『神を見た自分はどうあるべきなのか』です。

この『自分がどうあるべきか』の姿が明確にビジョン化されていないために、聖人の道から外れ「自分はしゅごい人間なんだ!」と傲慢化させ、なんでもかんでもやらかしては「神だから許される」みたいな自意識を持つことになります。

こういった思考の方向性を間違えてしまう人が多発する為、瞑想をする人はしっかりと『師』を持つようにとされています。戒めをしっかりと教えてくれる人が必要だということです。

 

自分は神である——と神との一体感を覚えるのも大事ですし、自分は神ではない——と神との分離を覚えるのも大事です。

けっきょく、どちらが良いと言う話なのではなく、ある一方では『自意識過剰の道』が存在し、ある一方では『謙虚の道』が存在している。

しかし、最終的に、その道の最終地点では、もう一方の道を認識し、自己の中へ内包していくことで自分のなかで『神に対しての概念』を形成させていくことが出来るということです。

私たちが考える善悪では『自意識過剰が悪』であり、『謙虚が善』かもしれません。しかし、神が思う善悪はまた別にあるのではないかと考えてみるのが筋かもしれない。

人としての問題は、先ず自意識過剰となって、他者よりも優位性を持つことが問題だということです。

私たちが持つべき自意識過剰とは『神』という存在を知り、またその神のもとで、いかに生きるのか——。その答えの多くを聖人たちは『人のために生きること』でした。

神にとっての自意識過剰の善とは『神に愛されているからこそ、人のために生きる』。自意識過剰の悪とは『神に愛されていることに傲慢になる』。

私たち自身が、魔境のなかに存在する神に対して、いかなる反応を示すのかが別れ道なのだと思います。

また、仏教のほうでは傲慢になる人が続出したために『神を見たら、おまえの欲望の具現化だから殺せ』ということなのだろうなと思います。

魔境とは現実にも起こり得る話

魔境とは現実にもおこる可能性があります。

魔境とは瞑想中に起こり得ることとされていますが、実際は違うのではないかなと思っています。

いわば、私たちは現実の中でも『魔境の中へ陥ること』が起こります。それは、私たち自身が「乗り越えなければならない壁」がそこにあるとき、魔境が存在していると考えられます。

かくいう私自身は、瞑想をほとんどしません。

しませんが、実際、脳疲労を起こして眠れないときに瞑想をしていたりすると、スットーンと魔境のなかへ陥ることが度々ありました。(こういった瞑想訓練しているわけでもないのに、魔境へ落ちる人は前世で僧侶だった等の話があるようです。)

そんな私自身が経験した魔境では『自分の欲を何度も試されていくこと』が行われていました。

それは、

  • お金を稼ぐこと
  • 犯罪を犯すこと
  • 嫌いだなと思う存在と対峙すること
  • 拒絶すること
  • 好きな彼のこと
  • 宝石のこと
  • 神のこと
  • 否定と肯定されること
  • 欲求について

というようなカタチで、自分自身の欲を試されていたように思います。

起きている最中にも、軽いトランス状態に入るとき、好きな彼に話しかけられているような感覚や、目の前に彼がふんわりと現れていたりなど、幻聴幻覚をみるようにもなっていました。

これぞ『統合失調症』の症状でもありますが、不思議な経験だったと思います。

そして、ほかにも私自身がなかなか先に進むことができないでいた『お金を稼ぐこと』についてなども、色々と自分自身と向き合うためには必要なことが魔境には揃っていました。

一切合切まとめていえば「どれも別に悪いものではないし、受け入れていいもの」だったと思いますが、私は嫌悪を示し、拒絶をしていたように思います。いわゆる『魔境に対しての拒絶』です。

そのひとつひとつを私は『肯定する』ようにして過ごすようにもなりました。

最終的に私が魔境を抜けていく経緯では『自分の悪として定義したものを肯定する』ような形へ着地しており、随分と生きやすいようになったような気がしています。

これが私自身が経験した魔境が現実で起き、その現実のなかで苦痛を感じた話です。

 

おかしな話ではありますが、私の魔境とは『私のなかに悪魔が存在することを認めること』だったのです。

たとえば、キリストでは『悪魔にそそのかされた』等の話もありますが、当時はやっぱりそそのかされた感覚もしますし、しかし、それが『悪いこと』として悪を生み出していたのは私たち自身であったことに気づいていくことが魔境の本質だと思います。

 

最終的に私は『自分が金色のオーラになっている夢』を見ています。

私が金色のオーラを発している夢です。

そして、私の友達の頭と、緑風荘で今しがた知り合った年下の女性ふたりの頭(三人)にそれぞれ二本の光の筋が私から繋がっていて、私はふわふわ? くるくる? と飛んでいるような感じでした。

そして「私がもっている幸運は分けてあげられる」ということと「二元性」とのことを言われ(?)ましたが、教えてくれた人は『女性』で、座敷童子のように子供ではなかったように思います。引用:体験談|座敷童子のお宿『緑風荘』でのオーブと夢を体験してきた。

これが『キリストへの昇格』みたいなものなのでしょうか。

魔境とはアセンションに繋がる分かれ道

多くの人たちがアセンションを目標にしているところがあるようですが、魔境そのものがアセンションの入り口のような気がします。

自分自身のなかに存在する『悪魔』を認めていくことで、私たちは魔境を抜けていくことが出来ます。

それは『自分のすべてを認めていくこと』でもありますが、本当の意味で自分を認めることが出来ていない人は、他人を認めることができません。

自分に与えることが出来ている人は他者にも与えることが出来ます。

つまり、アセンションをするために必要なのは『他者へ与えること』が本質だということ。

他者へ与え続けた結果、私たちは最終的に自分自身のもとへ『悪魔』が戻り、その悪魔を内包することで自分を完全化させていくのだなと思います。

瞑想がアセンションの鍵となっているのであれば、確かにそれは『手段』として活用できるとは思いますが、多くの人が自分のなかに存在している悪を認めていくことはなかなかできません。

これが『アセンションの分かれ道』になるのではないか? と思っています。

自分は悪くない。その意識がある限り、私たちは自分自身のなかに存在する悪を認めることが出来ず、その悪を受け入れることが出来ません。

そして最後は誰も悪くないことに気づいていきます。どこかで誰かを責めてもどうしようもない事実に直面し、私たちはひとつの空へ到達していくのです。

私たちが欲しがっていた箱の中身が空っぽであると理解し、それが悟りのひとつへ繋がります。

瞑想とは手段のひとつです。しかし、最終的に瞑想をしていればアセンション出来るのではなく、瞑想中の出来事に対してどのように対応するのかが問われ、それが人の器量なのだと思います。

 

また、このアセンションを乗り越えることが出来た人たちの多くは、向こうからやってくる『悪』を跳ねのけるだけの徳を持つということ。

私たちのなかに悪が存在している限り、悪が向かってこないということです。

外部に悪が存在しているのは、自分自身のなかに存在している悪に知覚がないということ。

この視点を手に入れていくことにより、死さえも除けることができるのが私たちのアセンションのひとつのように思います。

 

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私たちは神でもあるし人でもある

私たちは瞑想中に神を見ることにもなります。そのなかで、私たちは『自分が神である』という感覚を覚えます。同等に『自分は人である』という感覚をも覚えます。

私たちは、人であり神でもある。どちらかに偏っているとき、私たちはならずものなのかもしれません。

自分が神であるとき、私たちは人でもあり、またどちらも肯定することができ、どちらも認識することが出来たとき、私たちはようやく『人間』という存在になることができるように思います。

私の場合、神と人から生まれたという意識を知りました。

父という神のなかで地上における悲しみという母が変換され、私という存在が生まれました。

ゆえに、私は人が持つ悲しみを持ち、神が持つ悲しみを喜びへ変換する力を持っている。

私たちは、神でもあり人でもある。だからこそ、私たちはどちらかに偏ることはありませんし、どちらかに傾倒することもありません。

 

この世にある悪がなくなることはありません。私たちのなかに悪があることに気づいていくことがあれば理解できます。

私たちのなかにある悪に気づけば、この世に存在する悪がなくなることはあり得ないことがわかります。