ツインレイとしての精神構造の過程(ツインレイの他者と自己の概念変更の流れ)
ツインレイはツインレイの相手を受け入れる『器』を、先ずは形成せねばならない。
ツインレイの最終的に行き着くところは『真の自我性』である。真の自我性を形成するために、私たちは『自我独立性』と『他者独立性』のふたつを自身の精神構造のなかで樹立させる必要性がある。
さて、この話をもう少し、身近な感じで捉えていけるような形で解説していこうと思う。
私たちは『他者』という概念を複数に捉えている。
ツインレイの相手は他者であり、それ以外の人たちも他者である。そして自分は『一人』であると認識している。だけど他者は『複数』と認識する。
この概念が通用するのは、ツインフレームまで――とも言える。いわば、私たちが親離れをするために必要である向き合わなければならない相手のことであり、父親代わりの結婚相手となる。
ツインレイの概念としての『他者』とは『自己』と『他者』の2人しか存在しない。
ツインレイは自分自身と、ツインレイの相手は『自分以外の他者すべてを内包する存在』として考えることになる。
ゆえに、ツインレイの相手は『世界』である。
先ずは、この概念が大前提となるが『ツインレイ』であり、この世界であるツインレイの相手と出会い、世界を取り込んでいくことになるのがツインレイとなる。
いわば、この世界に敵や味方という概念もないってことになる。すべての人が『ツインレイの相手』であり、ツインレイの相手を内包することにより敵は存在しない。己だけである。
他者が女性ならばツインレイの相手が持つ女性性であり、他者が男性ならばツインレイの相手が持つ男性性である。その体現に過ぎない。
ツインレイと出会うまでの精神構造
ツインレイと出会うまでの精神構造では『自分』と『他人』のふたつの概念が成立すまでの経緯である。
このときに『他者は等しく他者である』という考え方になる。これが博愛主義者の思想にある。
恋に落ちることはない。なぜならば、他者は皆同じ他者だから、どれをとっても同じことになる。特別視という考え方がなくなる。
恋とは特別視の発端であり、親に対しての愛情を他者に向けている状態であるが為に複数形の認識を世界へ求めることになる。(このとき、敵と味方という概念も生まれている)
博愛主義者となる『他者はみなすべて同じこと』というタイミングで、ようやく『他者はみなすべて一人である』という観念までに陥るとツインレイに対しての実体がとれるようになる。
私たちは二元性に縛られているために『他者』または『自己』のどちらかを選ばなければならない。意見が違うとき、必ず相手の意見に合わせることが出来てようやく『他者の優先』が出来るようになるのである。
私たちはツインレイの相手を望む限り、他者を望み続けなければならない。ゆえに、自己は抑圧される。
この経緯で、私たちは『自己に実体』をもたなくなる。
ツインフレームの段階で『自分』を手に入れているが、次に、私たちは自己を殺し、喪失していかなければ、実体のある他者を構築することが出来ない。
自分の精神領域に『他者』をうみださなければならないのである。精神領域に他者という概念がしっかりと構築されたとき、私たちはツインレイと出会うのである。私たちが人を愛し、自分を抑圧する理由は実体のある他者であるツインレイへ到達する為である。
その経緯で私たちは、多くの人たちと出会い、その人たちと折り重ねる経験をもとに『ツインレイ』という概念を精神内に構築する。
このとき、私たちは『ツインレイの相手』が自己にあり、自分自身は喪失されているような状態である。
否『ツインレイの相手を自身のなかに構築できるスペース』が出来上がり、次に『ツインレイの相手を迎え入れる』という状態だ。
いわば、ツインレイの相手を『複数形』として捉えている状態から、ツインレイの相手を『一人』にまで認識する経緯がツインレイの経緯である。
ツインレイの相手に出会ったとき、相手は自分である。そのような認識は正しくも間違いである。いわば、ツインレイの相手のなかに存在する自分とは複数形の多人数により形成された自己であるためだ。(他者愛により構成される。)
この図式の法則性が成立したとき、ツインレイの相手と出会うことができる。というのは、ツインレイの相手とは鏡の法則性が成立しなければならないためだ。
ツインレイと出会ってからの精神構造の構成
ツインレイと出会い、私たちは『ツインレイの相手を自己のなかで成長させる』機会に恵まれる。
出会いからサイレント期間までに私たちは、ツインレイの相手を赤ちゃんのときから親離れするときまで共に過ごすことになる。ツインレイの相手は親となり、自身は子である。
その経緯で出会う人たちは『過去私たちが出会ってきた人たち』である。それはツインレイの相手が育っていく経緯を、自分自身が経験した環境を再び用意し、ツインレイの相手を子供時代から自分の環境で育てていくということだ。
ツインレイの相手を象るものは、過去に出会った人たちにより構成されている。いわば、友達たちである。
その友達たちが、ツインレイの出会いと共に『ふたたび』やってくる。このふたたびとは『別の存在』として現れ、私たちの統合を協力してくれている。
この統合とは、ツインレイの相手の精神過程による精神と、私たちが過去に行ってきた経験を統合している。
この統合の経緯で、どこかで『何かしらの弊害』が生じているとき、その弊害は『闇の刺客』として認識される。この経緯で行っていることは『選択の自由』を手に入れることでもある。
選択の自由とは『悪と善』の選択にある。
そして、自身の経験による他者とツインレイの相手の人生を統合することにより『経験を無価値化』させることになる。それは『無』であり、それが『心』となる。
ツインレイの経緯で行っていることは、環境の交換を行い、自我を育てなおしていることである。
育っていく過程で、複数と個人の統合を図っていくわけである。
この経緯は『神である自分(環境)』と『自分本体』の統合にあたる。世界をやめ、自身が世界そのものとなり、ツインレイの相手と向き合うことになる。
最終的なツインレイの精神構造
最終的に構築されるツインレイの精神構造とは『ツインレイの相手の自我』と『自分の環境』により構築されることにある。
このふたつが抱き合わせられることにより、自身の精神構造が構築されることになる。
この『ツインレイの相手の自我』と『自分の環境』とは、同じことである。
私たちの環境とはツインレイの相手の自我により構築されていたものである。
いわば、ツインレイの相手の腹のなかで私たちは過ごしていたことになる。ツインレイの相手が自身の望みを叶え、ツインレイの相手が持ち得ることが出来ないものを相手へ押し付けることも出来たわけである。
ツインレイの相手が私たちの世界を構築するとき、必ず他者を通じていた。その他者を再び経験し、同一化していくことにより、ツインレイの相手の自我(自身の世界の神である)と自身の環境(神による影響)をひとつにまとめ、私たちは『ツインレイの相手』へとなっていく。
いわば、私たちは最終的に反転する形に着地することになっている。
そして、ツインレイの相手の環境となる『神』をやめ、ツインレイの相手と分離した自己として向き合うことがなく、お互いのひとりの人間として存在することができる。
闇側の存在は『自身の自我』と『ツインレイの相手の環境』により構築されている場合も考えうることができる。
この場合、環境による他者がツインレイの相手のすべてを形成していくため、他者を受け入れていくことが重要となると思われる。これは環境・他者への拒絶により分離している為である。(味方だと思ってたツインレイが最大の敵だったって感じだろうか。)