ツインレイの覚醒はグランディの破壊が必要である。
ツインレイの覚醒についてを夢で見ました。
ガス管を繋いだら学校がガス爆発を起こして、地響きが凄い状態でした。
これは学校をガス爆発を起こして『教えによる道徳の破壊』を行ったようです。
次に夢で『ナディ』と言われている夢を見ました。
『ナディ』を調べたうえで、私は「クンダリーニの回路の完成」を知りました。
グランティ(結節)とは
ツインレイの期間で、私はヨガの思想のひとつ『グランティ(結節)』を破壊しています。
- ブラフマ・グランティ(尾てい骨)
- ヴィシュヌ・グランティ(胸)
- ルドラ・グランティ(第三の目)
の三つです。
グランティ(結節)は、人の持つ芯のようなカタチで形成されているスシュムナー(あとで説明します)を経由するプラーナ(エネルギー)を通過していく脊髄にそった管のようなものうち、三カ所にある『詰まり』です。この詰まりがあるとクンダリーニが起きません。
私なりの解釈ですが、グランティ(結節)とは人が覚醒しないように措置をとっているもの——です。
このグランティが存在している限り、私たちは覚醒しません。覚醒してしまうことが危険であることもおおいにしてあるからです。私たちの歴史のなかでも若い世代の方は知らない方も多いようですが、ヨーガの思想による新興宗教では、クンダリーニ覚醒を起こすことを率先して行っている団体であり、最終的には危険思想に着地していくことになりました。
私は瞑想をしません。私は思想を練ったりすることが好きでしたので、あまり瞑想してボーッとしているほうが時間の無駄だったと言えます。朝から晩までずっと頭のなかでは思想のロジックを練り続けているとき、途中で瞑想なんてしたら思想がスッポリ抜けてワケがわからなくなります。
これは瞑想の真逆を行っています。ゆえ、私は瞑想をしません。
最近の覚醒の為に瞑想を率先して行うようなこともあるようですが、瞑想やこのグランディを率先して破壊するようなことをエネルギー的に行うことにより『危険な方向性』へも着地していきます。
理由は『繋がってはならない方向性へ繋がる』のと『肉体でコントロールできているはずのことが出来なくなる』ということです。
私たちは『道徳』というようなカタチでも、このグランディを構築しています。
この道徳までもが破壊されるような状態にもなる——ということです。
私は道徳を学び、善悪を知り、そして、その善悪により『共存』を行う基盤を構築しきることができるまではこのグランティが必要だと考えます。
むやみやたらに破壊してはならないものだと思っています。
つまり、心のブロックを破壊し続けてしまったら、共存が出来ない人が成立するということです。その前に『共存を学ぶ』必要性があります。ある程度の倫理観がない状態でグランティが破壊されてしまうと『共存が出来ない』状態となります。
いわゆるやりたい放題になるってことです。
最終的にこのグランティが破壊されることで『自分の望み通りの人生がおくれるようになる』わけですが、それと『やりたい放題』とは違います。
自分の私利私欲のために犯罪を犯してはなりません。しかし、その道徳観念が成立していない状態で、グランティを破壊することで『やりたい放題』をするようになり、極めてエゴイズム性の強い性質の存在が生まれるということです。
そして、このグランディは破壊されるべきに破壊されます。道徳観念と倫理観が自分のなかにガッツリ根付いたときにグランディは必要がないので破壊されていきます。
冒頭に書き述べているように私はグランティを破壊しています。勝手にグランティが破壊されました。
順序として『執着のグランティ』を『道徳のグランティ』として組み替え、次に『破壊』を行っています。
ツインレイが破壊のトリガーだったとも言えます。
それについてを説明していこうと思います。
グランティの破壊とツインレイ
グランティは三カ所にあります。
私の感覚ですと、それぞれ
- 尾てい骨・・・ブラフマ・グランティ
- 胸・・・ヴィシュヌ・グランティ
- 知性・・・ルドラ・グランティ
この三つの感じでしょうか。
どのように破壊されたのかを書いていきます。
ブラフマ(尾てい骨)の破壊
ツインフレームの経験ではブラフマ(尾てい骨)の道徳経験をします。
ツインフレームの方は『物質的な王者』みたいな方でした。ゆえ、その物質欲を凌駕することができるかどうか——です。そして、性的快楽を感じやすい(いわゆる、まァ、そういうことです)相性でした。
このふたつを凌駕することができる必要性があります。最終的に私たちはクンダリーニを迎えますが、クンダリーニに『ハマる』理由は性的快楽へ耽りやすい性質による問題かと思います。
ここで、性的欲求による『抑制』を自身に持たなければなりません。これが道徳観念です。
ブラフマーでは『執着』により、肉体的・物質的・性的快楽を、道徳観念へ組み替えることが起こります。
執着をなくすのではなく、執着を道徳に組み替えるということです。道徳思想が『クンダリーニの安全措置』です。
ヴィシュヌ(胸)の破壊
ツインレイの経験へ入ります。
ヴィシュヌ(胸)の経験は『人を愛すること』です。ツインレイの相手をいかに愛し、自分のこと以上に愛することができるのか——です。
このとき『愛の体現性』を行うことになります。
私自身は『待つこと』が出来ずに『束縛』という感じになっていました。しかし、待つと決めたという約束を守ることにより『待てない』という感情を凌駕するだけの精神性を求めます。
最終的に、自分自身の『待つ』が打ち勝つとき、愛することを究極に体現できるようになります。
感覚的に、このヴィシュヌは『三つの鎖』により、縛られているような感覚がしました。三つの鎖を千切ることがヴィシュヌの道徳への組み換えでもあり、また、従来の執着の破壊となります。
次にツインレイのサイレント期間へ突入していきます。
なぜならば、私たちは『愛している』からです。愛しているからこそ、今はツインレイの相手とそばにいるべきではないと理解します。お互いがお互いの為にならないとき、そばにいることが愛とは言えません。ときにはなれることも愛のひとつの体現だと感じます。
私たちはサイレント期間の開始をするとき『愛しているから離別の選択をする』のです。その愛が自分自身を傷つけることであったとしても、私たちが相手を本当の意味で愛せていないときとは、自らをも愛せていないときだと理解するからです。
ルドラ(知性・第三の目)
ツインレイのサイレント期間では、ルドラ(知性)の経験を始めます。
知性——としましても、私自身が「幻想だ」とか言葉にしているような知性の裏側に存在する混沌や、みえていないものをみえていると認識している等の『空の理論』等にも通じるものがあります。
言葉にしにくいのですが、私たちは『霊的アクション』を感じています。それは第三の目による『生霊』とかのやつですね。
実は、私自身が驚いたことでもありますが、このサイレント期間の途中からツインレイの彼の憑依状態にもあったことです。(明確に憑依状態になったのは数か月後であり、最終的には私自身と憑依の気質を統合していくことにより内包していきますが、この経緯で『私』と『彼』が自身のなかに両方存在することになるので、自分が誰なのかがよくわからなくもなります。)。
この憑依状態による霊体による性質を私自身が「取り込む」、そしてツインレイの彼も私自身を「取り込む」作業を行っています。
この取り込みによって、またヨガの思想である「イダ(女性性)」「ピンガラ(男性性)」の自分自身が持っていないほうを獲得していくような状態となっていきます。
私たちの七つのチャクラは繋がっている状態のものを「スシュムナー」といい、そのふたつをぐるぐるするようにして存在しているのが、「イダ(女性性)」「ピンガラ(男性性)」です。
この軸が両立したあとにやってくるのは『ルドラ』です。
いわゆる第三の目による執着を道徳に組み替えていくことになります。
「この人からのアクションは受け付ける」「この人からのアクションは受け付けない」と直感として『なんとなく』を受け取るものを分別することができます。ちなみに意識的に出来るようになります。この人のは嫌だから、もういいやって感じで拒絶できます。(うんざり! って思うときに私は出来ました。)
つまり、この能力は『悪しき生霊はキャッチしない』し、『善い生霊はキャッチする』という分別方法が出来るようになります。
これは思考のなかで無自覚に『考えてしまう』というアクションが起きてしまうことがあります。
たとえば「無意識に誰かのことをずっと考えてみる」とかのときとか、生霊を受け取ってたり、生霊を放っていたりとしています。いわば、繋がっているような状態が生まれるのですが、これを意図して遮断してしまうことが通常運転でできるようになる感覚です。
嫌なもんは受け取らんでよろしいとブッダがいっていますが、それが意図的に行えるのかというと正直なかなか難しいです。それが出来るようになります。悪しきものを放っているものは、そのまま突き返すことができるようになるかと思います。
これは、脳みそのなかにある『嫌なこと』とか『悪しき経験』等の知性によりキャッチされ記憶している内容を道徳的に管理することが出来た瞬間に執着から道徳へと組み替えられます。
例えば、簡単に生霊で例を書きますが、生霊が付け込むには付け込むだけの記憶が脳のなかにある。そして生霊に操作されてしまう記憶があって、その記憶を回路にして脳をジャックされる。ジャックされて、相手の思うがままの姿となって『相手のコントロール下』にはいっていくことになります。(いつの間にか相手の心理にある思い通りの行動をしてしまう等です。)
それは自分の意図しない行動をしてしまう等のカタチに具現化されていくんですが、だけど現実問題、生霊なんて見えないので『おまえがやったことはおまえの責任だよ』ってことになる。
この意図しない行動を生霊に行動させられるとき『知性でセーブできるか』です。
で、この知性でのセーブは「イダ(女性性)」「ピンガラ(男性性)」のふたつの成立が必要です。
グランディの執着を道徳に組み替えると
グランディの執着はそれぞれ、
- ブラフマー:物質欲・性的欲求(動物的)
- ヴィシュヌ:束縛・霊的経験
- ルドラ:霊的能力・憑依力
というカタチで存在しています。
『物質欲・性的欲求』をセーブするだけの道徳性が必要です。物質欲と性的欲求を掻き立てられる存在との離別がツインフレームの経験です。
そしてそれよりも大事なことを見つけることになるのが『愛情や心』です。愛や心が欲しいと思うのがツインフレームの経験です。
『人を束縛してしまう』とき、束縛しないだけの自制心が必要です。そして霊的経験たるツインレイの経験に縛られない心が必要です。
ツインレイの経験がいかなる不思議なことであったとしても、そのふたりの不思議な関係性を放棄すること。そして、人を束縛してしまっているとき、自分や相手が不自由となった状態から自由になることを選択していくこと。
もっとも大事なことは『共存』です。自由のない共存は『支配・奴隷』による関係性です。自由のうえに存在する共存が欲しいと思うのがツインレイの経験です。
霊的能力や憑依力に依存し、その力を軸にするのではなく、自分自身の力で生きていくことを望むとき、私たちは『憑依を跳ねのけること』が出来るようにもなります。
私たちは『ひとりで存在できる』という存在の独立を行うことになるのが、ツインレイの第二サイレント期間です。
私たちは、ずっと『執着』を『道徳』という形で、徳のある道の姿へ組み替えようとしていました。
この経験により、私たちは最終的に『ひとりで存在できる状態』になり『誰でもない自分』というカタチに『人に依存しない』『人のせいにしない』『人のおかげにしない』等の自己として成立していくことになります。
ツインレイの覚醒を留まらせている原因
最終的なツインレイの覚醒状態とは、クンダリーニが『安全に出来る状態』になることのようです。
- セックス依存がある
- 物質的なものを求めている(金欲)
- 異性依存がある
- 他者依存がある
- 動物な反射がある
- 傷ついていることに気づかないこと
- 他者を束縛している
- 霊的(ツインレイ)への執着をする
- 霊的経験(ツインレイの経験・性エネルギー)への執着をする
- 悟りへの執着をする(瞑想する)
- 生霊へ執着する(ツインレイがきた! とか)
- 見えないものに執着する(スピリチュアル依存)
- 霊的能力に執着する
等、否定的ではありますが、ツインレイの覚醒をとどまらせているものはこのようなものかと思います。
で、このすべてを先ずは『道徳に起こす必要性』があります。この執着や依存等を『自制する』というカタチをとるために道徳的な思想を自ら持って実行していくことです。
それが出来ただけでも「現実性があってよくできている人」と思われるのでメリットはあると思います。
ツインレイの覚醒は『道徳の破壊』がある
最終的に、ツインレイの覚醒は『道徳の破壊』によって覚醒へ至ります。
先ほど書いているように、先ずは『執着』を『道徳』へ組み替えることにより、安全装置を道徳として持ちます。
この道徳が『息をするようにできること』に意味があり、この状態のときの人は「息をするように優しい・・・・・無自覚に優しい・・・・」という境地に至っていきます。
つまり、執着から道徳へ組み替えることでも、それはそれで『グランティ』が生じています。
いつからか、道徳も人にとっては『こだわり』となってしまい、そのこだわりがまるで『息をすることが出来ない状態』ともなるんですね。
この状態を破壊する必要性があり、当初に抑制することになった、
- セックス依存がある
- 物質的なものを求めている(金欲)
- 異性依存がある
- 他者依存がある
- 動物な反射がある
- 傷ついていることに気づかないこと
- 他者を束縛している
- 霊的(ツインレイ)への執着をする
- 霊的経験(ツインレイの経験)への執着をする
- 悟りへの執着をする(瞑想する)
- 生霊へ執着する(ツインレイがきた! とか)
- 見えないものに執着する(スピリチュアル依存)
- 霊的能力に執着する
へ立ち戻ります。
当初、私たちはこの能力を暴走させないように、また道徳的であることが人として生きる道でもありました。
私たちの本質はここにもあるのだ——ということです。
ツインレイの覚醒は『道徳を破壊して本質に立ち戻ること』になります。
だけど、今度は『執着や依存』ではありません。
執着や依存は『自分の思い通りにしたい』という欲求です。
道徳は『自分の思い通りではなく、人の思い通りにする』という抑制である。
前者は『自己』であり、後者は『他者』です。このふたつが両立するような形になるのが『ツインレイの覚醒』であり、道徳の破壊でもあります。
これはアップデートでもあります。
執着や依存を、道徳により、他者概念へアップデート。次は道徳を破壊し、共存概念へアップデートしていきます。
このアップデートによって、私たちは『他者と自己』の両立を生み出すことができる。
これがグランティの破壊により成立する『覚醒』です。
グランティを道徳が成立する前に破壊をしてしまうと——
グランティが道徳により破壊することもできるんですが、道徳を持たない場合でも破壊が出来ることは大いにして問題かと思います。
道徳とは私たち自身のなかに『根付かせること』により、私たちは『自己』をコントロールすることが出来ます。それは他者との共存の為なんですね。
だけど、この道徳を持たない場合で破壊されると、他者の概念がないゆえ『自己破壊』が起こります。同時に『他者破壊』でもあるんですね。
他人を破壊しながら自分を破壊していくっていうカタチを取ります。
他人を破壊している分だけ、自分を破壊していくっていうカタチになっているので、最終的には『自己破壊』に通じている。
ツインレイの覚醒を完了するとどうなるのか
共存的に『自分も、相手も』を実行することができるようになります。
- セックスをふたりで楽しむ
- 物質的なものによる循環(金銭の循環)
- 異性と共存する
- 他者と共存する
- 動物的な本能による良い部分(妊娠)がでてくる
- 傷ついていることを自己処理できる
- 他者と自分も束縛のなかで自由になれる
- ツインレイ(霊的)と共存する
- ツインレイの経験(霊的経験)を共に実感する
- 悟っている
- 生霊は大事な物だけ受け取る
- みえないものを受容視する
- 霊的能力を必要に応じて扱う
というような『共存的なカタチ』に着地するようにして、ツインレイたちはツインレイの覚醒を終えていくことになります。
前に、別に悟ったからって性的欲求は失わないよ? とか記事を書いていますが、そんなん性的欲求を失ったら、人類が消えちまうでしょうがよ。それこそ危険思想と思いますよ。私たちにとって繁栄は基本に性的欲求がありますから。
もちろん、私にとって『悪』はありますよ。それは『共存を選べないこと』だと思います。
それは誰かだけが幸福になって、一部の人が不幸になります。犠牲のうえに成立した幸福は破壊されるし、幸福の上に成立した幸福を私は望んでいる。そして、それがツインレイの覚醒であってほしい。
ツインレイの覚醒をしてみての感想
思ってたのと違う・・・・・・・っていうのがまずの感想。
それから『これ、なんか意味あるの・・・・?』っていうのもまずの感想だけど、この覚醒段階に差し掛かると、エネルギーが天と地で繋がるのと『自分が望む形で世界が展開していく』という権利が得られる状態になるかとは思う。
というのは『自分のやりたいことをやれるようになる』からだ。だけど、別にやりたい放題の他者を気にしないカタチに着地するわけじゃない。
(やりたい放題の時、生霊を使うから命がどうなるのかはわからぬ。)
少しずつ、何がしたかったのかを思い出すようにしてはいけるけど、私のやりたいことなんて本当にささやかなことで、
- ダヤンの40周年いきたい(いってきた)
- 三鷹の森ジブリ美術館いきたい(いく予定が立った)
- ムーミン(トーベ・ヤンソン)の美術展やってほしい
- ピーターラビット(ビクトリアス・ポター)の美術展やってほしい
- フィンランド旅行に行きたい
- 好きな人と結婚したい
ぐらいのことである。特に、それ以上にはないように感じられる。
美術展に関しては去年にいくつも行きはぐってて、先日はダヤンに滑り込みセーフで見に行くことが出来た。
好きなんですよね、ずっと。それを忘れていた。人生を損した気分なので、いくつもメルマガにはいって情報を手に入れやすい状態にした。爆
なぜか彼に「金髪碧眼でもない黒髪の、フィンランドの領土も持っていない王子さま」と言っていました。
フィンランド好きみたいなんですよね。ゼンゼン、人生のなかでフィンランドなんて気にしたことがなかったんですけど、私、フィンランドが好きでした。
覚醒したのかもしれないけど、たぶん、私は普段と変わらないです。
だけど、多く『出来ること』が増えました。自分を殺さなくても相手と同じことをして楽しむことができることです。
相手も、自分も。両方が欲しかったのが私です。その両方を手に入れることが出来て、とても幸せです。
今までも相手が幸せなことで私も幸せでした。だけど、今は私も幸せです。循環させなくても、私が幸せになれてよかったと思います。
私の願いは果たされています。
みんなとは私と関わる人たちのことです。
みんなのなかに『自分』が含まれて、みんなが幸せになることです。