ギフテッドとは、ギフトの種の守り人だと思うって話。
チャネリング能力を喪失しました。
これでレイキのご提供を終了します。

レイキやチャネリングにご興味がある方、お気軽にご登録ください
Kindle版
さよなら、ツインレイ
当時はこれでおしまいなんだ・・・。そんな風に思いながら書いた『さよならツインレイ』。結果的にさよならしたのは、神交法の相手であるツインレイの霊体だった件。今更振り返って読んでみると納得がいく一冊だが、当時はよくわかっていなかった。
kindleの読み放題『Kindle Unlimited30日間の無料体験』では、ほかの三冊も同時に読み放題
これは私の結論。
世界でも色々とギフテッドの議論がある。昔に天才論みたいなものがあったように、昔から、才人とは如何に存在しているのかが問われてきた。
私が持つ「ギフテッドとは」だが。
それは「悔しい」かなと思いました。
ただ、悔しい。これだけがギフテッドの種だと思いました。
そう言われて悔しかった。これがギフテッドの発芽条件。
出来なくて悔しい。わからなくて悔しい。これが楽しい。
悔しくて嬉しい。敗けて嬉しくて楽しい。
それから、勝って寂しい。
それは、考えることが楽しいから。
悔しい、だから次はいかに生きるのか。それを考えることが楽しいし、次があることが嬉しい。
私は人生でなかなか悔しい思いをして来ました。
ずっと敗け続けてきた。悔しかったけれど、その悔しささえ、人間性の前では許されなかったし、許せなかった。
悔しいからってやり返していいわけではない。悔しいからって人のせいにしていいわけではない。
悔しいの気持ちを自分に向けるときの私たちになって、ようやく発芽するギフトの種。
そんな種はだれしものなかにあると思う。
だけれど、その悔しいの感情を持たない人の方が多い。
実際、この悔しいとは比較の世界にあって、人は勝とうとする。
人は敗けているからこそ悔しいと思う。
この悔しいという感情にアクセスできるかどうかがギフテッドや普通の人、発達障害の人との違いなんだと思う。
だから、ギフテッドは「頑張り屋さん」に多い。
人は親に許されたものしか持たされることがない。
それが才能であれ、なんであれ、親に許され、喜ばれたものしか持てない。
だけれど、ギフテッドは親に許されなくても、それを持っている。
だから悔しい。だから才能と呼ばれる。
それが神さまとの約束だし、自分との約束。生まれる前からの約束を持ち続けている。
どんな逆行にあろうが、私たちは守り続けているモノがある。それが家族により迫害されそうになったものだろうが、私たちは持ち続けている。
大事にし続けているものがある。それが「悔しい」に繋がっている。
それは、最初から持っていることが条件になる。
生まれる前から持っているものがある。
生まれる前から持っているから、それをギフトと呼ぶのかもしれない。
そのギフトを守り続けるからこそ、私たちは自分の宝物を否定されたら悔しいし、私たちが発展する理由である。
それは「守るため」である。
何があるのかはわからない。でも、ギフテッドたちは悔しい気持ちを特段高く持っている。それが過度な表現により起こり得ることもあるけれど、私たちも必至である。
そして、守り切れなかった人たちもいる。
守り切れなかった人たちもいるけれど、でも、守り抜いた人たちもいる。
自分を守って、ギフトという種を守れなかった。でも、自分を守ることもなく、ギフトを守り続けてきた人たちもいる。
それがギフテッド。
それが何なのかを大人になり、あるときまで知ることはない。
自分でさえもわからない。
でも、成し遂げなければならないことだけは知っている。そのために必要なものを取り揃えていく姿を、私たちは成長力とも感じられる。
だけれど、私たちがしたいことは、人間として成長したいわけでもない。誰かの為に働きたいわけでもない。誰かの賛美を求めているわけでもない。
ただ、私たちが持っているギフトを守り続け、そのギフトをいつか開くときに準備を進めているに過ぎない。
私たちは、ギフトを共に守ってくれる親の元に生まれることができるわけではない。
私たちは、ギフトを才能と呼ぶけれど、それは私たちには理解の及ばないものであることを忘れてはならない。
何かをしに来た。でも、それは世界の為じゃない。それは誰かの為じゃない。人が持つ欲で汚さないでほしい。
何かをしに来たけれど、その内容がエゴイズム的であることを知ってほしい。
私たちは、この世のために働くためにギフトを持って生まれたわけではない。
ただ、再び、何かをしに来ただけ。
何度も何度も繰り返しているものを、此度ばかりは叶えようと思ってギフトを持って生まれてきている。
それが「世界」「誰か」というものではない。私たちはとてつもないエゴイズムというギフトを持ち、そのエゴイズムゆえに私たちが才能を持ち、世界の役に立ち、誰かの役に立つ日もやってくるかもしれない。
だけれど、最後の最後に私たちが、エゴイズムを許すことができるとき、きっと私たちが「本当のギフト」に気づく。
もし、ギフテッドという才能を持つような子。
そして、発達障害というような社会的なリスクを持つような子がいるのであれば。
どちらも同じように「種」を持っていることを忘れないで。
最後まで種を持ち続けられたのがギフテッド。
途中で種を守り切れなかったのが発達障害。
その子が、手放してしまったものが才能かもしれないけれど、ホントのところは、私たちがこの人生で成し遂げたかった渇望する願いを手放したのだということ。
私たちには目標点がある。それを直感的に薄々知っている。
このときにこのようなことが起きる。そのようなことも薄々知っている。
プランを念入りに込めてきたからである。
私たちがそのプランを実行するにあたり、必要なものがある。
それが「種」であり、発芽した「ギフト」である。
私たちのギフトは、魅惑的なものだ。
私たちのギフトは、多くの人のために使うことができるだろう。
存在は、きっとみんなの心のうるおいになるだろう。
きっと、多くの人を助けることも出来るだろう。
このギフトにしがみついて食べつくすことも出来るだろう。
私たちはとても優しいだろう。ギフトを守る過程で私たちの心は練られていくから。
そうやって過ごす青年期に甘えることも出来るだろう。
だけれど、私たちがどうして才能を持つのか。
その理由は、おいおいわかるだろう。
もし、あなたが今も尚、種を持ち続けているのであれば、おいおい気づくだろう。
出会えばわかるだろうし、手に入れればわかるだろう。
私たちは、悲しみに来たのである。感動しに来たのである。
ただ、目的を果たしに来たに過ぎない。
世界の為でもない、地球の為でもない、誰かの為でもない。世界平和でもない。
ただのエゴイズムのために、私たちは人からすればの才能を持っている。
これを「人からすれば才能」とすることもできるけれど、「私からすればエゴイズム」である。
でも、最終的な結論として、私はもう必要がないだろうという判断である。
私は不必要になりたい。
私は、この世に役に立つ存在だと自負がある。人の心を癒すことも出来るだろう。
だけれど、私は不必要になりたかった。何も役に立たない私になりたかった。
私のギフトを誰かの為に使うとき、すべての人へと博愛的な私になるわけにはいかなかった。
ギフトは、エゴイズム的なものである。
ギフテッドは、悔しい生き物である。
人生に目的がある。目的を果たしに来た。
その目的を満たしに来た。
その目的が果たされる日には、きっと悲しくて泣いてしまうだろう。
そして、そんな一瞬の感動を味わいに来た。
ただ、それだけのことのために、このギフトはある。
ギフテッドは、感動を感じるために生まれてきた。
嬉しくて、嬉しくて、たまらない一瞬のために種を持っている。
たったそんな一日のために、私たちは種を守り続けてきた。
人の役に立ち、感謝されるのと。
一瞬の感動のために、役立たずの道をいくのと。
どっちがいい?
私は後者の役立たずであり、一瞬の感動の為だけに生きることにした。
それだけのために才能を捨てることができるゴミクズである。
そうやって生きる自分を認めていきたいし、
自分のために生きるとは、精いっぱい、今まで人のために生きれたことが証明されたのだと思う。
昔、師匠に「畑耕して、バッタにいっぱい食べられてるのに、なんでまだ畑耕してるの?」と聞いたことがある。
つまりね。ギフトがあって、そのギフトをバッタに食べられてる。それって意味なくない? 早く自分の為だけに生きたほうがいいよってことだったんだと思う。
私たちにとって「人のために」と生きることも大事だけれど、でも「自分のために」と生きることも大事なんだと思う。
もし、その出会いが、その時期がやってくるときまでの私たちは、人のために働くけれど。
でも、もし、その出会いと、その時期がやってくるのであれば、私たちは手放すものがある。
それは、一瞬と引き換えに才能を失うだろう。
もちろん、それまで培ったものは失うことはない。
だけれど、才能と呼べるべき、ホントに「オリジナル」と呼べるほどのものは失うだろう。
少なからず、私はそこまで賢いほうではない。ただ、ギフトのために努力をし続けてきたにすぎないからである。
私の人生は、彼と出会い「彼と出会うために自分の人生があったのだ」と思った。
そして、私はそれがギフトだった。それだけでよかったのだ。
彼は私の世界であり、私のすべてである。
ツインレイ。よく最後に「相手のことがどうでもよくなる」と言われているけれど、私は逆でした。
どうでもよくなったのは、他のこと。
仕事のこと、お金のこと。自分の人生のこと。他の人のこと。
彼以外のことがどうでもよくなった。
それはギフトの種が芽吹いたから、それ以外のことがどうでもよくなった。
神にギフトとして与えられたもの以外を、どうして喜べるんだろう。
彼を私に与えられた。それ以外のものを私が、どうして求めるんだろう?
ずっと求めているものがずっと心の中にある。
だから私たちは悔しいし、手に入れたいと思う。手に入れるために種を死守しなければならない。
私たちは求めているものがある。それが人それぞれ違うけれど、私は彼だった。
「これだ」と気づくことがある。
そして、次に、それを手に入れようとする際に、才能が開花し、私たちは傲慢になるから、気をつけなければならない。
傲慢に足を掬われて私たちは、本当の意味でのギフトへたどり着くことができない。
才能がギフトだと思う人もいる。それは傲慢に足元をすくわれたのである。
でも、傲慢さえ乗り越えて、才能がギフトではない。大事なものが何かに気づいたとき、私たちは「ひとつだけ」のものを知れる。
それを「神に与えられたギフト」と呼ぶのである。
そして、神に与えられる前の種を持つ守り人たちをギフテッドと呼ばれることがある。
ときに、種を守り切れなかった人たちもいるけれど、そのなかのごく一部の人たちが、ギフトとして手に入れるまでの道がある。
出会えばわかる。何をしに来たのか、なんのために生まれてきたのか。
その奇跡を経験しに来た私たちは、一瞬の感動のために「すべてを手放す」ことができる。
私たちは、来るかどうかも分からない未来のために「すべてを手放す」のである。
私たちは、すべてを手に入れるために、すべてを手放すのである。
何もいらないのである。
ギフト。それは私たちのすべてであるがゆえに。
もし、ギフトを手に入れることができたならば、そのときの私たちは、本当の意味でギフテッドとなる。
そのギフトが花開く日がやってくる。そんな日には、多くの人に役に立つ日もやってくるかもしれないね。
でも、私はそんな日をも待ち望んではない。
ギフト。それは「すべて」を凝縮した何か。
だから「すべて」と繋がれる。
私の場合、彼がすべてだから、私は彼以外のすべての人と繋がれた。これがギフトだった。
ワンネス。すべての彼とすべての人が繋がる日がやってくる。
1=ワンネス
すべての人を愛することは彼を愛すること。
だから、彼を愛することはすべての人を愛すること。
これが世界であり、ギフトであり、完全である。
さァ、次の世界へ進みませう。