悪と正義(冷静な女性)、そして善悪の審判(再生する男性)

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さよなら、ツインレイ Kindle版
さよなら、ツインレイ

当時はこれでおしまいなんだ・・・。そんな風に思いながら書いた『さよならツインレイ』。結果的にさよならしたのは、神交法の相手であるツインレイの霊体だった件。今更振り返って読んでみると納得がいく一冊だが、当時はよくわかっていなかった。

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最近思ってること。

彼くんのことを考えるのは、発作である。

ので、彼くんのことを再び考えてしまうときは、また発作が出てる・・・・・って感じに考えるとおk。

つまり、心の調子が悪いと彼くんのことを考えてしまう。ので、どこが悪いのかをあぶりだすにはとりあえず発作だしとこ感ある。


悪があるから正義が生まれる。

悪と善が審判ならば、正義は自分がどうあるべきかなのかなと思う。

善悪の審判を下すのは、他者への視点。

善悪の正義を下すのは、自分自身へ向けて。

私たちのなかには、審判もあれば正義もある。

他者のなかにあるものは自分のなかにもある。

他者が審判をするとき、自分にも審判が下されている。

正義が自分を正すとき、他者にも正義が下されている。

正義と審判が対なるものであるときの私たちもいる。

でも、やっぱり正義は正義だし、審判は審判である。

 

根底には悪がある。その悪に触れている私たちには正義と審判が生まれた。

私たちのなかに悪があると思うからである。そして、誰かのなかに悪があると思うからである。

どっちにしたって、私たちは自らの中にも他者のなかにも、どこにでも悪が存在していると感じている。

しかし、正義だろうが審判だろうが、捌くことができないものがある。

それは悲しみである。悲しみがもし悪を生むのであれば、私たちは正義も審判もかざすことができない。

正義も審判も、心の目により見つめられるすべてを捌くことがでいない。

その心に触れるとき、私たちは悪を憎むことすら出来ない。

 

憎しみがあるのは、自分のなかにある悲しみに触れることが出来ていないから。

正義をかざすのは、人の中にある悲しみに触れることができないから。

審判をくだすのは、自分のなかにある悲しみに触れることができないから。

何が正しいのか、何が間違えているのか。

何が善で、何が悪なのか。

私たちは、正義を善悪で考え、審判を正否で解いた。

否、正義とは正しさと間違いのなかにあり、審判は善悪のなかにある。

自分の過ちと向き合うことが正義であり、他者の過ちと向き合うことが審判である。

そして、自分の過ちと向き合いきるとき、人は他者の過ちを受け入れることができる。

人を審判することもなくなり、自分に正義を必要ともしなくなる。

 

私は自分のなかに正義があったし、どうあるべきかを考えながら生きてきた。

最近はもっぱら自分の嫌な部分の本心にまで触れる頻度が多いけれど、だからこそ私は正しかったし、正義だったと思う。

だけれど、その正義が正義である限り、私は世界に悪を見つけてしまう仕組みがある。

正義も貫けば、審判となる。

私がもし、本当の意味で正義を得るのであれば、それは審判になどなりはしない。

私は世界に今、正義のもとに悪を見つけている。

だからこそ私は、悪を悪として憎む根源を外していく。

 

では、正義は失われ、審判も失われるのかというとそうでもない。

私が悪を憎み、正義であったこと。善を好み、審判してきたこと。

悪により正義が生まれ、善により審判が生まれたこと。(悪——正義、善——審判、善——悪、正義——審判)

では、私のなかに悪はあったのか。

では、私のなかに善はあったのか。

否、私のなかに悪もなければ、善もないのである。

私のなかにあるのは、正義であり、審判である。

正義とは正しい方へ判断を下し、審判とは悩みを解決すること。

この視点が生まれたのは、私のなかに善悪があったからである。

善は審判を生み、悪は正義を生んだ。それは考えたからである。

善が善であること、悪が悪であること。そして、善悪の相関性を考えたから。

考えてようやく私は、正義と審判へと切り替えることが出来たのである。

しかし、私のなかには悪もなければ善もないのである。

ないものを基盤に生み出された審判と正義を私は手に入れた。

 

タロットカードの正義、フェア。対等。

タロットカードの審判、再生。やり直すこと。

 

つまり、ずっと悩んでいたのだと思います。私は悩んでいた。

だから、やり直すためにどうしたらいいのかを解決させようとしていた。

どうするべきかについて考えていました。

大事なのはフェアであること、即ち、正義。それは悪を退治することではなく、フェアであること。

しかし、悪が存在しているときの私たちは正義を振りかざし、フェアではない争いのなかに介入される。

ここに感情が介入すればするほど、私たちの問題は悪化していく。

女性は特に「正義」だと思いました。

自分のなかにある感情でマウントをとってみたり、感情によりフェアである関係性を男女のなかで破壊する。

ここに冷静さが生まれず、感情の世界で話をする。それは目を隠した人そのものであり、よく現実が視えていない。

男性は特に「審判」だと思いました。

善悪に囚われては、善であろうとして悪を排除して断罪する。再生の機会を与えず、やり直そうとする努力をしない。

ここに心が生まれず、理論だけの話をする。それは心を殺した人そのものであり、よく精神が視えていない。

 

男性が審判であるならば、女性は正義だと思いました。

正義のような女性になることは、無情になることではない。冷静であることは、感情を感じていないわけではない。

否定ではない。必要なのは、感情を肯定したうえでの冷静さである。

審判のよな男性になることは、何かを決めつけて理解している人になることではない。理論的であることは可能性を潰すことではない。

大事なのは、心が持つ可能性についてである。

 

女性が正義として定義されるとき、もし、冷静な判断を下すことが出来るようになっているのであれば。

それがもし感情の抑制ではなく、すべての感情を理解したうえで、心の采配を下すことが出来るようになっているのであれば、男性が審判として定義される。

そのときの男性は、心が持つ可能性について気づき、自分がどれだけ凝り固まった考え方に固執しているのかに気づいていく。

 

私のなかの男性性は審判だし、女性性は正義。

青年期は善悪という世界にあって、切磋琢磨する時期なんだと思う。

何が正しく、何が間違っているのか。何が善で、何が悪なのか。

私たちはそうやって、自分なりの定義を生み出して、次の段階に進んでいく。

私たちは、自分に正義を貫き、他者を審判する。

したならば、その次にやってくる視点では、私たちの世界に善悪などないことに気づいていく。

しかし、それを踏まえたうえで、私たちは私たちなりの新しい善悪を生み出すのである。

その善悪は、私たちの人生により生み出されたものであり、敢えて言えば、生きる知恵みたいなものである。

私がもし正義をかざす日があるのであれば、それは私の人生より生み出された正義である。

しかし、私のなかには既に悪はないのである。私たちは正義を善のために使うのである。

私がもし審判をくだす日があるのであれば、それは私の人生より生み出された審判である。

しかし、私のなかには既に善はないのである。私たちは審判を悪の為に使うのである。

正しい道へ人を導き、自分を導くこと。これが「正義」である。

間違いを理解し、間違いを判断すること。これが「審判」である。

 

つまり、女性は最後、正義になる。正しいほうへ進むようになる。ここに悪はない。

つまり、男性は最後、審判になる。間違えている方へは進まない判断をする。ここに善はない。

悪のある正義は、自分を傷つける。善のある審判は、他者を傷つける。

でも、善悪のない世界での正義も審判は、誰も傷つけることはない。

ただ、自分の人生を生きる方へ道が進んでいくことを意味している。

善悪という青年期では、自分の人生の指針を決めると言うようなシーンなのだと思う。

そうしていくと、最終的には冷静な女性と、努力が実った男性って感じになるのかな。

だからかな。

努力がなくなっちゃう・・・・」とかいってたのは、もしかしたら、努力したことが実る前には、努力が消えてしまうことになる(結果が出てしまう)から、ちょっと情緒的になるものなのかもしれない。