直感や羅針盤に惑わされて振り回されないように。
Kindle版
さよなら、ツインレイ
当時はこれでおしまいなんだ・・・。そんな風に思いながら書いた『さよならツインレイ』。結果的にさよならしたのは、神交法の相手であるツインレイの霊体だった件。今更振り返って読んでみると納得がいく一冊だが、当時はよくわかっていなかった。
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この世には、
- 自分のこと・・・・・自分でコントロールできる領域
- 自分以外のこと・・・・・自分でコントロールできない領域
が存在している。
私たちの意思とは関係なく、コントロールできないものがある。
それが「自分以外」という分野だ。
私は、自分の人生は行動により結果が出ていると思う。簡単に言えば、お金を稼ぎにでていれば収入はある。行動があれば、その結果が得られるのが人生だと思う。
時間の使い方によって結論は違うし、得られる結果も人それぞれ違う。
だけれど、自分の人生に関与するどうしようもない存在というものがある。
それが「他者」であり、それが「天災」であり、それが「金融」とかだと思っている。
私がコントロールする決定権を持っていない領域が存在している。政治家さんとかだったら金融の領域もまた自分がコントロールできる領域かもしれないが、一般市民である私にとってコントロール領域からは外れている。
そして、このどうしようもない自分以外のものに対して、私たちはコントロールしようとするとき、何かの行動がある。
それが「追いかけてみる」とか「気を引こうとしてみる」とか。アクションを起こしてどうしようもないことを管理しようとする。
でも、そういったどうしようもないことに対して手放してみると、案外、わかるものである。
私はこれを「直感」と呼ぶのではないかなと思っている。
そして、その直感には従うべきだと思った。これは『正常な危険反応』だからである。
私たちのなかには危機意識が存在している。その作用が正常に作用しているとき、私たちは『危険を正常に回避する』機能を持っていると思われる。
だからこそ、私は、私のなかにある過剰な恐怖を排除する必要性がある。
恐れなくていいことを恐れないように、恐れるべきことを恐れるように。
それが夢だったり、直感だったりなど、私たちが求めているスピリチュアルなんだと思う。
自分でどうしようもないコントロールできないものを予知することが『凄い人』になっていて、自分でコントロールすべき自分を失っている状態を『スピリチュアル』と呼んでいるのは、少々違うのではないか——と私は思った。
自分の人生は、自分の行動は。自分で管理ができる自分の肉体と精神の範囲は、自分で管理しきるべきである。
そして、その管理が怠っている時、私たちはスピってる。直感が入ってきたり、その直観に振り回されたりしてしまう。
コントロールできないものを予見するのが普通で、自分をコントロールするのが人生だと思う。
人は自分で行動を決めるべきだと思うよ。
でも、スピリチュアル的な人たちって、自分の行動を自分で決めないよね。
何かしら直感がこうだったからとか、自分の実行権による意思を他の何かに預けている状態が続いているから自分軸がブレブレになってる。
たいてい、自分の人生が進まない。停滞する。
私の場合、今興味があることがFX(自分軸)で、そのFX関係の夢見をしている(他人軸)って状態になっているので、FX関係の夢見が増えてきました。なかなか面白い世界だなと思いました。ユダヤのみとる世界、面白いね。
あと他にも、
結婚したい(自分軸)——結婚相手の夢見(他人軸)
などなど、色々、自分にはどうしようもないものについては、そういった直感から得るしかないのだが、この部分で「他人軸が妄想化」したりなどもするから注意が必要なんだろうなとは思いまする。それが願望だったりとかする。(自分軸と他人軸の反転は妄想が出てくる)
まずは『自分軸の決定』が必要だとは思うんだが、自分が何をしたいのか、どうしたいのかがわからないから次に『他人軸の決定』ができなくて、他人軸がよくわからないどうでもいい情報みたいになっているのかもしれない。
なにいってんだかわからない感じ。つまり、他人軸が言っている言葉の意味がわからない。わからないにはわからないだけの理由があると思う。(自分軸の不明瞭により他人軸の迷走)
だから、停滞する。自分軸が不明瞭だから。
直感とは使うものだけれど、振り回されるものでもないし、惑わされるものでもない。直感だって私たちを戸惑わせたいわけじゃない。
直感があるのであれば、ちゃんと「この方向性で」と決めてあげないと舵をとることができない直感は困ってると思う。
いわば、直感は羅針盤。その羅針盤の方向性へ向かう必要性があるけれど、どの国へいくのか、どの方位に向かうのかを理解していなければ羅針盤は役に立たない。
そして、その方向性を決めるのが「自分自身」であることを忘れてはならない。
それはどうなりたいのか、どうしたいのか。どんな自分になりたいのか——だと思う。
方向性が決まっていない旅も、もちろん素敵ではあるけれど。もし、羅針盤を手に入れたのであれば、私は羅針盤が指し示すほうに進むのではなく、羅針盤に自分が望む未来へ進むために必要な道を指し示してもらうべきだと思う。
ここに主従は決まっている。
羅針盤に従っている限り、私たちが目覚めることもなければ、私たちが「自分」を手に入れることもないだろう。
自分とは羅針盤に「方向を指図する自分」だからである。
で、私はこの羅針盤をずっと持っていたんだなと思いました。
ただ、お金とかにあんまり使ったことがないので、今度はそっちに使ってみようかなと思っています。