大山津見神の娘と、大綿津見神の娘たち。負けを認めること。

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Kindle版
さよなら、ツインレイ
当時はこれでおしまいなんだ・・・。そんな風に思いながら書いた『さよならツインレイ』。結果的にさよならしたのは、神交法の相手であるツインレイの霊体だった件。今更振り返って読んでみると納得がいく一冊だが、当時はよくわかっていなかった。
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先ほど、夢見にて「富士山が邪魔している」的な内容を書いたんだが。
女神さまが私にすごく感謝しているから、縁結びをしてあげたいんだけれど、富士山が邪魔をしている。だから縁があるけれど、結ばれない状態が続いている。
女神さま(誰だか知らんけれども)に、何か色々としたらしい。で、そこで感謝しているって話だ。だけれど、富士山が邪魔らしいってことも言われて、で、富士山と言えば、コノハナサクヤヒメだよな~と思いながら、ふと気づく。
大山津見神の娘は、コノハナサクヤとイワナガ(後、コノハナチル)である。
大綿津見神の娘は、トヨタマと、タマヨリである。どちらも姉妹なのである。さて、これをいかに料理しようかって話だ。
大山津見神の娘たちは、ひとりの男性であるニニギを取り合う関係性にあり、勝者は美人薄命であるコノハナサクヤであった。イワナガは、不美人であったともされているが、霊力が高くてニニギがビビったとか、他にも、よく見えんかった的な話があるが、神であろうが何であろうが、見合うものは手に取ることができない。
コノハナサクヤヒメが出産時、ニニギは「いや、おれの子じゃない。」とか言い始めている時点、たぶん、そんなにいい男じゃなかったんじゃないかって思っている。いや、ホントに。マジ、男としてどうなのよって思ってしまう。
表面的な美に気を取られて結婚相手を決める男は、その程度ってことにしておきたい。
さて、次にイワナガヒメは、実は結婚をその後している。その子孫が、オオクニヌシ(出雲だな)となる。そのときに「コノハナチル」と名前を変えて結婚をしている。相手は八島士奴美神である。つまり多くの領土を持つ神さん。
コノハナサクヤとニニギ。
コノハナチルとヤシマジヌミ。
コノハナサクヤは、女性として開花する時期に結婚をし、コノハナチルは、女性としての花盛りの時期を終えた時期に結婚を下という違いがあるのかな? と思った。
よく、歳を経てからの出産では「これで長生きになりましたね」みたいなお言葉があるんだが、それに似ているような気がしている。
つまり、結婚には「始まりの時」と「終わりの時」に婚期があって、開花してすぐに見初められて結婚するのか、それとも、花が散っても尚、美しさが残っている(それを岩とも言える)とき、結婚するのか。
この違いがあるような気がした。
そして、今度は大綿津見神について、こちらは『海の神の祖となる父』みたいなイメージでいいと思われる。
娘はトヨタマとタマヨリである。『玉』をいただくとき、異類婚礼の意がある。つまり、神と人の結婚とか、動物と人の結婚とか・・・・・・・。人と人という同種ではない、そういう結婚を意味している。
人間に適応すれば、文化的な生活が全く違う人たちが結婚することを意味するから、外国人の結婚とか、沖縄と北海道の結婚とか。そういう意味を持つと思われる。
案の定、トヨタマは、海の主の子(ワニだとか、人魚だとか色々説があるが)なわけだが、山幸彦さんと結婚するわけである。
ここで、山幸彦さんは誰なのか。実は、ニニギとコノハナサクヤとの子である。
トヨタマさんは、出産時に自分の正体がバレてしまって、海に返ってしまう。

そして、豊玉姫と山幸彦の息子は玉依姫と結婚し、神武天皇が生まれている。
この『先に結婚したのはどっち?』って話をしていみたい。
海の神のもと、姉である豊玉姫が先に結婚した場合は、子供を生む際にモメて離婚しやすい。これは一目ぼれの結婚。
山の神のもと、妹であるコノハナサクヤヒメが先に結婚した場合は、同じように子供を生む際にモメるが離婚しない。これも一目惚れの結婚かも。
で、海の神のもと、妹である玉依姫が結婚した際には人の上に立つ子が生まれる。
で、山の神のもと、姉である岩永姫が結婚した際には、良く繫栄する子孫が生まれる。
みたいな構図が見えてくる。
ただ、私が思うに、人のなかにはそれぞれの意識があるのではないか——ということ。
豊玉姫は、一目惚れした自分のこと。自分とはまるで違う存在に恋をすること。
玉依姫は、礼儀正しい自分のこと。自分とはまるで違う存在を愛すること。
開耶姫は、選ばれる自分のこと。若い自分のこと。
岩永姫は、選ばれない自分のこと。縁を大切にすること。
散流姫は、歳を重ねた自分のこと。自分を愛すること。
地球の意識は、そもそも『選ぶ』『選ばない』であって、恋愛をすることはないのかもしれない。
宇宙の意識は、恋愛っていう感覚があるのかもしれない。心の話。
つまり、山幸彦さんやウガヤヒキアエズは、恋愛をしたわけではなくて「相手を選んだ」のかもしれないな、と。
岩永姫は失恋したってワードに違和感があって、ただ、彼女は選ばれなかったってだけの話であって、別にそれを失恋とは言わないのではないか。
恋愛は異類婚礼のなかにしかない。そして、相手を選び結婚することは、同類婚礼のなかにある。
私は全力で異類婚礼型なんだが、同類を同士とは感じられるけれど、結婚したいとは思わない。
ここで「お願いする神」を二分類に別けられる。海の神のほうに頼むのか、山の神の方に頼むのか。
選ばれたいのであれば、望まれたいのであれば、山だし。
恋愛をしたいのであれば、海だし。とはいえども、相手は『選んでくる』ことを忘れてはならない。そもそも感性が違うのである。
豊玉姫は一目ぼれした相手に選んでもらえた人。
玉依姫は愛した相手に選んでもらえた人。
開耶姫は外見で選んでもらえた人。
岩永姫は外見で選ばれなかった人。(だから人と人の縁を喜び、人の幸福を願う意識になる)
散流姫は選ばれなかったけれども、最後には選んでもらえる人。(岩永姫の意識から——)
で、ここで『富士山が邪魔している』って話である。私はここを言及したいわけである。
女神さまが私にすごく感謝しているから、縁結びをしてあげたいんだけれど、富士山が邪魔をしている。だから縁があるけれど、結ばれない状態が続いている。
ふじやまといえば、開耶姫と岩永姫である。んで『外見で選んでもらえた人』と『外見で選んでもらえない人』の、この意識が邪魔しているのではないか——と思う。
「選ばれる」「選ばれない」っていう意識。これが「いつ」なのか——である。
つまり、若いうちに結婚が出来るのは、外見が可愛いからとかで出来る。中身がどんだけちゃらんぽらんでもイケる。でも、歳を重ねて結婚するには、岩永姫のように、人の結婚を喜ばなければならないわけだ。よく、岩永姫が開耶姫に嫉妬しているという話もあるが、あながち嘘ではないだろうが、私は岩永姫は、とても優しい人だったんじゃないかと思っている。(願望)
だから、妹の結婚を喜び、自分の身を引く謙虚さを、八島さんに拾ってもらえたのではないか、と思う。つまり、自分が選ばれなかったことに嘆き悲しむ自分よりも、人の幸せを喜ぶ自分に成れるとき、散流姫となったのではないかと思うんだ。
外見じゃないよっていう年齢になる。桜は特にそう。夏の葉が多くなる桜を見に行く人もいなければ、丸裸の葉のない、ましてや花さえ咲かない桜を誰が見に行くのか。誰が美しくもない桜を誰が愛するのか。
人は必ず老いる、そのなかで『春だけ受け入れる』のは違うのではないか。それが長期的な目線で見れることなのかなと思う。案外、岩永姫のほうが価値があると気づける人の方が少ないものなのかな? と思った。でも、それに気づくには、ある程度の年齢が過ぎなければならない。わからない。
そして、玉依姫も、岩永姫も晩婚って意味なんだと思われる。
晩婚になるのであれば、相手の未熟さも受け入れなければならないよっていう意識が玉依姫だと思うし、自分の醜さやコンプレックスも受け入れなければならないのが、岩永姫だと思う。
若ければ、一目惚れ。若ければ、外見の良さ。それだけで結婚が出来る。でも、歳重ねたらそうはいかない。いかないんだよ~。
そして、選ばれる選ばれないとか。その選択だが。その選択を乗り越える必要性がある。
選ばれたいのは事実だが、選ばれている人になるには、高い山が必要である。どんなに努力をしても、富士山のように高い山になることは出来ない。どんなにきれいになりたくても、それは選ばれた人にしか与えられないもの。
そんな選ばれた人たちを、丸ごと受け入れていくことが岩永姫の心であり、また、散流姫なのかな? と思った。晩婚の人たち。
先に結婚する
姉・豊玉姫(恋)——妹・開耶姫(選民)
後に結婚する
姉・岩永姫(不選)——妹・玉依姫(愛)
先に結婚する人たちは、結婚が波乱万丈になっている(子供でモメてる)けれど、後に結婚する人たちは、結婚が安定している気がする。
恋に落ち、選ばれた私もいるし。今、選ばれなくて、愛を生み出した私もいる。
どれも私だと思う。とはいえ共、私は玉依さんなので、晩婚が決めづけられている人なんだろうなと思いながら、選ばれなかった自分を愛し、選んでくれなかった人を憎むこともなく、また、そんな人たちを愛するとき、きっと富士山さえも超えることになる。たぶん。
一目惚れで結婚し、選民された人たちは、きっと、選ばれなかった人たちを愛することもないんだろうなと思う。それは半分の自分が分離しているものではないか——と思う。
つまり『負けを認めること』なんだろうな。負けを認めることが愛に繋がっている気がする。
勝てなかったんだ、敗けたんだ。そんな自分を愛すること。
春、敗け、ドン!
世界の終わりやん・・・・・・!
ハルマゲドンは、ユダヤ教やキリスト教で使われる言葉で、世界の終末を意味する「善と悪の最終決戦」や「世界の終わり」を表します
善悪を終わらせよう。