エナンティオドロミアの法則を起こしまくっていた話と統合の概念について。

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Kindle版
さよなら、ツインレイ
当時はこれでおしまいなんだ・・・。そんな風に思いながら書いた『さよならツインレイ』。結果的にさよならしたのは、神交法の相手であるツインレイの霊体だった件。今更振り返って読んでみると納得がいく一冊だが、当時はよくわかっていなかった。
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わかりやすく説明してくれている記事をふたつ載せておく。
エナンチオドロミア:反転という意味。極端な陰の中に陽が、極端な陽の中に陰が生じるように、ある状態が極端になればそれと反対の状態が生じてくる様。
引用:ユング心理学:影、ペルソナ、アニマについて – Joseph Campbell-From Over the Sea
個々人の変容の中心には、対立物の結合という要素がある。この結合が生じる前に、人は、急激な正反対の相容れない体験をする。この状態を言い表すのに、ユングは、反するという意味のエナンチオドロミア(enantiodromia)という語を用いている。(うつ病を生き抜くために P143)
なぜか「ひっくり返る」とか「肯定したら否定が来る」とかの話を度々していたと思うんだけれども、これをユング心理学では『エナンティオドロミア』と言うらしいことを発見。
ので、こちらについて書いておきたいと思う。
私は「信じる」になると、ひっくり返って「信じない」という部分が無意識に溜まり、無意識から溢れてくるものを受け取ると「信じてたまるかーーー!」みたいな現象が起こりえる。ひっくり返っている視点を手に入れることが度々あるのである。
その後、溢れかえってくる無意識のなかの想いを受け取り切ると、すっきりして正常な判断を下すことができる。
この記事なんかは的確にエナンティオドロミアを起こしている状態である。
100%の洗脳状態になると、100%の洗脳がとけた状態になってしまう。
他にも「否定と肯定」とかでも起こりやすい。
また、対立関係になったりなどもするんだが、誰かと話しているときに『対立』が起きると、そのときに反転を起こしたりもするんだが、相手の意見を受け入れられるかどうか——にかかっている。相手の意見を受け入れられるとき、結合が成される。
ずっと私は「意識の統合(結合)」を行っていたのであり、二極に分離し、また意識が偏る状態を生み出すことで、ふたつの意識を(無意識と意識)を結合させていくようにし続けているようだ。
他者にとって必要なものが『結合』であるとき、私は大抵「相手の意見と真逆の意見を言うこと」が求められていて、それはまたそれで苦痛だな~って感じる時もある。でも、人にもやってもらってきたことだったし、自分もやんなきゃいけないのかなって感じかな。
この視点が一方に偏り切るとき、人は「溺れている」ような状態になる。少なからず精神状態が不安定な状態になる。精神病の類は大抵が偏りにより生じているものではないか——と思うから。
明らかにここでエナンティドロミーが起こったのである。すなわち拒絶した(投げ捨てた)後で無意識が却って一段と強力に浮かび上がってきたのである。(心理学と錬金術Ⅰ P118)
ほかにも、人の意見を受け入れない、拒絶する、否定する——というカタチをとっても、次には無意識に抑圧されているものがより一層、バコッ! と出てくることもある。
この統合時期には本当に色々なことが起きるんだが、とにもかくにも否定しようが、肯定しようが、あきらかに拒絶しようが「認めざるを得ない」状態に陥ることになる。ので、あんまり心配は必要がないとは思うんだが、自分自身の意見にのみ執着し、他者を否定し続けているときは「溺れてしまう」こともしばしばあるから注意が必要だとは思う。
そもそもこの世に正解などないのだが、正解を競ったり、自分とは違う答えを持っている人たちにアンチしたくなるっていう若気の至り現象が起こりやすいものなのかな? と思った。
とはいえ共、一番最悪なのは「この世に正解などない」という風に「わかっている風」を装って、自らの答えをひとつもださないこと。そして、人と争うことを恐れてしまうことも、問題なのかな? と思っている。否定されたくないがゆえに、統合を起こすことができないのである。
統合とは「ふたつの要素を結合させること」に意味がある。
いわば、このふたつの要素たるものがお互いがお互いを認め合うことに意味がある。しかし、ふたつの要素たる存在が互いを認め合う以前の立ち位置にいるとき、統合を成しえることは出来ない。
ツインレイにおいても『統合』を語っているが、この統合で「何も競っていない」「何も争っていない」「なんなら最初から円満だった」とは在りえない話なのである。
ふたつの別々である要素が統合するのである。そもそも融合されることがない要素が統合されるにあたり、私たちはお互いがお互いの意見を差し出し、その意見を認め合うまでに至らなければならない。
認め合うところにまで至れる人もいれば、認め合う以前に争うことから逃げたり、相手を全否定している時点では、なにも統合を果たすことができない。
ツインレイのふたりが統合するのであれば、それは「相手の存在そのものを肯定すること」にある。それこそが愛である。
アニマ・アニムスという投影もあるが、その投影の先に存在している『存在を受け入れること』ができたとき、ツインレイのふたりは統合しているとも言える。
図の説明:恋と愛の違い
他者たる存在を受け入れるとき、統合が生まれ、その存在を認めることが出来るようになる。
結局のところ、ふたつの別々の存在である意識が、当初は争いの状態にあったとしても、互いが互いを認め合うことが出来たとき、それは統合したとも言えるのではないか——と思われる。
また、ツインレイたちのテーマの多くが、アニマ・アニムスという内なる異性たる存在との共存が出来るようになることが目標なのだとは思う。(別にツインレイではなくても、この課題を終えることは、次の恋愛で結婚できたりとか素敵な出会いがきたりとかするから、やっておいて悪いことではないとは思う)
最近やったことといえば、2025年7月の予言についてかもしれない。2025年7月に怖い予言が出回っているが、それに対して「否定」と「肯定」が生じる。
私は肯定から入ってビビりまくって恐怖で喚くわけなんだが、このときに100%の肯定が起きると次には否定が生じる。この否定が生じるとき、なぜそれは間違っているのか——という否定的視点を手に入れることができる。ので「恐怖による決断を率先させることで、恐怖による未来を創造している何かがいる気がする」っていう話がやってくる。
これにてふたつの『肯定』と『否定』が成立し、じゃァ、どのように判断をするのかを統合的に視点を得ることができる。これがグレーゾーンってこと。
未来のことはわからないっていう視点である。否定と肯定は「未来がわかっている前提」により生じているんだが、そもそも、未来が分かっていることがおかしいという考え方。これはアンチ霊能者的な視点だとは思うが。
それを踏まえて、じゃァ、どのように生きるのか。
毎日、自分が幸せだと思う判断をして生きていくことこそが正しい判断じゃないか——ってことに行き着く。他者から与えられた恐怖により行動を制限されるのではなく、自らの幸福にしたがって生きていくことが人が生きるひとつの指針ではないかということ。
こうやって統合的な視点を手に入れていくことで判断力が総合性を増すよってイメージかな。
ツインレイの方々で「統合しました!」ってことは、異性による視点をよく理解し、異性とどのように関わるのかを踏まえている人たちってことになる。
このときのツインレイは両性具有精神にいたっている状態になる。異性性を統合した女性はロゴス的な解釈(論理性の解釈や哲学的な解釈)を持つことができるし、男性はパトス的な解釈(直感的な解釈や情緒的な解釈)を持つことが出来るようになる。
また、サイレント期間には「信頼できない異性」に出会うことがしばしば訪れ、その際に、私たちは「信頼とは何か」を考え直さなければならなくもなる。その出会いにはまた、従来の自分自身が投影され、自らの過ちにさえ気づく必要性がある。
ツインレイの統合とは、アニマ・アニムスの統合という精神的な領域の統合を終えた後に、当人同士の『愛』により生じるものである。その愛とは、等身大の相手の姿を丸ごと受け入れることができるかどうか——であり、このときの女性は「自分のすべての責任をとることが出来ている」状態であることが望まれ、男性は「他者のすべての責任をとることが出来ている」状態であることが望まれる。
このときのふたりは信頼で結ばれているがゆえに、互いを注意する必要性もなければ、監視する必要性もない。信頼とは、互いに互いに関心を持たないことでさえあるのだ。
サイレント期間に起こりえる破壊は、男性は「ペルソナの破壊」や「現実の破壊」を自らのアニマの暴走によりおこしかねず、女性は「人間関係の破壊」や「創造の破壊」を自らのアニムスの暴走によりおこしかねない。
対立による破壊があり、次に統合がある。
あなたは対立して破壊を起こし得ただろうか。
相手を破壊せず、自らも破壊せねば、統合を起こすことは出来ない。
なぜならば、対立によって破壊し合うことで、最後には統合(または結合)が起こりえるからである。
まずは争うことから逃げてはならない。争って傷ついて、ぶつかって、次にようやく結合できる機会がやってくる。優しさも不要である。相手には相手の視点があることを受け入れることが重要なのである。
そして、私たちは「相手の視点」を受け入れることができないのは、愛していないからであり。また、異性ともなれば、投影と、より一層大きな理想によって苛立ちを覚えるものである。
理想や投影による争いは、相手を支配しようとするものだが、自分の意見をぶつけ合うことにより、闘争が起こりえる。
争いの定義としても「相手を支配する為の争い」なのか「自己主張による相違によって生じる争い」なのかによって、だいぶ意味が違うということ。
ツインレイたちのなかで
- 相手を支配する為の争いによって、最後に勝敗が決まったツインレイ
- 自己主張を通すために争い、最後にお互いを認め合うことができるツインレイ
の2種に分類できるともいえる。そして「最後」とされるのが、私は「再会」を意味するのではないかと思う。
争いという分離が存在しなければ、男女の結合は存在しないと私は定義する。
その結合が「勝敗」なのか「認め合い」なのかも、男女の結合による結論は違う。