ツインレイの再会をしている人たちが羨ましい。

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Kindle版
さよなら、ツインレイ
当時はこれでおしまいなんだ・・・。そんな風に思いながら書いた『さよならツインレイ』。結果的にさよならしたのは、神交法の相手であるツインレイの霊体だった件。今更振り返って読んでみると納得がいく一冊だが、当時はよくわかっていなかった。
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自分の中に「自分が持っていないものを持っている人が羨ましい」と思う心があった。
それがツインレイの再会。羨ましいよね。
何故か、その羨ましいという思いが私の胸に刺さっていて、その釘を抜いてから『慢心』を受け入れた。
慢心を捨てるから、人の自慢が引き寄せられて、人の自慢にぐぬぬとせねばならない始末。
私の中に慢心を取り戻す。
でも、それは慢心ではなかった。
私は私として、それなりに事実として持っているものがある。
その事実と自慢の違いは、そこに『他者の嫉妬』が介入するかどうか――である。
他者の嫉妬がなければ、それはただの事実である。事実に対して嫉妬が生まれれば、私たちの中に慢心があるのだということ。
人から嫉妬を受けるのであれば、そこには慢心がある。私が嫉妬したということは、それは自慢されてたんだと思う。
でも、事実だと認めざるを得ないとき、そこには自我肥大は存在しない。
単純に、この人にはツインレイとして再会して欲しいとか、この人がツインレイであってほしいとか。
でも、ツインレイであってほしくない人とか、再会が羨ましいと思うとき、そこにはツインレイ側に自我肥大があるのだと思われる。
単純に、姿勢や能力とか。何でもいいんだけれど、他者に事実として提示しきれていないものがあるんだと思う。
つっても、ツインレイってのを私も切り捨てているけれど、なんで今更、嫉妬が出てきたんだろう?( ˇωˇ )とかおもうけれど、たぶん、昔に感じたことなんだろうね。
謎に自慢されることが多くて、でも、あんまり気にしていなかった(私は私だったから)んだが、内心グヌヌだったんだとは思う。そのときの自分が戻ってきた。
外に慢心として分離していた自分が、自分の中に戻ってきて、私の事実が戻ってきたよ。
なんかさ。
私はあんまり神さんの話をしないようにしていて、それがどこか自慢のように感じられていて。
なとちゃってば、神さんとちゅながってる、しゅごい( '֊’ )
みたいな。それはちょっと違うよなって思って、話してこなかったこともたくさんあるような気がする。
でも、事実なんだよな。自慢しているわけじゃない、事実なんだよ。
あと、ツインレイの再会をしている人達も、事実の話をしているのかなとは思うんだけれど、再会したことの報告なんて、ひとつの記事を拵えて終わりだとは思うんだよな。
自慢話って長いよな。だって、いつまでたっても満足がこないから自慢があるんだもん。
ツインレイへのこだわり、再会したあとも、ツインレイであることへのこだわりがあるのは、何故なんだろう?( ˇωˇ )とは思う。
まだ、開拓ができていない領域だから、私はその気持ちがまだわからない。それに、誰かに私は報告をしたいとか思う気持ちが生まれるのかな?
そのあたりが本当に未知数だなって思った。
つまり、ツインレイと再会が終わったあともツインレイであり続けている彼らの気持ちが、私は一切に理解不能に陥っている。
ツインレイ再会後にツインレイです、再会しましたって『誰か』に伝えたいのは、再会していた誰かへの嫉妬があって、その嫉妬が自慢を産むのかもね。
この連鎖は、これからも必要だろうか?
私には必要が無いものかな。そう思っている。
嫉妬もないから自慢もない。誰かに伝える必要性もない。
あるのは事実だけ。
インターネットに『事実』は存在しないんじゃないかな。ここにあるのは虚栄か、または長い自慢話。
事実には尊敬が生まれる。
多くの方に私の価値を認めて貰えた。それが私の事実だと、そう思う。
そのとき、嫉妬ではなく、尊敬と感謝をいただいている。そこにある事実だけ受け取っていこう。
事実とは他者にも認識されて成立している。
事実が認められていない時、そこには嫉妬が生まれる。その嫉妬は事実ではなく自慢によって生まれている。