愛のカタチはみんな違う(サレンダーしたって話)

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さよなら、ツインレイ Kindle版
さよなら、ツインレイ

当時はこれでおしまいなんだ・・・。そんな風に思いながら書いた『さよならツインレイ』。結果的にさよならしたのは、神交法の相手であるツインレイの霊体だった件。今更振り返って読んでみると納得がいく一冊だが、当時はよくわかっていなかった。

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子供のとき、私たちは親を愛しているわけだけれど、親に本当の意味で愛されている経験をしているわけではない。

大人になると忘れちゃうみたい。自分が子供だったときのことを。

だから、愛されていなかったことを忘れてしまい、最後には、我が子を愛せずに終わっていく。

愛ってなんだろう。

もし、私が本当に愛されていたならば、私の人生はもっと愛に満たされたものになっただろう。

でも、私たちは愛されたことがないから、誰かを愛する時、我慢して。自分を愛する時、誰かを傷つけるしかない。

それは私たちが親子の関係性で、自分を愛している親たちに傷つけられた経験から、私たちは誰かを愛するときに自分を傷つけ、自分を愛するときに誰かを傷つけることでしか、関われなかったってこと。

傷つけあう親子のうち、子が犠牲になるのが当たり前の循環のなか、私たちはどうやって誰も犠牲にならない愛を学べば良かったんだろう。

問題がどこにあるのかというよりも、愛された経験の少なさは、その人自身の人生の虚しさにもなるような気がする。

 

これから、新しい時代がやってくると言われているけれど、私は5年前に素粒子物理学の時代が来ると言っていた。

私がレイキを始めたように、目に見えない『気』への興味が多くの人の中に生まれてくると思う。

それは運気を気にすることもそうだし、徳が高いとか低いとかもそうだし。見えないものへの興味でもあるんだけれど、私は東洋医学の気を学ぶところから入った。

気への興味というものは、エネルギー療法への興味でもあり、最終的には『自分の人生を誰にも左右されない』という領域にまで達するときがくる。

つまり、今まではごく一部の人達が到達しえた領域へ、誰しもが到達することが可能になった時代にもなったのだ。

それは、子供時代に折り重ねてきた愛という犠牲と破壊の関係性を抜け出し『本当の愛』について学ぶ機会にまで至ることが出来るということ。

 

私たちは生まれてから親のもとで無意識のなかに『人生の基本』を学び入れられる。

でも、その人生の基本が、自己犠牲で他人を傷つけることでしか人間関係を築き上げられないというものだったならば。

意識的に生きず、ただ、自分の人生を受動的に生きているとき、私たちは無意識的な存在になる。そのとき、私たちの人生は、私では無い存在――幼少に学習した人生の基盤――を忠実に摸していくことになる。

その先にあるものが地獄だったとしても、私たちはその人生を歩んでいかねばならない。

だけれど、ようやく自分の人生を修正することができるようにもなる時代が到来しつつあるということ。

無意識にある傷は、人生で何度も何度も繰り返して経験され回帰し続けることにもなるけれど、無意識の傷を癒す機会に恵まれたならば、私たちは『自分の望む人生』を生きられるようになる。

また、私たちは無意識にある傷を再び経験したい、再び愛されたいと願っている。その傷が愛だと思いこんでいるからである。

愛とはなにか。

支配でもなければ、犠牲でもない。誰かを脅迫することでもなければ、我慢することでもない。

ただ、同じ気持ちであることに気づくことである。

あなたと私は同じ気持ち。この気持ちに気づくことが愛であり、愛の循環の中には喜びがある。

しかし、私たちは支配者となることへの喜びを学び、犠牲となることでの他者が幸せであることにも学ぶことも出来る。

その学びを終えた人間たちの多くが次の段階である、共に生きるという人生が待っていることになる。

ともにいきること。それが私たちの本望である。

 

無意識の私たちがもし傷ついているのであれば、その傷を愛されるときの私たちは恐怖を感じる。

レイキを当てていると、当てられたくないという拒絶が生まれる。

それは癒されることへの痛みが生じるのだ。これを好転反応とも呼べるし、私はその痛みを私自身が引き受けるようにしながらレイキをしている(ので、感情的な好転反応はほぼ生じないと思われる)。

結局、私たちは、本当の意味で愛されること。安心、安全、安定のある世界に生きること。この素晴らしい世界を拒絶しているに過ぎない。

怖いのだ。愛されることが。

怖いのだ。恐怖のない世界が。

愛と安らぎのある世界を、傷ついている人たちはより余計に拒絶をし、愛への恐怖を覚え、安らぎへの拒絶を起こす。

だから、彼が持つ安心、安全、安定を受け入れたのであれば、これが私のサレンダー。

彼がもし、私の好意を受け入れたのであれば、それが彼のサレンダー。

つまり、愛の循環により生まれた世界へ降伏すること。

受け入れられなかったのは、そんな新しい世界なのだ。新しい世界へサレンダーをし、これがツインレイの降伏である。

 

これから、私は愛と安らぎの世界へと進むけれど、多くの人がこの道へ入るわけではない。

ただ、私は受け入れたよ。

傷つけあうことよりも、私はやっぱり愛し愛されている世界の方が好き、安らぎのある安全な世界の方が好きって気持ちに気づいちゃったんだ。

今まで知らなかった。安らぎがある場所が存在しているだなんてことを。

どこかでは戦争しているし、北海道には旧ソが攻めてくる可能性があって。そんな気持ちがあって、この世には安全な場所などどこにもないんだなってある時に思ったんだ。

でも、そんなことは無かった。安全な場所があると知らなかっただけなのだ。

ただ、私たちが安全、安心を受け入れられているかどうか。でも、安らぎのない幼少期を過ごす私たちにとって、受け入れられないものでもあるってこと。

安全や安心を与えてくれる人をわざわざ傷つけてみたり、信じられないと余計なレッテルを貼っては、自分で自分の首をしめるかのような人生。

無意識では、戦争が起きるほどの大多数の人間が、この『安らぎへの不信』を持っていたとも言える。

争いが起きるとき、そこには恐怖と不安がある。そして、恐怖と不安が塊になると戦争が起きる。個人間のことが大規模な国単位で起きたのだ。

また、国がひとつ大人になる為には、戦争をすることは避けて通ることが出来ないのだとも思う。

分離と結合である。

国は分離してしまっても、次に統合するのではなく、結合し、循環を持つことで自立ができる道を見つけられ始めている。

この機会に、私たち人間も、同じようにアップデートの機会をもらった人たちもいるのである。

私が国単位にまで理解が出来ていたように、自我意識が国へと及ぶ人たち――。また、国単位で考える力がある人(エネルギー体の影響が高周波から影響を受けている人たち)たちは、今回の機会で、愛と安らぎを得られるようにもなっていく。

これはどこか恩赦のようでもあるなァと思いながら、アップデートの機会に恵まれた人たちがいた。

愛の定義が自分を含めた誰かを傷つけるのではなく、同じような気持ちがあることに気づくこと。

安らぎの定義が自分を含めた誰かを迫害するのではなく、共存していくなかに落ち着きがあることに気づくこと。

これは三つ目の選択肢が得られたのかどうか――ということ。

その道を手に取るには、私の場合は、自分に与えたいものを全力で相手に与え続けてひっくり返ってしまうことだった。

最後は、あなたにサレンダー。

私がなぜサレンダーするのかと言えば、ボロボロになってしまって降伏するって意味ではない。(私はボロボロではないし、彼くんもボロボロではないと思う。でも、よく頑張ったと思う。)

ただ、欲しているものがそこにあると気づいてしまっただけ。それを手に取ることが、もし降伏ならば、降伏したとも言える。

受け入れるだけ。

どうして彼が欲しいのかの理由に気づいて受け入れるだけ。

愛と安らぎの循環である。そこには信用がある。

でも心に傷があるとき、信用できるものも信用できないのである。