無を受け入れる。

2024年12月21日

| Ⓒ なとり

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ツインレイステージまとめ

私のステージが進むごとに更新していくステージをひとつの記事にして販売しています。


さよなら、ツインレイ Kindle版
さよなら、ツインレイ

当時はこれでおしまいなんだ・・・。そんな風に思いながら書いた『さよならツインレイ』。結果的にさよならしたのは、神交法の相手であるツインレイの霊体だった件。今更振り返って読んでみると納得がいく一冊だが、当時はよくわかっていなかった。

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今朝、電車に揺られていると自殺願望が込み上げてきた。

比較の世界で生きていかなければならない苦悩がリフレインして死にたくなったのである。

そういえば昨晩、布団のなかでめそめそしながら「子供生んだら、あと30年ぐらいは頑張れる( ´ᾥ` )」とか考えていた。

意味が無いことに耐えられない。自分の人生に意味が無い。

今日は病院。診察室に入り、先生へ

「先生、自殺願望が込み上げてきています。人って本来、死にたいっていう欲求を持つものですか( ´ᾥ` )」

と聞き始める。とりま、そんな経緯で先生と『自殺と無』というテーマで語ることになった。

 

以下、個人的な見解である。

 

私は『無』と『在』があり、在るのなかに比較が存在していると考えている。

在るのなかには『持っている』『持っていない』という二種類の意識が生まれ、ここに比較が生じ、人は比較に苦悩するのである。

    • 持っている(1)
    • 持っていない(0)

持っている人をみて自分は持っていないことを知るっていう感じ。

さて、この比較の世界と対立する世界は『無』なのだと思われる。

では無とは何か――というと、人で言えば『死』である。これで自殺に繋がってくる。

実は無の受容ができていないと、死にたくなる。で、一回、死のうとした。

理由は『無』に耐えられなかった。

この無とは、人の本質なのだそうな。その本質に触れてしまう人種がいて、触れない人種もいる。

それは比較に適応するのか、しないのか――の違いではないかと思われる。

比較に適応すると無に触れることは無いが、比較に適応しないと無に触れて死にたくなる。

 

孤独を受け入れて友達になることは出来ていた。

でも無を受け入れて友達になることは出来ていなかった。

無から本気で逃げ出そうとすると私たちは死にたくなる。

しかし、逃げようとしなければいい。

無にここに存在することへ許可をする。そうして見ると、なんだか胸にぽっかり空いていた穴が塞がったような気がした。

自殺願望が消えて、スーッと自分のなかが無になった。

綺麗さっぱり比較による苦しみが消失した感覚がした。

無と友達になった。

 

逃げようとすると追いかけてくる。

だから逃げなければいい。

ここに無がある。

人に意味などない( ˇωˇ )

生きる意味などないのである。

その無がここにあり、受け入れる。