まとめ|ククリヒメによるツインレイの縁結び
とりあえず、まとまった感じなので、まとめとして書き残しておく。
ククリヒメは、男女のふたりをひとつにくくる。
くくっておくと、そのふたりは「まとめられている」状態になる。
それぞれ「バラバラ」のもので、共通要項はない。共通要項がないからバラバラなのである。
バラバラなものを「ひとつにくくる」のがククリヒメ。
くくってみて、その後にばらばらにしてみることで、どのような縁が生じるのかは、それぞれの違いがあるかなと思われる。
ひとつにくくりきるとき、ツインレイのふたりは『統合』になるのか『結合』になるのかは別の話。
統合するのが依存した関係性で、結合するのが自立した関係性。
統合したものは「ひとつ」になっている。一個なれるよ。
結合したものは「ふたつ」となっている。あれ? 一個なれなかった。二個なれるよ。
統合したひとつのものは、依存した関係性ということ。
結合したふたつのものは、自立した関係性と言うこと。おたがい存在が自立しながらも他者愛がある関係性。
ひとつにくくったあと、ばらばらになるのが「サイレント期間」。
このばらばらになったとき、依存した関係性の人たちは分離不安状態となって相手を追いかけることになる。
自立した関係性の人たちは自己分離を起こしてツインレイの相手に『心』を分離させる。
私の場合、私の中にある『好き』と『大事にする』のうち『好き』を分離させている。彼の場合『会いたい』を分離させている。
それぞれ『好き』と『会いたい』を差し出している状態にあるから、ツインレイの相手に好きとか会いたいっていう感情は失われる。
そして、相手にその感情が内包されたとき、好きを分離したほうは「会いたい人に会いに行かなかったことに後悔」をし、会いたいを分離したほうは「好きな人に好きって言わなかったことを後悔」するようになる。
このように、相手に何かを差し出したりした分だけ、相手に与えることができる。
この期間、好きを分離したほうは「好き」を忘れているが、創造をつづけている。「好き」という感情を思い出すまで創造を続ける。振り返って「好きの気持ちを思い出す」ようにして相手と繋げることができる。
会いたいを分離したほうは「会いたい」を忘れているが、仕事を続けている。「会いたい」という感情を思い出すまで仕事しているけれど、なんでこんなに仕事を頑張っているのかの理由は忘れている。会いたかった気持ちを思い出して、ようやく相手と繋がることができる。
私の場合、「待つ」ことができるようになったあとにサイレント期間がやってきている。彼は彼を待っているのである。
ククリヒメは、ふたつをひとつにくくり、結合させ、結合した部分に『何か』があるとき、その何かを分離させ、相手へ提供する。
その分離部分が相手の心へと繋がるツールとなる。
その心が「素直」なのであれば、そのまま分離させる。しかし、その心が「エゴ」なのであれば、ふたつは統合される。エゴとは依存にある。自分のメリットのために誰かを好きになり、会いたいのであれば、それは統合され、ひとつになり、エゴイズムによる依存した関係性になる。
自立した存在は、結合させる。
ククリヒメは、ふたつをひとつにくくり、どうなるのかを見ている。あとはおのずと自分たちがどのようにするのかは決めていい。どのようになるのかは決まっている。
好きな人を好きと思い、会いたい人に会いにいけばいいだけ。
ククリヒメがしていることは『ひとつに括ること』だけ。
ひとつにくくって『統合(エゴによる依存)』するのか『結合(愛による自立)』するのかは、己次第ということ。
そして、統合し、エゴによる依存により出会い、そのまま依存として結婚するケースも多い。このケースは母の支配と子供の関係性をツインレイが模す。
ククリヒメとは『菊理姫』と書く。
この統合と結合においての思想は『菊の理』なのだと思う。
白い菊は「エゴによる依存の統合」が生まれ、白紙に戻るお話。白い縁。
赤い菊は「愛による自立の結合」が生まれ、赤い糸が結ばれるお話。赤い縁。
これが菊の理による縁結び。
ククリヒメがしているのは「ひとつにくくる」ことだけ。
縁を生み出しているのは、その心が誰を愛したのかである。
また、この循環が生まれるとき、サイレント期間に「ほかの異性」は介入されないし、やっていることは、忘れてしまった感情の代わりになる『何か』をやっている。
それが私の場合はブログ運営で、彼の場合は仕事なんじゃないかな。
「彼のことが好き」を表現し続けてきたのがブログ運営で、「私に会いたい」を表現し続けたのが仕事なんじゃないかな。
だから、失われた感情の代わりに代替えのようにして『海王星のエネルギー』が入り込む。
海王星のエネルギーは『依存』と『創造』のどちらかになる。
この失われた感情の代わりに入り込んだ海王星のエネルギーを使うことが、創造性である。
私がこのブログを書き続けたのは、彼のことを好きだと思う気持ちを海王星に乗せたら神秘哲学になってしまった。
つまり、自分の感情を失い、誰かにその部分を差し出したとき、その部分に『海王星のエネルギー』が入り込み、その入り込んだエネルギーが『依存内容』なのか『自立内容』なのかにより、当人の存在が自立しているのか、依存しているのは明々白々となる。
依存であれば「代替品のような誰か」と恋愛したり、「薬物依存」になったり、「なにかしらの逃避」「妄想への逃避」「霊能性への依存」というような形で『依存』が浮き彫りになると思われる。
また「誰かに依存している」状態になったりもする。
依存は、自分のニーズが満たされ無くなれば忘れることになる。どうでもよくなる。だって自分のニーズを満たされない相手はいらないから。
自立であれば「創造」していると思う。そして「存在が神秘的」だと思う。また「龍」だと思う。
女性は「創造」、男性は「仕事」かな。
イザナミは創造してて、イザナギは仕事している。
自立は、自分のニーズを満たされなくても愛していると思う。忘れないと思うし、どうでもよくないと思う。自分のニーズを満たすために相手が存在しているわけではないから。
忘れないと思う。。忘れられないと思う。忘れても、忘れられていないと思う。
だから何かに『昇華』はする。その期間、忘れているかもしれないけれど、忘れていないと思う。
すべてが残っている。自分の人生に残っている。人を好きだと思う気持ちや会いたい気持ちは、人生で物語れる。
小指に赤い縁があるのは、後者。
前者には白い縁が結ばれている。
ククリに、どちらの色の菊の花を差し出されたのかは、自分のサイレント期間を見返せばわかるかなと思う。
あなたはこのサイレント期間に何をしていた?
ククリヒメは、恋愛で会いたいのを我慢した人、そして好きな気持ちを我慢した人に、今度は会いたい人と好きな人を結び付けた。
会いたい人に会いに行けるように。
そして好きな人を好きになれるように。
そして、そのふたりがイザナギとイザナミの縁結びをしている。
この地上でふたりは出会う。
人は神に模して造られた。私たちは神の代替えとして、イザナギとイザナミの再会を願う神の子供たちである。
ククリヒメは、この地上にすまう小さなイザナギとイザナミを縁結びしている。
神は「愛している」って言っている。
うーん。よくがんばったね、かな。
神は愛しているという。愛しているという。
私たちはその愛を受け取っている。
私も神を愛している。
たまたま、イザナギとイザナミの神社の御朱印に『龍』を書いていたとこ。すごいな、繋がっていたんだ。
この御朱印は海王星のエネルギーが強い方に頂いた。