ツインレイの愛を受け入れるとトラウマが浮き彫りになる件。ツインレイをシャドウとして認識している件。
ツインレイの彼とのサイレント期間に入るとき、「彼は私のことを愛している、なのに、どうして彼は私のことが嫌いな態度をとるんだろう。」と思っていた。
これは私は彼に対して『愛されている』という実感といっしょに『嫌われている』という実感を感じていた。
こたび、ツインレイの彼には丸ごとすべて愛されていたんだ! ってことを受け入れた結果、私は自他統合たる『統合』のメカニズムを理解することになったんだが、その発端となるのが、サイレント期間に入るときのことである。
それが『愛されている』『嫌われている』という実感をいっしょに感じていたことが関係している。
統合は、愛により成立する。相手を受け入れること。これは自分が持っているすべてのトラウマを乗り越えることに繋がっている。
自分が抱えているトラウマよりも、ツインレイの相手がむけている愛を信じること——であり、このツインレイの相手を信じ切ることが自分のトラウマを乗り越えていくことに繋がっている。
このとき、私たちの意識はふたつに分離する。
このように、自己が『自己分離(愛とトラウマの分離)』と『自他統合(ツインレイと自分の統合)』という2種類の分離意識を生み出す。
バラバラにすると『トラウマを抱えた自分』『ツインレイを愛する自分』『ツインレイに愛される自分』の三つに分離される。
このとき、自己とは自己分離状態になるのだが、分離した健全なものはすべて『他者』という概念のほうのツインレイを愛する意識により統合意識となっているが為、自己とは『トラウマの塊』というような状態である。
つまり、自己分離によって自己統合が発生している仕組みになっている代わりに、自己が『トラウマ人格』となっているのである。
このトラウマ人格は『当人の人格』にはならない。ただ、統合人格がまずは『自己』とされ、トラウマ人格が『他者』という人格に反転するためにある。
このトラウマ人格が他者となっているとき、このトラウマ人格により引き出される存在がシャドウという影の存在である。
このシャドウにより自分がもっているトラウマを引き出されていき、そのトラウマを解消していく必要性がある。これがサイレント期間に行っていること。
このトラウマ人格により引き出されてくるシャドウの存在を乗り越えていくことにより、私たちは私たちの中にある『自己』の概念を前回によりも強くアップデートして存在させることができる。
他者概念により引き寄せることになる『シャドウ』の存在は、トラウマを克復していくことで新しい自分を構築することになる。
その克服していくことにより、統合意識のなかにある『ツインレイを愛する自分』を認識していくことにも繋がっていき、それが『他者概念』へと構築されていくとき、ツインレイの相手と自分により生み出された統合意識が『他者概念』へと生まれ変わる。
他者概念には『ツインレイの存在』が入っている。この他者概念は『引き寄せ』の原理の根源だから、けっきょくはツインレイと繋がることになる。オートモード引き寄せになる。
この話を冒頭に戻す。
これは私は彼に対して『愛されている』という実感といっしょに『嫌われている』という実感を感じていた。
これは私の中にあるトラウマ人格が持っていた記憶である。
つまり、ツインレイの相手に対しても『トラウマ』が残っているのだ——ということ。
ツインレイの相手へのトラウマは、私の場合、一番最後に爆発した。愛されているという実感と、嫌われているという実感は自己分離感覚にあり、私は「愛されている方」を受け入れた。
受け入れたとき、統合が完成するのである。その後、私は『嫌われている』と感じている自分を認識し、受け入れること。これがサイレント期間の始まりにあたる。
このサイレント期間の始まりは、愛されていることと嫌われていることのどちらかを選べと言われたとき、愛されていることを受け入れ(ツインレイの相手を信じる)、次に嫌われていることを選ぶことにより『トラウマ人格』の人生が始まるのである。
このトラウマ人格は、先ずはツインレイの相手をハネる必要性がある。
つまり、トラウマの克服である。
ツインレイの相手によって手始めに「ツインレイの相手は自分を嫌っているから、自分はいっしょにいない!」という自己愛を発揮させる。嫌われているのであれば、いっしょにいないほうがいい。それが愛だから。
これがツインレイの相手に対して発動するトラウマであり、トラウマ対象から離れていく必要性がある。これがトラウマの克服に関係している。
しかし、このトラウマの克服は「終わった」わけではない。
こたび、このサイレント期間の始まりに、この「嫌われたんじゃないか」っていう揺らぎが今生まれてきて「いや、そうじゃないや。自分と彼はこのとき統合されていた(鏡の中の私と彼くん。)」という感覚により、自分を信じることがツインレイを信じることにもつながった瞬間が生まれた。
そうすると、なぜ「嫌われている」と思ったのか? の原因がでてくるのである。
その原因を此度、トラウマ夢を見ました。
小学生のころに1週間ぐらいムシされるっていう経験があって、そのときに凄く傷ついたらしい。この傷ついた経験を彼に投影した瞬間があったのだ。
今回は、ツインレイを信じることによりトラウマの原因が分かり、このトラウマを解消することが『サイレント期間のはじまりによるなとりが持っていた彼とのわだかまり』が解消されることとなった。
つまり、ツインレイに対しても何かしらのサイレントの引き金になるトリガーがあって、そのトリガー原因が『分離段階』で理解され、その分離人格がもっているトラウマは、トラウマ解消のなかでもシャドウが現れない。
しかし、ずっとシャドウとしての役割をツインレイが担っているのである。
このサイレント期間、ツインレイの彼くんは『シャドウ』の役割であり、私のなかで「無視られた経験(嫌われたの意)」を常にシャドウとして提供し続けている存在なのである。
また、それは私の側面にあり、私もかなり、このサイレント期間に『ムシる』『拒絶する』等のことを行ってきた。理由は、それが悪いことだと思っていた理由。トラウマである。このトラウマがたぶん、めちゃでかかったんだろうなと思う。
このでかいトラウマのシャドウを、ツインレイの彼が体現していた。そして、こたび、私はこの長い時間をかけ、ツインレイの彼を追いかけるようにして『シャドウを内包する』ことが出来たのである。
そして、私は『トラウマを克復』したと言葉にできるが、同時に『ツインレイというシャドウを内包した』ことになる。
つまり、私の場合、ツインレイはサイレント期間に常にシャドウ的な役割をしていて、シャドウとは「自分にとって嫌な存在」ってことでもある。そして、その嫌な存在とは自分のトラウマにより自己から切り離してしまった『悪』である。
その悪をツインレイの相手に投影し、そのツインレイが持っている悪を内包し続けてきたのである。
では、ツインレイの相手は悪だったのか——ということ。
ツインレイの相手は悪ではないんだよな。ただ、私自身がツインレイの相手にトラウマや自分の影を投影し、その影を見続けてきた。これこそが『悪』なのである。
つまり「誰も悪くない」んだよ。でも、私たちのなかには「投影」という意識がある。常に自分を投影することでしか他者を認識することができない自分がいる。
自己投影の道具として他者を利用し続けている自分がいるのである。これが『人』なのである。
そして、その自己投影してしまう理由は『傷ついた経験』『トラウマ』である。
悪とは何か。傷ついた経験の多さ、トラウマの多さが誰かのなかに悪を見つけ、その悪により私たちは自らを善とし、最後は善でありながらも悪を内包することで自己超越をしていくことにある。
一概に、この傷つくことが悪、トラウマが悪とはいえない。
私はこの世が葦原の世であり、何があっても人は成長するしかないと言葉にした。木は上へ上へと育つ。そして、根が下へ下へと育つ。
私たちは下へ根差せば根差すほど、上へ成長するしかない。
上へ善だと育つたびに、下に悪が育つ。善が悪を内包するとき、私たちは『独立』するのである。
この傷ついたこと、トラウマを克復していくことこそが『成長』であり、神による善なのではないかな? と思った。一番の悪は成長しないこと。傷つかないこと、トラウマを克復しようとしないこと。心の成長を掴まないことなのかな? と。
私はこのサイレント期間で、ツインレイの彼をシャドウとした側面もあり、そのシャドウを内包した。