ツインレイによる悪魔の証明(縁がないことを証明し、どうでもよくなる)

| Ⓒ なとり

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ツインレイステージまとめ

私のステージが進むごとに更新していくステージをひとつの記事にして販売しています。


さよなら、ツインレイ Kindle版
さよなら、ツインレイ

当時はこれでおしまいなんだ・・・。そんな風に思いながら書いた『さよならツインレイ』。結果的にさよならしたのは、神交法の相手であるツインレイの霊体だった件。今更振り返って読んでみると納得がいく一冊だが、当時はよくわかっていなかった。

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「悪魔の証明」なんだと思う。

悪魔の証明とはツインレイが存在しないことを証明すること。

「ある」ことを証明することはそんなに難しくはない。ツインレイを探して「この人がツインレイです!」ってすればいい。

だけど「ツインレイは存在しない」ことを証明することは難しい。

私は「ツインレイは存在しない」を証明することにした、悪魔に魂をガンガン売ろうぜ。

 

もともとずっと、この世明けのツインレイは「ツインレイの証明」だと思う。このサイトのほとんどがツインレイを証明するために行い続けてきた。

たぶん「ツインレイの証明」を仕切ったときにはーちゃんがやってきた。そう、はーちゃんが私の求めていたツインレイのカタチを持って「証明」されたのである。

次は「悪魔の証明」に転じる。あることが証明されたら、次はないことを証明する。

たしかになかった。ツインレイによる縁がないのである。

ツインレイという縁は存在しない。無縁だからこそツインレイなのである。

私である、無縁によるツインレイ。ない、縁がない。

 

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「ある」と「ない」のメカニズム上「ない」として定義されたものでしか「ある」に転じさせることはできない。

ツインレイは存在しない。これを証明することは、ツインレイは存在するへの転嫁が行える。

あるものを消すことはできない。だけど、ないものならば創造することができる。

私たちの経験したこと、事実。それらを消すことはできない。だけど、私たちが経験していないことを経験するように創造することはできる。

ツインレイの縁は「無縁」により生じている。このカオス、この混沌とした矛盾を私たちは享受している。

そして、この無縁により生まれた縁を「秩序」にすることによって、定義化させることができる。言語化。

 

無縁だからこそ、ツインレイなのである。

出会えないのである、出会えない人たちと私たちは出会ってしまった。意味が分からないカオス。

このカオスを秩序に落とすとき、私たちはツインレイを無縁とし、その無縁を受け入れていく必要性がある。

ツインレイが無縁ではなく、縁があるとして定義している限り、私たちは「縁があるならばそれ以上に何かをする必要性がない」のである。

ツインレイとはふたりの関係性を指す。ふたりがいかなる関係性かを「ツインレイ」で定義する。だけど、ツインレイという関係性はこの世に存在していないし、なんなら「無縁という関係性」ということ。

私たちは大きな勘違いをしている、無縁を縁があると——。

ツインレイは無縁である。だから神を欲する。神に縁結びを所望する。

私たちは、無縁だからこその神による恩恵を受け取ることができる。

 

そのために私は先ず「ある」を理解しなければ「ない」がわからなかった。

0という概念は1という概念の次にある。1が存在しなければ0の概念生まれない。

1-1=0 これが「1 ある」と「0 ない」の方程式。

だから、私は先ずは「ツインレイを証明する」必要性があって、次に「ツインレイの証明ができない」必要性があった。

縁がある-x=縁がない

めっちゃ簡単な数式。xの値を求めよ。

「縁がある」だよね。この縁があるを導き出していた。

1がはーちゃん、0が私。

だからxは「縁がある´(なとりの縁)」になる。これがなとりの無縁により導き出された「縁がある」の方程式。

 

ないものを認めていくことが、私たちの苦行のひとつになるのかもしれないけれど、ないものを「ない」として現実を認識していくことはツインレイの発展のひとつなのかもしれない。

つまり0という自分を認識すること。

「なんも持ってねえな」ってことに気づく。

現実を直視したら「無縁」であることに気づいたということ。あれ、ねえなって思った。

無縁なんだから、そりゃ関わることはできないよね。じゃァ、いいや——にいたることが「どうでもいい」という感覚に繋がっていく。

 

いいぜ、新しい出会いに進もうぜ。

無縁な人と結ばれようとする努力は途方に暮れるだろうが、新しい出会いを求めたほうが時間の有効活用が出来そうだ。

 

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ものすごいバカなことを証明していて、これを証明することにもまるで意味はないよ。でもさ、この無意味なことってめちゃくちゃ面白いことなんだよな。

なんだこれwwwwwwwwwwwwwwって思って「楽しかった~」で終わる。

今、そんな気分。人生を数式で解いている。楽しいんだよな、これが。

納得、なるほど、そういう仕組み。でもこの証明したからといって意味はない。

だって、無縁が無縁であることを証明しました! って、これ意味ある? ないよ。生産性もない。

中学三年生の数学で三角形の証明やるじゃん、これって何の意味があるんだろう? って思ってたけれど、こういうことだと思う。

なんの意味もないんだよ、なんの意味もないことが面白い。

この「意味がないこと」を楽しんでいる人たちがいて、そういう人たちがツインレイという「無意味」に出会っていくと思うよ。

だってツインレイ以上に無意味な存在はいない。だけど、これがものすごく面白い。だって「意味がない」って「面白い」だけだもの。

これ以上にくだらない関係性はないし、生産性もない。それが世だよ、この世そのものに意味はない。意味がないから最高に面白い。

この人生の無意味さを理解した人から「意味不明な面白いもの」を提供される。

だからずっと「人生楽しみなよ」って言っている。この世に意味があるものなんてなにひとつない。

意味がないものに対して「意味がある」と思い込むのが人の面白いところ。

ひとつに「意味がある」と突き抜ければ、ひっくり返って「意味がなかった」っていう肩透かしにあって笑っちゃう。

くっそくだらねえな、くだらねえけど、はァ、楽しかった。もう一回! って意味があるものを探して追求していくのが人生。

ニーチェが言葉にしていたような気がする。永劫回帰のことかな。ずっとぐるぐる回ってる。

くだらないんだよ。でも、そのくだらないことがクッソ面白い。くだらないバカが最高に神に愛されている。

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私が思うに、ツインレイって意味不明な面白いものなんだと思う。無意味なものだよ。

価値化することのほうが多いケースのなか、私はこれを無価値化させるよ、まかせろ。

 

意味がないって思っていたものが、すべてに渡り「意味があるもの」に転じていくときがあるよ。

私はずっと「意味がない追及している自覚」みたいなものがあったよ。でもやめられなかった、面白かったからだ。

だから度々「ブログの内容はすべて間違えているよ」とか「意味はないよ」「価値がない」って言っている。

そう、意味がないことわかってるからそう言っている。価値もないんだよ。

だけど、意味がないからこそ、価値がないからこそ、いつかの日か「意味や価値を成す瞬間」が絶対的に回ってくる。

それは今じゃない、今じゃないけれど、私にとって本当の意味で「意味がない」「価値がない」の烙印を押しきったとき、このすべてに意味と価値がなされるよ。

 

神は人を愛している。この世のすべてを無意味に創造したけれど、だからこそ人へ意味をお与えになる。

あたいは人生のギャンブラー、サイを回すよ。勝負の相手は神である。

で、神よ。これどう決着つけようか。によによ

フン、敗けねーぜ。