他者信頼と自己信頼の両立をさせた。
今回のテーマは、これのような気がした。
他者を信頼するとき、自分が信頼できていないという構造である。
ウイルス感染した私は、そのまま自力で治すつもりだった。
2日目に割と元気になり始め、抗体が出来てきたんかなってときに、母から伝えられる姉からのアドバイス。
「病院に行ったほうがいい」
ということだったんだが、母はそれまではゆっくり治しなさいっていう姿勢だった。
でも、あるとき姉が介入すると、母は自分の意見を姉の意見に切りかえてしまう。前にも具合が悪いときに同じようなことが起きたことがあって、そのときは無性に腹が立った記憶がある。
自分の胸に手を当てて考えてみると、
「母は私じゃなくて姉の方が信頼してるんだ」
ってことにショックを受けているようだった。
すると、もうどうでもいいや。治そうと頑張ってたけれど、どうでもいい。って思いが込み上げてきて、自分の治療放棄を始めた。
どうでも良くなったのである。自分が具合が悪かろうが、良かろうが、どうでもいい。
なんなら死にたい。
そんな思いが込み上げてきたら、炎症が広がっていく感覚がした。今まであんなに元気だったのに、元気が失われていった。
そこから、私は自分の信頼を母に依存して信頼度を維持しているんだと理解した。
つまり母が私を信じてくれている。だから、私は私を信じているのである。
そんな母が私以外の誰かを信じている。だから私は私を信じられなくなったのだ。
つまり、自己信頼っていう部分で、母を経由していたんだなって思った。
私は私を信じることにした。
母が信じている人を信じるのではなく、私は私を信じることにした。
そして、自己信頼が構築しきったあと「他人を信頼してもいいかもね」という思いが込み上げてきた。
病院を信じていいし、姉を信じてもいい。同じだけ自分を信じているから、二馬力じゃんって思った。
信頼構造が自分ではなく、母を介しているとき、姉を信じるか、私を信じるか――のどちらかになってしまっていたんだな。
自己信頼、または他者信頼のどちらかしか選べない構造は、自己信頼が他者により介されて構築されていることに問題がある。
あなたを信じるとき、自分が信じられないのである。自分を信じるとき、あなたが信じられない。
ちなみに、そこから色々考えて、親と一緒に病院に行って車で長時間にわたり同じ空間に居続けることのほうが親にとってリスキーじゃね? って思った。
もう少しで治りそうだし、病院に行く方が問題を拡大させる気がしたので、病院には行かないことになった。
自分の中でちゃんと気持ちの整理がつくと、自他共に最善の選択を導けるものだなと思った。
追記
過去に付き合った人を思い出した。
「なとちゃを助けてあげたいんだ」と他人に言っていたと又聞きし、「なんだそれ?」と思って別れた。
直感的に「私は助けなくてはならない可哀想な人間だと思われてるんか、失礼な人だな」と思って無理だった。
信頼関係って「助ける」では、ないのだと思われる。
信頼すること。それは助けてもらうことではない。
一人で立ち直れるって信じてる。その上で頼る必要性がある。
ひとりで立ち直るために必要なものを集めたらいいのかも。
誰かは絶対的に助けてくれない。でも救ってくれる人はいる。
そういう経験があるから、私は今回、自己信頼を構築し切れたし、傲慢にはならなかったんだなと思った。
つまりは過去の経験により未来は構成されている。