ランナーは『本当に逃げているのか』について。

Kindle版
さよなら、ツインレイ
当時はこれでおしまいなんだ・・・。そんな風に思いながら書いた『さよならツインレイ』。結果的にさよならしたのは、神交法の相手であるツインレイの霊体だった件。今更振り返って読んでみると納得がいく一冊だが、当時はよくわかっていなかった。
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今回、ランナーという『逃げる』という自己統合をした。
つまりは『逃げることが悪いことではない』っていうこと。
どうして、ランナーなのか——なのだが、チェイサー側からすれば『逃げる』なのだと思われる。
でも、たぶん、ランナーは別に逃げているわけではないって話をしたい。
先ず、私たちはとても主観的な人間である。このことを大前提に理解できれば、ランナーっていう解釈は出来なくなる。
彼はランナーである。これが私たちの主観的な感覚にあるのだということ。
あの人は逃げた。それは私たちが自分のなかで逃げなかった意識があるってだけ。
私たちはひとつの選択の岐路にあった。
逃げる——逃げない
このうちの『逃げる』という意識があり、しかし、その意識を理性にて禁止することにより『逃げない』という選択肢が生まれる。
逃げるという選択肢が生まれたから逃げないっていう選択を選ぶことができた。そこには逃げるへの禁止が介入する。これにて否定と肯定の視点が生じるとき、私たちは二元性の思想に囚われている。
ゆえに、向き合うとは、
- 逃げたい(欲求)
- 逃げるを禁止する(理性)
- 逃げない(欲求とは真逆)
- 向き合う(人間性)
となっている。つまりなんだが、欲求を否定する形で人間性を形成している。ので、この根源にある『欲求』をとりに戻ることが必要となるのが『ランナーとチェイサーの思想』に繋がってくる。
では、そもそもランナーは逃げているのか——だが。
そもそも私たちがこの『逃げたい欲求を禁止して向き合った』という経緯が無ければ、逃げている人を認識することができない。
そう『認識することができない』のである。
私たちは『逃げない』を選択したからこそ『逃げている』を認識する。でも、その人が本当に逃げているかどうかは別の話である。
ツインレイ女性をツインレイ男性が逃げている。そもそもこれがツインレイ女性からの主観的な『逃げないを選択したからこその逃げているを認識しているだけ』の話である。
逃げている人を認識するとき、私たちは必ず自分のなかで『逃げなかった経験』がある。でも、逃げている人が本当に逃げているのかについては定かではない。ただ自分が逃げていない経験を持っているだけで、相手が逃げているかどうかは、また別の話だと思われる。
私たちが主観に囚われている限り、私たちは『ランナー』を生み出し、『チェイサー』を生み出す。
また、ランナー側からすれば、チェイサーもまた『逃げている』と認識する部分があるだろうってことでもある。
ツインレイ男性がランナーであり、ツインレイ女性がチェイサーである——とは、ここで断定ができない。なんなら、人それぞれ逃げなかった経験が違うから、逃げていない内容により『逃げている人がズルい』と感じると思われる。
ので「逃げている人がズルくて、ムカつく」ので「逃げんな!」って怒るわけである。
それは私たちが『逃げるという欲求を認めることが出来なかった経験』があるってだけ。相手はあんまり関係がないのに、関係があるって思っちゃう。それが主観に囚われているって感じ。
逃げてもいいのである。私たちの生存本能である。そして、その本能を認めることは第一チャクラに繋がっている。
そして、逃げる人を否定することは、自分のなかにある生存本能を否定することであり、それがまた私たちの人間性を形成模している。
私たちは人間性を形成する人になる場合、自分の欲求を否定しなければならない。
自分の欲求を肯定している人たちは、人間性を形成することができない。
どっちが正しいのか、個人的にはさっぱりわからないんだが、それでも『欲求』と『人間性』は、相容れないものなのだろうなと思う。欲求を否定する理性が人間性を構成するけれど、否定された欲求は今も苦しんでいる。
つまり、人間性を持つ人は『自分の人間的部分が否定されている』状態になっているとも言える。
人はそれぞれ『向き合っているもの』が違うのだと思われる。
そして、何から逃げているのかもまた違うのだと思う。そして『逃げんな!』って思ったものこそ、自分のなかに存在する人間性であり、否定された欲求が存在している。
シャドウは、まま『自分が向き合って理性で排除したネガティブな自分』である。代わりに『人間性』を得ている。
だから、ツインレイ男性がツインレイ女性から逃げているって話は、なんだかちょっと違うなと思うのと、これだと『男性目線』でしかないのかな? とも感じている。
ツインレイ男性は、自分のなかに存在する女性性を否定しているし、女性性を受け取ることができない。これがアニマという創造性が自分のなかに存在していることが認められないツインレイ男性を言い表していると思う。
ツインレイ女性からすれば、ツインレイ男性はランナーではない。しかし、ツインレイ男性からすれば、ツインレイ女性と言うアニマから逃げ出して受け入れることができないのは事実かな? と感じている。
ツインレイ女性はツインレイ男性から逃げ出したのではなく、逃げていないからこそ、自分のなかに存在する欲求を肯定するべきなのだと思う。これがグラウンディングに繋がっている。
とはいえ共、そこには『自己責任』の獲得がなければならない。すべてにおいて責任がある。もしかしたら、ツインレイ女性は『自己責任』から逃げているのかもしれないね。
自分で自分の感情、自分の欲求。すべてにおいて自己責任をとる必要性がある。
- 男性・・・・・・創造性・アニマ
- 女性・・・・・・自己責任・アニムス
でも、逃げている意識なんてものはないし、それが本来だと思われる。そもそも、ツインレイの相手に出会い、そして、月日が経ち、ようやく『逃げていたもの』に向き合うようになると思われる。
それまで『自分の性別を育てる』ことに意味がある。
自分の性別を育て、その育てた人格に見合う相手と出会うも、自分の性別を育てることは異性の性質からの逃避という結果になってしまっていたって感じだろうか。
女性の場合、創造性を育てていくと自己責任を育てることができない。自己責任がとれていないことに気づくのは、ツインレイ男性に出会うとき。ツインレイ男性によりアニムスが動き始め、自己責任と向き合うように仕向けられる。しかし、別に、アニムスから逃げていたわけではない。逆然り、ツインレイ男性だってアニマから逃げていたわけではない。
逃げていたわけではないんだが、そこにあることに気づかなかったから、ガン無視されていただけ。
私の場合、自己責任が0の状態だったとするが、それでも創造性が100となっている。彼に出会い、初めて自己責任が0であることに気づくのである。
気づかねば向き合えない。それは逃げているとは言えない。
しかし、アニムスと向き合う以前に、やっぱり未知は怖い。怖いものからは逃げたい。逃げたいけれど逃げないを選択して『向き合う』になるんだが、アニムスと向き合うのが怖かった事実は消えないし、逃げたかった気持ちもなくならない。
シャドウには「責任から逃げるな」ってキレてたんだけれど、これは私自身が責任と向き合ったからこそ言える言葉であり、なんなら、実は逃げてもよかった。
シャドウとは何か——。それは、アニムスから逃げたのか、それとも逃避せずに向き合ったのか。この分岐点にあるのかなとも思う。シャドウは責任から逃れたい逃走欲求を肯定し、私は人間性(自己責任)を肯定しただけの選択の違いであり、シャドウは私自身の根底にある欲求を認めているだけ。
ちなみに、個人的に、シャドウに「責任から逃げるな」って怒っていたんだが、なんだかんだ、私からしては「責任から逃げている」んだが、シャドウ自身は「責任から逃れることは出来ない」っていう感覚が理解できた。
つまり、逃げられると思っているんだよな。いや、自分の人生や自分のしたこと。それらの過去が消えるわけがないし、そこに残り続けるし、なかったことにはならない。逃げられないし、ずっと人は自分の過去を消すことは出来ない。忘れることはできるけれど、本当の意味で忘れることはない。
だから、別に「逃げるな」だなんていう必要性もない。人は『自分』から逃げることは出来ない。
人はずっと自己責任をしているし、私もまた、自己責任が意識下になかっただけで自己責任をし続けている。
意識的に「やる」「やらん」ってだけの話で、現実からすれば「みんな責任状態」って札を下げてる。
私はずっと『自分の人生から逃げられる』と思っていたのかもしれないんだが、それこそ、二元性に囚われた思想だったのかもしれない。
第一チャクラが『逃走——争い』という二元性を持っている時、私たちは、逃げるか、争うかのどちらかを選択せねばならない。
しかし『争うこと』『逃げること』『争わないこと』『逃げないこと』の四点が揃うとき、私たちは新しいもうひとつの点を見つけることができる。
それが『共存』である。
争いと逃走。この二軸があるとき、私たちの中には自立が出来ていない自分が存在している。
私たちは何と争っているのか、何から逃げているのか。それは『自分のなかに存在する欠片』である。その欠片をすべて回収することができる時、これを『自己統合』とする。
私たちのなかに存在する共存とは、自我と自己の結合による共存である。この共存が自己実現へと繋がっている。
争うことを肯定するとき、向き合うになる。
逃げることを肯定するとき、向き合わないになる。
向き合わなくていいものは向き合わなくていいんだなと思っている。自己投影を吹っ掛けられたときは特に向き合わなくていい。他者の独り相撲に付き合うほど暇ではないって感じ。それでも、争うことが否定されているとき、向き合わなきゃいけない。
だから、どこに否定があってどこに肯定があるのか——の話なんだと思う。個々によって違う。
ただ、一つ言えるのはここに『理性の介入があるのか』によって意味合いが変わってくる。
人間性は理性により構築されるし、欲求の肯定もまた理性により行われる。
ゆえに、人間性——理性——欲求の三つの両立が可能になる。いかに欲求を理性によって人間性へと昇華させることが出来たのか。
人生でいかに理性的に解釈し、自分の中にある欲求に抗い続けたのかによる結論が『人間性』であって、人間性が構築された存在こそ人間の完成とも言える。
だから、考えることができてようやく人は人になれる。
最終的に導き出された理性による結論が『悟性』と呼ばれるものなんじゃないかなと思う。
最終的には、人間性=欲求ってことに回帰することになる。
このとき、人間性(欲求)——悟性——理性って構造になるのかな、と。これが『悟り』を持つ人だと思われる。
人間性=欲求とは、自分が逃げるべきだと思うときに逃げ、向き合うべきだと思うことに向き合う。この判断が的確にできる人間性が構築できること。ただ、闇雲に100%すべてに向き合うとか、すべてを敵とみなすとかいう、むやみやたらな未熟さを抜けることを意味する。
必要に応じて判断をすることが出来るようになること。
そのためには、自分の欲求をよく理解し、その欲求を理解しているからこその判断能力が高くなるのだと思われる。
現実的に適応した説明すると、自分が生涯においてどれぐらいの稼ぎになり、体力面を考え、何人くらいまでならば子供が育てられて大学まで出してやれるのか——を考えて子作りすることかな。
自分の欲求を満たすには、現実が必ず存在している。自己実現とは『夢を叶える』みたいなふわふわしたものではなくて、より現実性を求められている。
で、自分の欲求だけで話を進めると、どこかにしわ寄せが行く。そのしわ寄せが子供に向かっているケースが多いって話。
「しあわせ」が「しわよせ」になってて泣けるわ。
しあわせって四つ合わせることなんだけれど、二元論は「善——悪」で、『善(否定——肯定)』『悪(否定——肯定)』って構造とかとっている。で、この四つを合わせると二元論が共存することができる。
これが二元性と呼ばれている状態で、ふたつは支え合っている状態。
で、ここにまで持ち込む為には『理性』が必要。