空気のような人と結婚しなさい。
「先生からして、どんな人を『相性が良い』というのかを教えて。」と精神科医に聞いてみた。
すると、空気のような人と結婚したらいいと言われた。とは言えど、いくつかの条件はあるらしい。
- 衣食住のある程度の一致
- 我慢できる、許容できる範囲であること
- 譲り合い埼玉
- 空気のような存在
として教えられた。このような人と結婚することが相性の良い結婚になるらしい。
説明してみようと思う。
衣食住という生活に密着した部分での一致点。
「美味しいね」と言い合える。「楽しいね」と思い合える。
いわゆる、生活のなかに共通点があり、その部分で一致があることが重要なのだそうな。
生活以外で不一致があってもいいらしい。
あんまりどのように一致を定義するのかについては食い下がらなかったので、聞き出せなかったんだが、個人的に『寝る時間が同じ』『生活スタイルが似ている』とか。
食べたいものが同種であったりすることも大事なんだと思う。
とは言えど、寝る時間が片方が遅くても許容できる人もいれば、是が非でも一緒に寝て欲しい、気が散って眠れない――というのであれば、寝る時間は合わせられる人がいいよねって話になってくる。
つまり、譲り合いがしっかりと出来る相手がいいらしい。そこに『我慢』があったとしても、譲り合っていこうとする姿勢。
でも、この我慢というものが、一方通行的に『片方が我慢』『片方が自由』という構造になると関係性は愚痴になると思われる。
我慢はよろしくない。しかし、我慢しなければならないシーンが結婚には絶対的にある。では、その我慢が耐えられるのか? そこを譲り合ってやっていけるのか? と言う問題が重要になる。
ただ、一方通行に我慢を強いる関係性とは『絶対的孤独』という課題が片付いていないって話になる。
絶対的孤独とは人は生まれてこの方絶対に孤独者である事実にある。この事実と如何に向き合えているのか? という課題が克服されていることは大いに重要になってくる。
絶対的孤独というさびしさの埋め合わせによる結婚をするとき、私たちは相手を求めるようになる。
つまり「空気のような存在」であってはならない。ここに常にいなければならないのだ。
結婚生活で『相手がいつ帰ってくるんだろう』ってことに不満を感じたら、もしかしたら、それは寂しさの埋め合わせの相手なのかもしれない。
いわば、私たちは孤独者同士として結婚し、ふたりの関係性は孤独の埋め合わせのために結婚するのではない。
ただただ孤独として自分が成立することが求められているのである。
そして、相手が孤独者であることを肯定せねばならない。
私たちはついつい自分の寂しさばかりを気にして、相手の孤独を奪う。
しかし、私たちは常に自分の孤独と向き合い、ときに人と関わるときばかりは、いくばかのさびしさを回避する程度のもの。
私たちが孤独では無い、寂しさを本当の意味で埋め合わせることが出来るのは、母子の癒着がある幼少期のみ。
私達がもし誰かにさびしさを埋め合わせるようなことをしているのであれば、インナーチャイルドがワンダーチャイルドとしてひとりで遊ぶことを忘れているのかもしれない。
先日、ツインレイの彼は赤の他人と化した話を書いた。どうでもいいわけである。
これは結婚相手のことを意味しているらしい。
なるほど、奥が深い。
私たちは赤の他人と結婚し、常に赤の他人であり続ける必要性があるということだ。
しかし、私たちは家族となれば相手の孤独を侵害しかねない。それは相手を赤の他人であることを忘れているってことなんだと思う。
夫婦とは赤の他人の詰め合わせであり、新しい同じ経験をこれから積み上げていく関係性である。
昨日、uyuさんと会って話をしてきたんだが、面白い感覚を得た。
今まで共感と理解があった。いわば「わかる」という感覚だ。
しかし、頭の中では理解が出来ているのに、もうひとつの視点では「わからない」のである。
特にuyuさんの子供のときのお話が「こうだったんだよね」って話も、言っている意味はわかるが、明確には理解しきれていないような感覚が生まれた。
妙に心地よい感覚だった。
わかるはずがないのである。uyuさんの経験を私がわかるはずがない。同一の経験がないんだから。私はuyuさんではない。
しかし、今まで「なるほど」と聞いてきた。でも、ある角度からは絶対的に理解することが出来ないのである。
その角度を得て、私はこのとき、uyuさんとの明確な分離感覚を覚えたのではないかと思っている。
どんなに親しい間柄であったとしても、違った人生を生きてきたという根源的な理解をした瞬間だったと思う。
それが私にとってuyuさんが孤独者である事実を受け入れたんじゃないかなって思った。
それはどんなに考え、どんなに思い、想像しようとも「わからない」という感覚にある。それはuyuさんの感性であり、個性であり、紛れもない孤独という自分一人しか分かりえないものなんだと思った。
そして私はそれを「理解したい」とは思わなかった。絶対的にわからないだろうから。そして、わからないから良いのである。
結婚相手って「わからないこと」をどれだけ受け入れられるのか――なのかなとも思った。
それを『空気』として考える。捉えようがない。
相手が私にとって分かりようがない経験と人生があり、エピソードの話を聞かせてもらったってわかっていない自分がそこにいるってこと。
よき理解者であるとは、わからないことへの許容者ではないかと思った。
そして分かり合おうとすることも、とても大事だと思った。
分かり合おうとすらしなければ、私は「絶対的にわからない」という感覚を手に入れることがなかったんだろうから。
空気のような存在とは『わかるけれどわかっていない部分を愛せる相手』なのかなと思った。
わからないこと、そこに透明な空気のような存在がいること。その存在に心地良さを感じること。
つまり理解不能を愛せるのか?
絶対的に理解できるはずもない部分を、当人でさえも取りこぼしている背景を空気のように感じながら、夫婦は同じ空気を吸う。
わかることや理解が出来ることで安心感が産まれることもあるけれど、わからないことや理解ができないことで、孤独を守れることがある。
これが尊重なんだと思う。
私たちは永遠の孤独者として、生涯において理解できない部分を他者として理解し、親密性を失っては尚、愛着の生まれることがない相手を尊重するのである。
自分の孤独を守り過ぎる人もいれば、他人の孤独を破壊する人もいる。
ふとしたとき、そこにいる人は『自分』ではない。絶対的孤独者という他者であり、そんな人達に囲まれて生きる私もまた絶対的孤独者である。
自分の孤独を愛するがあまりに他人の孤独を愛せない人もいる。
孤独に対してどのような対応が生まれるかはわからないが、確かに私にもネックになっていたものは孤独への対応である。