ツインレイが仏教による六道から解脱する覚醒までの道
六道とは仏教の思想である。
感覚的には人の心の中には六つの世界観があるのだ、と。その世界を私たちは行き来している心を持っている。
それが人間だという話だ。
天道(てんどう)有頂天の心、すぐに落ちる。
人間道(にんげんどう)四苦八苦の心。人はここでようやく説法が聞ける。苦しみを受け取り、自分の問題と向き合う心。
修羅道(しゅらどう)自分の思い通りにならないときに怒る心。(瞋恚)
畜生道(ちくしょうどう)愚痴ばかりの心。(愚痴)
餓鬼道(がきどう)あれもこれもどれも欲しい貪欲な心。(貪欲)
地獄道(じごくどう)怒り、人を苦しめようと思い、害を及ぼそうとする心。
私はこのように簡素に説明をしているが、ツインレイ向けにもう少し説明を加えてみようかなと思う。
六道は善悪に分類されている。四つのときもあるんだが、それは修羅が悪に含まれるかどうか——である。いわば、この修羅道とは怒りにより攻撃をするという戦争の世界を意味している。なんなら、この修羅道の一番の悪いところは「わかってやっている」ところだと思う。
いわば、人を正しい道へ導こうとして自分が悪になる。という考え方をしているから悪なのか、善なのかがよくわからないっていう立ち位置になってしまうんじゃないかと思う。
どっちにしたって人がやることには違いがない。
ツインレイのカップリングと六道
ツインレイはそれぞれ認識が違うカップリングが生じている。
天道(善三道)と、地獄道(悪三道)のふたつにツインレイは振り分けられている。
片方が天にいるとき、片方が地獄にいる。しかし、どちらが良いってわけじゃない、どっちもやらなきゃいけないことがある。
無私の心は、いわば『エゴの喪失』を仏教用語にすると無私となるため、今回はそっちを使おうかなと思った次第。
最終的に善三道では、無私の心にいたること。
悪三道では、いかなることがあったとしても強い心にいたること。
善と悪の道が揃っているが、反対側では『拒絶』と『人を仇成す』という項目がある。
拒絶したいものに対して拒絶をしない心を育てること。無私の心が育つ。
人を仇成したい、やり返したいと思うときにやり返さない心を育てること。強い心が育つ。
そして、この善と悪によりツインレイはそれぞれを振り分けている。
悪の道を進む人と、善の道を進む人によるカップリングがツインレイである。
最終的に『天道』と『地獄道』にまでたどりつくことにより、ツインレイは出会う。それが拒絶であろうが、仇成す側であろうが出会う。
ここに至れば出会えるということ。心の在り方を間違えようが出会えるのである。法則性は同じだから。だけど、どのような結果を出すのかは心によって違う。
善三道側のツインレイと悪三道側のツインレイ
善三道側のツインレイは自分自身以外に対して、どのように認識するのかによって違ってくる。
拒絶する善三道の人もいるし、大事にする善三道の人もいる。
最初に書いたように、これはすべて自分の心の在り方でもあるため、自分のなかに『自分以外を拒絶する・同類だけ受け入れる』という視点と『自分以外を大事にする・博愛主義になる』という視点のふたつが生まれる。
これはツインレイの相手に出会ったときの反応である。
ツインレイの相手を拒絶するのか、また愛するのか。それは天道をどのように過ぎてきたのかによって変わってくる。
拒絶側の人は、悪三道の人たちを理解しない。嫌悪感がある。
大事側の人は、悪三道の人たちを受け入れている。人ってそういうところあるし、自分にもそう思ってしまうことってあるしね。人を許し続けている。
って感じの違いがある。
拒絶側のツインレイによる悪三道側のツインレイは『自分がしでかしたことを受け入れてほしい、責めないでほしい』と思っている。
大事側のツインレイによる悪三道側のツインレイは『自分がしでかしたことを受け入れないでほしい、責めてほしい』と思っている。
ツインレイは、拒絶する側(受け入れたくない)と責めないでほしい側(受容してほしい)、受容する側(責めたくない)と責めてほしい側(責めてほしい)の2種類があるように思う。
うまくいかないようになっている、どちらも反発し合っている。
だからこれをどうにかこうにか整えていかなきゃいけないわけである。
ツインレイは道が反転する
ツインレイのふたりは、関わると世話しないほどに心が活発化される。
相手に対して拒絶をしたり、受容をしてみたり。ほかにも、この六道をクルクルと回ってしまう。
理由は私たちが六道から抜け出せていないからとも言える。それはそこに『他者がいるから』と言える。
その他者としての存在が100%として現れてくるのが、ツインレイの相手である。
ツインレイの相手とは強烈に引き合い、それが拒絶なのか受容なのかは知らないが、もの凄く引き合い結果的に心をかき乱すことになる。
天道へいたるツインレイは、多くを受け入れる。受け入れた分だけ、地獄道へいたるツインレイへ地獄を味合わせる。許した分だけ、許せない世界を与える。(同じだけ、嫌なことと向き合い、受容するのか。我慢するのかの違い。)
しかし、受け入れなかった拒絶のツインレイは地獄道へいたるツインレイへ経験を与えない。なんなら、人を仇なしてもいいというカタチに着地する。(許せないものが同じだけの量があり、向き合わない。天道へは拒絶し、地獄道はすべてを潰す。)
サイレント期間の経験は反転する。天道と地獄道が反転を起こし、天地がひっくり返るわけである。
すると、経験が反転することになる。
無私の心を体現にまでいたると、次に強い心の経験をする。それから『拒絶』にいたるが、そのとき三門による六道からの解脱をしなければならない。それが『空』『無相』『無願』にある。
空・・・・押し付けられた他人の勝手な幻想のこと。幻想に意味はない、他人のいっている絵空事や空想、幻想に振り回されないこと。
無願・・・・人を変えることはできない、自分を変えることができる。善悪二元論はここで気づくことができる。自身に偏る善があるとき、嫌悪が生まれる。他者に嫌なところを直してほしいと願わなくなる。
無相・・・・他者と自分は同じである、差別がない。同じであるからこそ、他者を通じて見える『同じ問題』を理解することができる。この思想がある限り、他者を攻撃することはない。
三門を手に入れたツインレイ女性は、ツインレイ男性や環境に振り回されることがない。状況判断をしていくことができる。
もう一方の強い心を手に入れている側は、無私の心の経験をする。 それから『恩を捨てる』にいたる。このとき、ツインレイ男性による多くを捨て去る経験が待ち受けている。
いわば、『変化を受け入れること』である。それは自分が出来ない、悪いことだと思っていた自分を律していた心の反対側に存在している『自分が本当はどうしたかったのか』を行動に起こしていくことである。
これがツインレイ男性の『現実を動かす』ではないだろうか。
拒絶の心・人を仇成す心を生み出したツインレイたち側は今まで拒絶をし、人を仇なした結果を受け入れていかなければならない。それは心の経験をしてこなかったともいえる。
その後始末を自分でしていかなければならない。
拒絶した分だけ、それを受け入れていく作業を行い。人を仇なした分だけ、それの結果を受け入れていく作業を行う。
人のせいにし続けたもののすべてが自分のせいだったことを知る道にはいるということ。
拒絶した分だけ、人を受け入れられない、それは弱いから。人を仇なした分だけ、心が弱い。その経験を手に入れていかねばならない。
ハリボテの心の強さが拒絶と人を攻撃する能力ってこと。自分が弱いことを受け入れていく必要性がある。弱いから人を攻撃し、避けるのである。
六道の表裏一体表
表・強い心(ハリボテの弱さ) | 裏・弱い心(ハリボテの強さ) | |
---|---|---|
天道 | 人を受け入れる | 有頂天になる・拒絶する |
人間道 | 四苦八苦を受け入れる | 自分の心の苦しみから逃れようとする |
修羅道 | 時に厳しく人(自分)を正しいほうへ導こうとする | 人を自己都合による正義や道理で殴り、怒る |
畜生道 | 人は失敗をする生き物である(自他の失敗を許す) | 愚痴っては人を見下し、自分を優位にする |
餓鬼道 | 欲しいものがあるとき努力をする | 人の持っている能力などを羨み、努力をしない |
地獄道 | いかなることがあったとしても平常心を心がける | 人を苦しめ、悪意を持って害を及ぼす |
私の人生のテーマは、自己都合的な解釈で人を殴らないこと、自分の心の苦しみと向き合うこと、拒絶しないこと。だったように思う。
ツインレイのサイレント期間のテーマは、失敗を受け入れること、努力をすること、いかなることにも平常心を心がけること。かな。
自分の心の苦しみである四苦八苦から逃れようとしたとき「人のせい」が生まれる。
それが、悪意をもって害を行うことで相手へ自分の悪を押し付けること、人の努力をうらやみ努力をしない、愚痴って人を見下し自分の優位を示す、人を自己都合により(自分が傷ついたから、とか)怒り狂っては自分を正当化する、とかによって人のせいにしては自己からの責任を逃れようとしている。
すべてが人間である自分を否定していることに繋がっている。
それが人間でしょ? って思っていたんだが。整理して考えてみると、これは人じゃねえわ。人の皮をかぶった鬼だわ。
私は大きな勘違いをしていたらしい。なんだろうね、受容しすぎて、鬼の存在まで許していたのか・・・・・・。
正気の沙汰じゃねえと思っていたが、そもそも鬼の正気ならば、これが正常か。なるほど、鬼の上陸は拒否することにしよう。我が領土に鬼はいらぬ。