ツインレイと失感情症(アレキシサイミア)とHSPの関係性

2024年8月16日

| Ⓒ なとり

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ツインレイステージまとめ

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さよなら、ツインレイ Kindle版
さよなら、ツインレイ

当時はこれでおしまいなんだ・・・。そんな風に思いながら書いた『さよならツインレイ』。結果的にさよならしたのは、神交法の相手であるツインレイの霊体だった件。今更振り返って読んでみると納得がいく一冊だが、当時はよくわかっていなかった。

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なんとなく、最近、色々とこの失感情症に関するワードが増えてきたので、この一件に触れておきたいなと思う。

恋愛感情を理解できないという状況は、人々が他者に対して恋愛的な感情を抱かない、または親密な関係を築く能力が欠如していることを意味します。このような人々は、自分自身の感情を正確に把握することが困難であり、感情の鈍化や無感覚さが生じることがあります。彼らは喜びや楽しみといった感情を正確に感じることができず、何が自分にとってストレスや喜びであるのかを理解するのが難しくなります。この状況は、彼らの生活において深い意味や目的を失わせる可能性があります。

一方で、恋愛感情が不明瞭な人々が一方的に他人から好意を持たれ、結婚することもあります。しかし、このような場合、結婚は本当に愛する相手とではなく、感情的なつながりを感じない人との結婚となる可能性があります。このような状況では、結婚後に期待される幸福感や満足感は得られず、代わりに不満や不幸感が生じることがあります。結果として、関係は感情的なつながりや共感を欠くものとなり、夫婦生活における満足度は低くなる傾向があります。

引用:恋愛感情がわからない男性・女性のメカニズム | トラウマケア専門こころのえ相談室

この記事がかなりわかりやすく明確に書き連ねてくれているので、引用しているが、詳しくは当記事を読まれたし。

さて、私の姪っ子は「好きの意味がわからない」というわけで、自分の感情を理解できない子に育った。親に自分の感情を否定され続けた結果、自分の気持ちがわからない子に育ってしまったことをつい数日前に知った。

私の回答だが「まァ、そういうこともある。」という感覚だ。もはやここまでくると、感情が感じられないことに対しても善悪で審判をつけることは出来なくなった。だけれど、当人が「自分には感情のことがよくわからない」と問題視したとき、私はようやく手を差し伸べられるんだろうなと思う。

それまではほったらかしでいいかなと思っている。問題を自分で「問題だ」と自覚したとき、人はようやくそこから先へ一歩進むものだと思うからだ。当人が問題視していない時に「あなたは問題です」と言われたとしても、それを受け付けられるまでの土台が出来上がっていないんだから、それは人に嫌なこと言われたって思って終わるだけだと思うしな。

ということで、私はそういうスタンスで姪っ子と向き合っていくつもりだ。

さて、そんな感じの前振りから、じゃあ、あなたのツインレイは「好き」とか「怒り」とか。そういう者に対しての知覚はあったのか? という問いかけをしてみたとする。

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先日、こんな記事を書いただろう。

実は、彼は私のことが好きでなかった——という話だ。そしてその好きではなかったことを私のなかに内包していってしまったのだが、失感情症の人が結婚する場合「誰と結婚しても同じ」だと思われる。

いわゆる、固有の相手に対しての愛着が形成されないから「誰と結婚しても同じ」という感覚が生じるということ。

つまり、私が全という感覚を内包したという言葉は、少々きれい目にまとめただけであり、私は失感情症という病質を内包したに過ぎないとも言える。

対立して存在するのがHSPだと思っている。私は相手が泣いていると意味も解らなくても同調的に泣く人なのだが、そういった同調性のある気質をHSPと呼ぶとして定義するとき、私は感情過多の状態がHSPなのではないか? と感じている。

HSPも『異常な感情知覚』があり、これもまた病気みたいなもんだよって話。

健全ではないなと思う。なぜ、健全ではないのか? というと「この世で普通に存在することが出来ているわけではないから」である。いわゆる、自分がこの世に生まれて「なんでか知らんが苦しい」わけで、その苦しみがないことが健全だとするのであれば、HSPは確実に不健全な精神状態だと私は思う。

そして、ツインレイ。この二人は感情を失っている失感情症の人と、感情を感じすぎているHSPの人により惹きあっているのではないか? というひとつのツインレイという体系をとることができる。

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さて、私のまわりにはよく失感情症の人も知れば、HSPの人たちもいる。私はどっちも関わり合いがあるけれども、関わっていて感じることは「どっちも同じに見えている」ことだ。

失感情症の人はHSP。HSPの人は失感情症。どっちも同じことだと思っている。

失感情症の人たちは自分の感情を抑圧しているのであり、根っこにはHSPのような繊細な精神性を持っているということ。つまり、失感情症の人たちは追い詰められたり、ある程度の本質に近いトリガーを引いてしまうと「HSPの気質が浮き彫りになる」ような気がしている。

普段は温厚な人があるときのシーンでは抑圧されていた感情が爆発的に表現してきて周囲の人たちが驚いた! だなんてことも多いわけである。

 

つまり、私たちは「感情を抑圧している部分」もあれば「感情を抑圧せずに持っている部分」もあるわけで、ツインレイの場合に問題としてあげられるのは、恋情という愛着に関わる感情を抑圧されていることにより、親密な関係性が構築されていけない問題が生じることになる。

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失感情症というのは「相手の気持ちが分からない」という問題が生じることになる。

相手の気持ちが分からないというのは、自分の気持ちが抑圧され認識されていないからこそ、相手の気持ちも認識されなくなる。

つまり、失感情症の人はひたすら他人の感情を触発し続けることも可能なのである。

相手がどのように感じるのか? 相手がどのようなことに不快を示すのか? とかも、わからないと思われる。

例えばなんだが、嫉妬の意味がわからないから恋人に嫉妬させるような動きをしてしまう。相手の不快を理解しない。

理解が出来ないからやらかす。

つまりなんだが、愛着を知っている人と愛着を知らない人のカップリングは、片方は鈍感、片方は鋭敏という関係性により構成されるがゆえに、鋭敏側はひたすら傷つき続け、鈍感側はひたすら傷つけ続ける。

だけれど、鈍感側は相手を傷つけているだなんてことは知らずに「自分を傷つけないでほしい」と主張する。

自分が傷ついたということには敏感になれるんだが、相手を傷つけている事には鈍感になる。当たり前の理論だとは思うんだが、相手を傷つけている可能性にすら気づけないでいるから『鈍感』なんだよな。(自分にしか目が向かない)

だから「人を傷つけたらいけない」と言う。

そもそも自分が人を傷つけている可能性については鈍感。なんなら鋭敏の受動型からすれば、常に鈍感な人たちに傷つけられ続けたがゆえに自己破壊していく人たちにとって「自分を守り続けている人たちは理解できない」のである。

自分を守るが為に人を傷つける理由がわからない、ただ、当人たちは「傷つけられている」という被害者意識ばかりが強く、加害者意識が存在してないことがそもそもの問題なんだろうなとは思う。

同時に、鋭敏側のHSP側は、自分を守る意識がない。加害者意識があればあるだけHSP的になると思う。自分がやってしまった! と思う人はそれだけで加害者意識が刷り込まれ、罪悪感と共に自分のなかに善の意識が育っていく。

 

どっちもどっちではあるんだが、足りないものがそこにあるという考え方が生まれる。

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失感情症は「自分を守る力」があるが、HSPは「人を守る力」がある。どっちも重要。

失感情症は「他人を傷つける鈍感さ」があるが、HSPは「他人を察する鋭敏さ」がある。

ツインレイの関係性においても、失感情症側は「ツインレイの相手を無自覚に傷つけ続ける」のだが、いささか人を傷つけていることに気づいていく経緯なのではないか? と思う。

自分がまさか人を傷つけているだなんて1mmも感じていないんだと思う。だって感情を感じられないから。

HSP側は「ツインレイの相手に傷つけられ続ける」わけなんだが、さすがにこちらは自覚がなされている。こちらが被害者意識を持ったとき、ようやく失感情症側は加害者意識に気づくのではないか? と思う。

ツインレイは盲点なのではないか? と考えている。自分の見えていない部分を教えてくれる。

 

どっちが正しいというわけではないし、どっちが間違えているというわけではない。

どちらも重要である。

自分を守る力も大切だし、他人を守る力も大切。あるときは鈍感さも必要だし、あるときは鋭敏さも必要だと思う。

親密性も大事だし、同じ分だけ、分離的な感覚を持った距離感のある関係性も大事なのではないか? と思う。

社会的アイデンティティは親密さよりも感情的な分離感覚の方が重要だから。

 

ツインレイは偏っているからこそ惹きあうのだと思う。

また、その偏っている内容が『傷ついていること』により生じていることが問題としてあげられる。

ふたりの関係性がどちらも同じテーマに対しての傷を背負い、その傷に対して『自分を守る』または『自分を守らない』というカタチで反射が起きることになる。

自分を守るようになる人たちは、自分のなかに愛着関係のないアイデンティティを構築する。未熟な自分軸の構成。

自分を守らない人たちは、自分のなかに未熟な愛着関係のあるアイデンティティを構築する。未熟な自他軸の構成。

結局のところ、未熟であることには違いないのだが、先ずは未熟なものを形成し、次に未熟さゆえに成長させていくことで「一先ずの完全性」といったところのアイデンティティが構成されるのではないか? と考える。

そのためには相手のことを受容せねばならない。

相手がどのように感じていたのかを知らねばならないのだと思う。

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そして、鋭敏なHSP側は「自分が好かれているわけでない、誰でも同じ」という視点を内包する必要性がある。(ツインレイは別に自分が好きだったわけではない、自分も誰でも同じ感情排他視点を取り入れ、社会的アイデンティティを構築する)

鈍感な失感情症側は「誰かを特別視する感覚、誰でも同じではない」という視点を内包する必要性がある。(ツインレイは自分のことが一番に特別である、自分も誰かが特別である視点を取り入れ、個人的アイデンティティを構築する)

つまり、自分のなかに今までは存在していなかった感情を認めていく必要性がある。

私からすると「好きな人に別に好かれているわけではない視点」を受け入れることのほうが自己破滅レベルで辛いことだとは思うんだが、失感情症側も同じように「どうでもいいジャガイモにとって自分は特別である視点」は同じぐらいに自己破滅レベルで辛いことだと思う。

ちょっと理解されがたいかなと思うので、失感情症側の感覚を書いておくと。

誰かにとって自分は特別であるとは、特に好きでもない人からのとてつもない執着を受け入れることにある。

私がツインレイの彼のことをこのブログで書き続けてきたわけなんだが、この内容を「別に好きでもない」という私から書かれ続けることはものすごい苦痛なんじゃないかな? と思う。

そもそも、失感情症になる理由だが、大元に、強い親からの執着を受けているからこその苦しみを知っているわけで、支配されたくないわけである。

自分に固執されることは、自分の自由を奪われるという思い込みがここにはある。(全くもってブログで分析しているだけでも、支配や執着を感じて避けたくなるんじゃないかな? そういう思い込み)

実際、これは自分に固執されているわけではなく、自分に愛情を示されている状態なんだが、その愛情に対しての認知のゆがみが生じているとき「愛情」ではなく「執着」として認識される。

いわゆる、執着と愛情の違いがよくわかってないって感じ。相手を100%誤解できるからこそ、執着を持っている人を選びやすく、愛情を持っている人は避けるような仕組みが生じる。

理由だが、インナーチャイルドそのものは執着を愛情だと認識しているから。

そして、不健全な執着される関係を構築する相手と恋愛をすることになる。そうなってしまうんだよな。理論上。

 

ただ、大事なのは失感情症の人たちは、確実に「相手に執着している」と思う。

ツインレイへ愛情をもって接していると思っているかもしれないんだが、根底には自らのなかに潜む執着している自分や粘着質な自分の気質を否定し続けているのではないかと思う。

向き合わなければならないのは、相手を投影して視えている自己にある。

誰が好きなのかがわからない、誰に恋に落ちているのかがわからない。いや、わかっているんだと思うよ。でもさ、それを認めてしまったら何かが破壊されるような感覚がするのではないかと思う。

この自分が他人に執着し、恨みを抱えているだと!?

いやいや、人間ですから。健全だと思いますよ、それが。

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私が言いたいのは、感情がないと思っている人こそ、ものすごいデカい『執着』『独占欲』『憎しみ』『恨み』を抱えている可能性がある。

ネチネチして、ドロドロしてさ。目も当てられないほどの「悪い感情」みたいなものから目を逸らしたい。おきれいな人間でいたい。

でも、もうそこに「ある」わけで。なかったことになんて出来ないんだよな。

逆にHSPの感情過多だと思っている人たちも気づいていくべきだと思う。

執着してないし、独占したいわけではないし、憎んでもいないし、恨みもないこと。

実は相手に対して「なんにも感じて無かったっしょ?」ってこと。

自分は薄汚れたドブネズミみたいな感覚があったかもしれないけれど、全くもって『何も感じていない人』だったでしょ。

その感情はどこで「教えてもらった」の? そもそも感情は教えられるものではないと思うんだけどな。

感情を感じることは悪いことではないし、感情がないことも悪いことではない。

 

実に今、私は、レイキで100%の同調的感覚を持っているけれど、現実的に普通に生きているときに、他者に対しての同調性は0%になっている。

今まで手に取るようにわかっていた人の気持ちが一切わからなくなったけれど、楽だなと感じている。

失感情症側の人たちは「感情を感じることが楽になる」はずだと思う。感情がある方が楽だと思う。

抑圧は苦しみだし、ないものをあると思い込んでいることも苦しいことだしな。

ないからあるし、あるからなくしたんだよ。

ないもんはないし、あるものはあるんだよ。ものすごく当たり前のことなんだけれど、なかなか難しい理解だと思う。

与えられた感情は「ない」し、自ら発生した感情は「ある」んだよな。

HSPは与えられた感情や教えられた感情が多い。だから、感情的知覚も勘違いが多いと思う。

失感情症は、自分の感情を持っているけれど抑圧している。だから、相手の気持ちはまるでわかっとらんと思う。自分の傷ついたってことしかわからん。だけど「傷ついた」なんて感情はあるんかね?

つまりなんだが「自分の妄想と現実はわけて考えたほうがいい」わけである。

自分の当たり前は異常である可能性があるってこと。異常的な感覚を持っていて、自分の異常的な視点で他者を分析したとき、異常的な見解でしか相手を理解することができない。

ねじ曲がった世界に生きているとき、相手を正確に理解できるのか? ということだ。

でも人って「自分が間違っている」ということに視点が生きにくい。自分が間違った世界に生きていて、自分が間違った自己形成をしているとは思っていない(自己正当化したい)から、認知のゆがみが生じる。

歪んだレンズのメガネをかけ続けていれば、それが当たり前にある。自分のメガネがおかしかったことに気づくのは「眼鏡をはずした後」である。

眼鏡をはずすコツはある。

愛せよ。自分とはまるで違う世界の人を愛せよ。自分とは相いれない世界を愛せよ。そのとき私たちは眼鏡をはずすから。

相手も歪みがあり、自分にも歪みがある。

HSP