ツインレイへの一切の執着を捨て去ること
めちゃくちゃわかりやすい執着とは何か、仏の悟りとは何か——についてが書かれているものがあったので、掲載させていただこうかなと思った。
そもそもなのですが。そもそも私たち人間たちのなかには「元々他人には執着をしない」人たちもいるのです。
しかし、ツインレイの多くが「異性への執着」を持っているのである。
執着とは苦しみなんだよな。あなたのなかにある苦しみをとりたい。しかし、執着することで苦しんでいない人もいるのです。
たとえば、私がブログを書き続けることはある角度からは執着のように見えるようなんですが、特に私はブログを書くことに苦痛を感じたことはないのです。
苦しみとは千差万別にあり、執着を手放したい——と一概に言えども、好きなものまで手放せだなんてことは言ってはいないのです。
ただ「執着とは何か——」については知ってみるべきなのかもしれない。
ツインレイの女性の方々のなかのほとんどが「異性への執着」により苦しみが生まれ、その苦しみの中をもがいている。
その執着の意味の根源を、あなたはよく理解しなければならないのかもしれない。
どうしてその異性へ執着をしてしまうのか——の本質的部分には「子供が産みたい」という女性の本能的な欲求が隠れているときがあります。
母になる器とは「空っぽ」にある。
あなたのなかに何もないから、母となれるのです。子供のことばかりが気にかかるような時期、母という重要な立場に役割を担うためにあなたは空っぽのまま生まれてきた。
だからこそ、あなたは執着をしてしまう可能性がある。
あなたは異性へどうして執着をしてしまうのかの理由を「無価値観」として捉えているかもしれない。
それは「子供を未だ産めていないこと」にある。そこに無価値感を覚えているのは、女性として正常な感覚なのです。
私たちの中でも「執着があるけれど結婚できる人」とかもいるけれど、ツインレイの場合は「異性への執着が弊害になってうまくいかない人」のほうが多い。
この執着そのものの根源は「子供を産めていない自分」の可能性がある。
母の器はそもそも無価値として生まれてきている。理由はあなたに価値があれば子供をこの世に授けることがないからです。
この世にあなたが求められてしまえば、あなたは子供を産む決意が出来ない可能性がある。その可能性があるからこそ、母の道を歩む人たちは無価値として生まれてきているのである。
母の器が空っぽなのをまずは理解してほしいのです。あなたに価値がないことは最高の母になる条件となっていることを。
あなたのなかに存在している無価値を受け入れなければと思うとき、価値ある自分を求めるのではなく、無価値観は「母の器」として必要なものなのだと理解してみてほしいのです。
あなたはきっと目の前に「自分よりも価値ある人」がいるとき、苦しみを感じるでしょう。
その苦しみこそが「自分の無価値を受け入れられていない証拠」にあるのです。自分よりも価値ある人を陥れたいと躍起になってみたりなどもしてみるのかもしれない。
だけど、無価値ではない人には無価値ではない道があるように、無価値である人には無価値である人の道がある。
それぞれの道をまっすぐに歩くには「自分の心の特性」をよく理解してみる必要性があるかもしれない。
多くの女性が価値あるものを持っている人に対して妬みを持つときがある。それは母の器になる人の裏側にあたるのです。
母の器の裏側は「自分よりも何かを持っている人が羨ましい」と思う心にある。
その羨ましい心を「嫉妬」と呼ぶのです。その嫉妬の心を捨てていくことがツインレイとも考えられますが、大事なのは嫉妬を手放すことではなく、無価値である自分を認めていく、母になる自分の人生を認めていくことにあります。
それが最終的には嫉妬を手放し、よき子供を産む、母となるのです。
隣の子と自分の子の違いを比較しては嫉妬し、自分の子を「当人の等身大以上」を求めるような母にならないということです。
だから、あなたの心にある無価値観を肯定していくことは、子供をそのままの姿で育てるために必要なことなのです。
あなたが将来何になっていくのかの道が「母」という道にあるとき、あなたは根底にある無価値に向き合います。しかし、無価値は常にあなたが誰かよりも勝らなければならない闘志となって「男」のように振舞うことがあります。
母とは何も持っておらず、だからこそ、母の器です。あなたの人生に、母になることが含まれているのであれば、あなたはあなたの無価値を大事に育てていかなければなりません。
母に価値などいりません。あなたは価値がないから母になっていけるのです。
無価値である自分を受け入れてください。母になるあなたが愛される条件など何もいらないのです。
母性とは無価値の先に越えて存在しています。無価値だからこそ手に入れることができる幸福の形があります。
そしていつか、あなたを捨てていくだろう我が子を受け止めるために、あなたは無価値を肯定しなければならないのです。
隣の家の子に赤ちゃんが生まれてきました(o^―^o)ニコ
なんと! このタイミングか~と思いました。
手放しって「自分のなかにある邪な感情を認識すること」です。認識してしまえば、そのまま手放す方向性へ向かいます。
あなたは自分のなかに「自分が苦しんでいる感情」があるのであれば、根っこに「どんな欲求があるのか」を理解していくことで、執着は手放せていきます。
「ツインレイへの執着」ではなく、私の場合「あの時間には戻れない事実」が悲しくて、その悲しかった記憶がツインレイへの執着となっていたような気がします。
「時間」なんです。時間への執着なんです。
そのときそのとき、後悔をしないように生きてきました。それは「今への執着」になっていく。とても潔い人生だったような気がします。
ずっと私は後悔している時間があるのです。取り戻せない時間が存在していることを知っている。私たちは時間を巻き戻すことができないのです。
だけれども、そんなことはないのだなァと思いました。時間は取り戻せるんですね。
今は無理かもしれない。だけど、未来はわからない。そして、過去の時間も取り戻せるんです。
私にとってツインレイとは「時間」が課題でもありました。
なるべく後悔しないように生きることが大事だと思い、私は時間を大切にして生きてきました。
だけど、時間ではない大切なものもあります。それは「今」でもないし「未来」でもないんです。
「絆」です。いっしょにいたい人といっしょにいる時間に意味を持たせることです。
私は常に「ふたつ」を理解します。ひとつは私としての理解、ひとつは彼としての理解です。
本質は同じ課題ですが、結論は真逆にあります。その結論を「ひとつ」に纏めていきます。
時間は重要ではありません、いつだって取り戻せる。しかし、絆のためには時間が大事なのです。
なにに時間を割くのかは自由です。あなたは常に選択の自由を与えられている。
そして、相手がどのように「時間」について捉えているのかは別なのです。
後悔しない生き方は必ず後悔します。繋がっているのです。
すべてはうまくいかないように設計されています。だからうまくいくようになるのです。
私のツインレイは「時間が取り戻せない」と「絆が取り戻せない」というツインレイです。
時間は取り戻せるし、絆も取り戻せるのです。それを理解していくために、私たちは出会っているのです。
ふたりは後悔したくなかっただけ。それだけ誠実でした。
後悔してもよかったんです、それ以上に大事なものがありました。
自分のこと以上に、大事なものがそこにはありました。
なとりはフルスロットル・ハイパーになった。
いかなるカタチに執着が眠っているのかはわかりません。
だけど、あなたは何か後悔していることがあるのかもしれません。だから執着をしてしまうのです。その執着はいつもあなたを苦しめることになるけれど、大きな経験ともなり、苦しみの克服は悟りをひとつ与えられる。
苦しみから逃げることに長けている人もいます。そうですね、人のせいにしておくことは、ひとつは幸福のカタチでもあるのです。
しかし、人のせいにすることができない人もいるのです。
苦しみを苦しみとも感じていない人もいるのです。私はひたすら書き続けていますが、これはもはや「息をするレベル」で私は書いているのです。
苦しみから逃げることができない人もいる。そういう人もいて当たり前なんです。できる人もいればできない人もいる。
だから苦しみから逃れるために、どう生きるのかを私たちは考えていく知的生命体なのです。
仏教は心理学だよといったお坊さんがいました。そういうことかと思います。