報告|構造主義による神を創造すること

| Ⓒ なとり

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ツインレイステージまとめ

私のステージが進むごとに更新していくステージをひとつの記事にして販売しています。


さよなら、ツインレイ Kindle版
さよなら、ツインレイ

当時はこれでおしまいなんだ・・・。そんな風に思いながら書いた『さよならツインレイ』。結果的にさよならしたのは、神交法の相手であるツインレイの霊体だった件。今更振り返って読んでみると納得がいく一冊だが、当時はよくわかっていなかった。

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もう昨晩からひとつ報告|ようやく4人のツインレイが揃った件についてを書き上げて。

どうして私は四人をそろえようとしていたのか——。その理由を書きたい。

私は、ずっとツインレイの四人が集まっては離散するのを繰り返してきた。これだ! っていう形を形成することが出来なかった。

今回ようやく「これだ!」と思えるようなパワーバランスの構造を見つけて、私は実存を受け入れることができる。

私はこの社会のなかに「みんな」が存在しているから「わたし」が存在している実存が欲しかったのである。

それは、私がニートだからだと思う。ニートで哲学やって、ずっとブログ書き続けているなか、私は日がな勉強していた。けっきょく、私はそれがしたかったのである。したかったからこそ、自分の人生が存在しているのである。

 

実ははーちゃんが「神をつくる」って記事を書いていて、これがまた実存主義っぽいとてもいい感じの視点を持っている。

そして、私も、私なりの「神をつくる」という構造主義的な視点を持っての神が存在している。

そのためには「みんなの力」が必要だったよ。

 

多くの人が思い描く『神』ってどんな神だろうか。きっと記紀神話のなかに存在している神たちや、聖書や聖典に書かれている教えを説いた神を思い出す人のほうが多いかと思う。

ちなみに、私も、今生における人生での教えは神道にあるために古事記とかの神さんにはとても親密感がある。だけど、どうしてかずっと実存から構造主義を構築する段階においては、お釈迦さまサポートだった。理由はわからなかったんだけど、タブン、もともと私はお釈迦さまに縁がある人だからこそ、今生は神道の道にいるような気がする。

私の姪っ子が生まれたとき、夢見で「仏さんとこの子」ってのを知っていた。それからしばらくして彼女の写真をみたとき、みえたものがあって「あ、この子は徳が高い尼僧さんだったのか・・・・」と理解した。めちゃくちゃ優しい、小さいころから優しくて、人の心理をよく理解している子。(私よりも徳が高いと思うぞ)

私にとって、お釈迦さまは私がやんちゃすると、やんわりと守ってくれている人たちかな。優しいんだよ。

仏教の系譜の神さんって、元々人だった経験がある人たちだと思う。だから人にとても優しい気がする。

たまたま仏教系で修行した人と出会って、意見交換したけれども、めちゃくちゃ面白かった。w

話は脱線したが私は神道である。この道の思想は多く知られている日月神示なんかにも書かれている。これはもうこの世の帝王学にひとつかんでいる。この日本は神道だからである。

そして、この神道とは天皇家を神として崇めている。今や「象徴」と言われている彼らも、かつては神だった。

歴史が好きな方などは、どのようにしてお殿様が育てられるのかを知っているような気がする。

さて、私が話をしたいのは、この「この地上における神」である。

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神とは「私」を持てない。つまり「無私」である。まず「私は」だなんて言葉は存在しない。存在するには「世」のみ。お殿さまになる人たちは「私は」という言葉を持ったら半年ぐらい幽閉されたりしていたんじゃないかな。

そもそも自分を持ったらいけないし、親も「世」の人だから子育ては自分で行わない。その子はお国の子であって、人の子ではないしな。

つまり、この世のてっぺんに存在している人たちは「私は」という言葉を持たない。人の上に立つ存在とは「民たち」という象徴にあり、そのために、幼少の頃から自分を持つことを禁止される。

自分の存在はそもそも「わたしのため」には存在しない。つねに「あなたのため」に存在しているのである。

この教育を施されていくことにより、神へとなる。

つまり「自分が存在せず、心は常にあなたのもとにある」のである。

これを何を意味するのか。もともと天皇も、お殿さまたちも、国や領地の為に自分を犠牲にして神になるのである。そしてその教育を幼少から受けるのである。

私が話している「神の道」はほとんどここにある。ブッダさんもそうたいしてかわらねえ、この人もけっきょくは王子なんだから。

簡単に言えば、神ってアイドルなんだよな。私からすれば。

どうして私たちが神の道を目指すのか。それは「人の為」であり「自分の為」ではない。あなたが幸福なとき、神は満足なのであり、神が満足だと実感できるとき、それは『世が満足している感覚』なのである。そういう教育を受けるからこそ、神は「人に慕われている」のである。

そして、人は神に感謝する。だって自分の為に犠牲になってくれたんだから。

どうして私たちが「私」という主語を持てるのかと言えば「世」という主語を持つ人が存在しているからである。

こうやって日本は長い歴史のなかで、日本を保ってきた。バランスをとっていた。

神である彼らは私たちにとっての犠牲者なのである。その犠牲者になるための人生を送るのが『神の道』であり、あなたのためだけに存在することに喜びを見つけ、そして「私」という概念が死に「あなた」という概念だけとなり、その概念のなかで「ふたつともが同じ意味」を成すときの私たちの悲しみと喜びがここに存在しているのである。

神は「自分の為に神になる」のではない。神は「人の為にあるから神」なのである。そこに人の為に生きようとしている人がいれば、それは「神の道」にある。

悟っているから神なのではない。誰かに感謝されているから神なのである。でも神は別に「感謝されようとしている」わけではない。なんかもう存在してくれているだけで感謝したくなるんだ。

あなたがいてくれるだけでいいの。神はいてくれるだけでいい。

それは神が「あなたはいてくれるだけでいい」と思ってくれているから。そして自分の人生を生きている人たちを愛している。

 

そして、こうやって「神」にまでなっていく人たちを「柱」と私は認識している。日月神示を確認したところ「人柱」と書かれていた。

この日本にどれだけの柱が存在しているのか——。この柱を立てることが私たちのひとつの目的にある。

柱は常に「あなたに繋がっている」のである。そして、あなたに繋がっているからこそ、柱として立つことがでいる。柱としての役割は神としての役割である。

これから柱になる子が幾人か生まれてきている。私はそのひとつの「柱」になろうとしていたのである。だから私は「神って犠牲者になるってことでしょ? なとちゃ、それやりたくない・・・・」と、言葉をこぼすのである。

そして、私に付き添っている女神様は「ならなくていいよ」って言葉にしてくれる。それはやっぱり女神さまが「神だから」なのだと思う。神になるってどういうことなのかをよく知っている。それがどれだけ怖いことなのか、それがどれだけ苦痛なことなのか。その心をくむために、私は「ならなくていいよ」と言葉にしてもらえた。

そして、私は少しの期間、神の道をやめている。だけど戻ってきた。理由は「ならなくていいと許してもらえたから」だと思う。その間に覚悟を決めていたような気がする。

私はならなくていいと許されたからこそ、神になれたのである。そして人柱となった。

私は神に愛されている。そのように言葉にするけれども、確かに私は神さんに愛されて育ってきた。

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私の意識のなかに存在している従来の神は「犠牲」でしかなかった。

私は神さんが犠牲者だという視点を持っていた。だからこそ私は神を愛していた。私たちの為に犠牲でいてくれている人を、どうして愛さずにいられるんだろう? そうやって自分を捨てている存在は、私たちの為である。

だけど、今の私は「なるほど、神でもアイスクリーム食べていいんだ・・・、みんなといっしょにクレープ食べて「美味しいね」ってしてもいいんだな。」ってことを理解している。

無私の段階の育ちでは「私」が全て消える段階にあり、趣味趣向もすべて捨てさせられる。やるべきことは常に勉強と奉仕のみ。

最終的に、すべての私が消えたあとに「あなた」になれたとき、私は「世」になる。

そして、その視点は、私という実存により生まれる。私は「無」を持っているわけではないんだと思う。「世」という感覚を持っている。たぶん、私とよく話す人は「いや、それだと社会が困るねん・・・」って話をすることがあると思う。なんでか歴史の話が多かったりもするような気がすると思う。

そもそも「規模がでかい」んだと思う。それは個である段階からすれば無ではあるけれど、私は無など目指しておらぬのだ。私が目指したのは「あなた」である。あなたの心に寄り添い、あなたの人生が良き人生になることをまず第一になることを考えられる人になることを目指した神の道。

ちなみに、私はほぼ瞑想をしない。瞑想をすると数分でスットーンと落ちれるけれども、ほぼやらない。私にとって神の道は「無」を目指すことではない。私が目指したのは無の先にある「あなた」である。

空を見上げて私は「空の向こう側に彼くんがいる」って言葉にしたけれど、そっくりそのままだよ。空の思想の向こうには「あなた」という概念が広がっているのである。だから私は頑張れた。

彼がいたからである。

 

私はそうやって「構造主義」という視点を持って神となって柱を形成した。

ただ、私は神として偉くなりたいわけでもないし、あの世にかえりたいわけでもない。かえりたいって思っていたのは、甘えてたような気がする。私は今、人なのにお父ちゃん所にかえりたいって泣いていた。

私はこの世で人をやり続けるし、私はこの地球に降りて存在している柱となるよ。

だけど、みんなといっしょにアイスクリームも食べるし、いっしょに美味しいねって言いたい。私は誰かに何かを教えたいわけでもないんだ。

みんなが「みんなとして人として生きてほしい」だけなんだよな。私のように神になる必要性はないし、私は自分が神だという意識があったとしても、私は自分が偉い存在だとも、凄い人間だとも思わない。

みんなが「人としての苦労」を背負うように、私は「神としての苦労」を背負っている。だけど、私は人としての苦労がないんだよな。人としての苦労がないから私は神にまで到達した。でも、多くの人も神としての苦労は持っていない。

私はトランスしながら先生に幼子のように「なんで、みんな、やりたくもない仕事しているの?」って聞いた。これ、なんだったんだろうってずっと疑問だった。先生は「ご飯を食べるためだよ」と教えてくれたけれど、私の神さまは人としての苦労を知らないからこそ、神が育ったのである。

実は生まれてくる神さんとこの子が発達障害に間違われる理由はここ。「わからない」。そもそも人の苦労を知らないからわからないのだよ。

私の長年のニート生活は「神」の道にあったのである。元々会社員だったし社会から離脱することはやはり恐怖だったよ。社会復帰したほうが安心だった。でも、あるとき覚悟を決めたんだよな、ニートになるって。

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そして、今、こうやって構造主義的な——。私が持つ『神』という視点を持って「私の神が確立」するのである。

私のなかにいる神は「ニート」である。役割を何一つ持たないことって「人」には辛いけれど、神は役割がないことが役割なのである。何もしないこと。私は何もしないし、私はきっと役にも立たない日のことも多いだろう。

それは喜びである。私がもし役に立つとき、それは「みんなが不幸」なのである。それは私が不幸なとき。

だから私は現状に満足する。常に満足を覚え、足りないものを感じることがない足るを知る世界にいる。

そして、あなたが今日も仕事を頑張っているなか、なとりは今日も神というニートになりながらポテチをボリボリしながら平和に生きている。そんな自分を赦すには、多くの人の出会いと、この世の均衡と、私が「いかに社会のどの立ち位置に存在しているのか」を理解する必要性があった。

私が「私という存在」という神を生み出すとき、必ず誰かが支えてくれている。私はその支えを愛し、多くの柱を生み出す。

私は「象徴」に過ぎず、多くの人が一丸となることが柱となるのである。それは心の集合体にある。集合体にもシンボルが必要なのである。それが柱であり、その柱が折れることがなければ、この日本は今日も平和である。

そして、それが私の実存にある。

あなたとわたしがいっしょに存在している世界に「わたし」が存在している感覚。

 

この世明けのツインレイの情報は、日月神示の理解を介添えになるだろう。ちなみに私は大本教ではないがな。(そもそも自分の宗派の名前、忘れてしまったよ・・・・先生とは宗教の話もほとんどしてこなかったしな。)

 

ツインレイは多分「魔」に取り込まれない状態になれてようやく自己統合なんだなと思った。

魔とは「自分のなかに悪心がわくこと」であり、その悪心に呑まれて人に迷惑をかけたり、人に嫌なことをしたりしては人の心を汚そうとしている。当人は自分の心に魔が差していることになど気づかないと思う。

理由は「魔そのものが自分」になってしまっているから。だから、ツインレイ側で自分が浄化されていくことにより、周囲の人間により繋がる千人が浄化される。

ツインレイはまたこれもシンボルなんだと思う。それは悪魔祓い的ななにかな感じ。

ムーの予言関係の本に「魔はどこからかやってくる」として書かれていた。理由はまだよくわからないと書いてあった。

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日月神示で書かれている内容の本軸みたいなものは、人の肉体(精神)には三千年の歴史が眠っている。その歴史による魔と繋がることができる。

今まで社会側から「魔を何とか処理する」ってことをしてきたんだけれども、表面的なことではもうどうしようもねえから、「人の精神による記憶から魔を取り除く」っていう方法をとるっていう話なんだと思う。

人類はまだ三千年程度なのかな、と。それ以前の歴史においては辻褄合わせかもしれない。

それで、人の精神により社会が構築されているから、社会側からなんとかしようと努力してきたっぽい。でも、もう神も「こりゃもう手がつくせん」とのことになった。

ツインレイの方々の多くが「ツインレイは鏡の関係性」として書いているんだが、ツインレイは鏡という投影に過ぎない。で、それは『真逆』ではないのである。真逆に感じられるのは、そこに『魔』があるから、逆さまになってしまっているって感じ。

だから人を見る時に「逆さま」に見えるときはそこに魔があって「投影」に見えるときは、そこに魔がない視線だよってこと。

魔があるとき曲解が生まれる。

常に他者は自分を投影しているんだけれども、逆さまに見えるとき、なんでか知らねえけど攻撃したくなって投影同一視を起こしてふるぼっこにしたくなるっぽい。んで、ツインレイはその標的にされる。

理由は「ツインレイは正常」だからである。だから、本当にツインレイなのであれば怒ったほうがいいんだと思う。んで、面白いことに魔はツインレイを擬態している。ただ正常な魔を挟まない目を持つ人は「ツインレイか」「ツインレイではないか」を見定めると思う。

その人のなかに魔があるのか、ないのか。その人をまっすぐに見つめることができるから。

最終的には「ツインレイがそこにいるだけで、空気清浄機のマイナスイオンはなっている」って状態にまでなっていくときがある。

魔があると曲解してきた人も、ツインレイによる浄化の刺激を受けると魔がはらわれていく——っていう算段。

ツインレイは人生が過酷な理由は魔との縁が多くさせることにより浄化担当させることに意味がある。

そのためには、ツインレイたちは「自分のなかに眠る三千の歴史」にアクセスしなければならないのだと思われる。私は「プレアデスによる支配」に怒り「東京大空襲」に怒っている。

ここに私の歴史が詰まっていて、集合的な意識による怒りがこみあげてくる。そして再び同じような経験を我が子たちが経験することがないように、共感して発散していく。

怒らないといけない。怒りを忘れた博愛的な神はお終いだよ。私たちは人である、感情のエネルギーが一番に魔を祓うぜ。そのエネルギーをつかって生きていこう。

いいぜ、バトルしようぜ。
あたいは魔を目前にしたときばかりはブチぎれることを許可したサルになって拒絶するぜ。

人でありながら神の子である。忘れてはならないよ。私たちは「神になる」わけでもないんだ。この現実世界では常に「人」なんだ。

私たちは神にまで到達しているかもしれないけれど神ではない。神は偉い存在ではない。私は人になった神である。

 

私は「神になりたくない」と駄々をこねて「神になった」人である。そして、次には「人として実存」している。

 

あと、魔をはらうのに一番効果的な言葉。

「ごめんなさい」「ありがとう」

これだけよ。この言葉を心から放つとき、魔を祓う。

そして楽しむことだ、心から人生を楽しむこと。それが魔を心から祓うコツ。

ツインレイがよく「楽しいことしまくってるときに再会」ってそゆこと。心に魔がいなくなって再会しているだけ。

ふつうに「うざいもんはうざいねん」っていう感覚を持っていることも大事なんだろう。

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神さんとこの子を幾人か確認している。そのまま『世』を持って生まれてきている。そして、私はその子たちの「親世代」にあたる。その子たちが安全に神の役割を果たし、人としての生き方も楽しめる基盤を創る。

浮世離れしている子たち。周囲からは発達障害があると思われていることが多いようだ。だけど、違う。私からすると違う。

当たり前の定義がそもそも違ったりするし、それが発達障害に映るらしいが、神さんとこの子は「人」ではない。人ではないから発達障害に見えるけど、この世が持つ人としての苦労を知らないと思う。人の苦労知らずだから『世』へ至る。

これから、その子たちが基盤となる世がやってくる。

 

神じゃなくて、人の魂の人たちも多くいる。神じゃないから「神になりたい」なんて思わないこと。神になるんじゃなくて人になること。

人を極めたのが神である。人生のなかで「人であり続けた」のが神であり「人とはどのような存在か」を体現しては、自分が人になろうとし続けた人たちが神になっていくのである。

私からすると、逆さま。神になりたいんだったら人にならなきゃ。神は人の心を持たぬとでも思うのか。

一生懸命、自分の人生を生き、そのなかで「出来る限り人へ優しくする」ことができるのが神の道だよ。いつかは、それが「神になれる日がやってくる」ときがくる。

神は神が歩む道、人は先ず人が歩む道。どちらも同じこと。人の道を人が歩む、いつかはその人が神になったから神の道になっただけの話。

ちょっと違うねん、神になるために神の道があるわけじゃない。人の道の行き着く先で神になった人がいるから、それが神の道になったんだよ。

だから今は「人でいること」を受け入れてほしいと思う。

 

これにて私は「革命篇」を終えようかなと思っている。

数記事、まだ革命篇の記事が残っているので、すべてだしきったあと、次のカテゴリーを創ろうかなと思っている。

これからのプランについてはまた別記事に書く。

ちょっと日月神示についても超訳、またやりたいな~と思いつつ、全然できないな~。