ツインレイの反抗期から大人へ——父なる天と母なる大地へ私たちがなるとき。
私たちはツインレイを通して『魂の成長期』を迎えている。
この段階においては、青年期という段階の魂の人たちが『社会人』という段階の魂へと変貌を遂げていく段階にある。
思春期の魂たちは結婚や恋愛をなんなくすましていくような。ある種、この地球では絶頂期のような人たちの魂。
しかし、青年期の魂にもなってくると、自分に思うとおりにならないような状態へとなっていく。
理由は『反抗期』にある。
思春期の魂より以前は、父や母に対しての従順さがあるけれど、青年期に差し掛かる魂は父や母に反抗し、なんとか大人になっていこうとする魂たちゆえに「自分の人生をかけての犯行」をするようになる。
人生をかけて反抗をするとどうなるのか。私たちの人生は「最悪な状態」になる。もっとも自分の望みはなにも叶わないような状態で突き進んでいくために、現実で生きている私たちはうつ状態になったりもするし、問題が多く浮き彫りになったりもする。
父と母に対しての反抗期を迎えると、父を否定する、母を否定する——。そのような状態になるかと思う。
これを魂レベルで行えば、私たちは『自分の人生を絶対的な不幸にすること』により、父と母への反抗を遂げるのである。
魂の成長過程について
魂の成長過程についてである。
まず、私たちは『父から生まれる』ことになる。つまり、タツノオトシゴと同じようなメカニズムにより私たちは産まれてくる。
ゆえに、父の母体の中にいたときの記憶が、私にとっては一番の古い記憶であり、また父がいかに優しく、いかに私たちの幸福を願い、いかに愛してくれているのかを知っている。
次に私たちはこの地球へやってくる。この地球では、母が担当している『罪の世界』である。
罪の世界で、私たちは罪を許されながら生きることになり、これが母の優しさにある。いかなる罪であれども、地球の母は赦し、受け入れてくれている。これが自然であり、母なる大地であり、母という偉大さにある。
こうやって生まれてきた私たちは、幼稚園生あたりは「父と母に従順」であり、小学生あたりは「父と母から少し離れて恋愛をする」状態にあり、中学生あたりにはいれば「父と母への反抗期」が始まっていく。
この反抗期の段階から、社会へと繰り出していく段階の私たちは、父への感謝と母への感謝を思い出さなければならない。
それは実の両親を投影しながら、大人になっていくのである。
魂の反抗期とは
魂の反抗期は単純に『神なる父への反抗期』と『神なる母への反抗期』の2種類存在している。
父神への反抗を私は「お父ちゃんがあたいのことをコントロールしてくる!」ってことに激怒して「お父ちゃん、大嫌い!」と神に対してブチギレることにより訪れた。
いかなることにおいても、父であるお父ちゃんが私の自由意思を拒否し、私を道徳の道へと向かわせる。この意識が毛頭「嫌になる」わけである。いわゆる、魂としての自由を求め、父神である父がいつも私を正しい道へと誘おうとしていくことが私は嫌になっていたのだ。
嫌だ! という主張と共に、私は「父神から生まれたシーン」を思い出すわけで。なんとなく、父に愛されていたことを思いだすのである。
なぜ、私たちが悪いことをしたとき罪悪感を感じるのか。それは父神が魂が悪い方向性へ向かわないように——と私たちを悪い方向性へ向かわないために備え付けた意識にある。
多くのメカニズムは父神により「この子が良い方向性へ進むように」として父によりコントロールされていたことを理解し、私はようやく『父を肯定する』ことができるようになった。
最近ようやく『母神からの自立』の道を進んでいる私は、母が私に教えてくれている罪とは何か——を理解するタイミングにきている理由は、母がいかに偉大かを知ることにある。
私自身「罪はいけないこと」と教えられている段階の魂を抜け、今度は私たちが「母神と同じような大人」になったいかなければならない。
母神とは、いかなる罪をも受け入れている存在にあり、いかなる罪をも受け取り、その罪そのものを丸ごと愛してくれているのが母である。
魂の反抗期『自分の人生をかけて復讐をすること』
たとえば、私たちが不幸になることは、父神も母神も望んでいるわけではないが、それでも私たちは父と母に対して復讐心が湧き上がることがある。
そんなとき、父神と母神に対して『自分の人生をかけて復讐をする』だなんてこともあるわけなんだが、それ以上に、魂レベルで復讐をしている人たちは『自分と関わり合いのある人たちを不幸にすること』により、父神と母神を悲しませることになる。
そうやって、まわりまわって自分の人生を孤独に陥らせ、自分を困らせ、自分の人生を破壊していくことが最大の復讐になるのである。
また、この精神的なメカニズムは、アダルトチルドレンと同じような精神構造である。
そして、自分が抱えている罪を抱えきれないとき、人に押し付けては人の足引っ張りをし続けている人たちのなかにも「青年期」の魂の人たちもいる。そんな人たちは「あるとき、自分がすべて間違えていた」ということに気づくこともあり、その後、大人の魂に変容することもある。
私の場合、スクスクと真っ当に育った魂の子なので「父と母への反抗期」は、父と母を困らせる方向性へは向かわなかったが「お父ちゃん、大嫌い!」と「お母ちゃん、負担ばかりかけさせてきた!」という不満が抱えられた子でもある。
いわゆる、魂の中でも『手がかかる子』もいれば『手がかからない子』もいて、私の場合は「手がかからなかった分だけ、スクスクと育ったわけなんだが、抑圧が強すぎたおかげで反発もでた」わけである。
ただ、たいていそんなもんだと思っている。手がかかる子の場合、上記の通り、他人に迷惑をかけたりしてお父ちゃんやお母ちゃんの気を引こうとする子たちもいるから。
魂のなかに存在する悪魔たち
私たちの魂のなかには『悪魔』が潜んでいる。もちろん、それは全員に潜み、この悪魔をなんとか御すことができるようになったとき、私たちは大人へとなっていく。
しかし、この悪魔に乗っ取られた人生を送る人たちもいることは否めない。
七つの大罪の一覧表 大罪 美徳 悪魔 幻獣 傲慢 謙虚 ルシファー グリフォン 憤怒 忍耐 サタン ユニコーン/ドラゴン/オーガ 嫉妬 感謝
人徳リヴァイアサン 人魚 怠惰 勤勉 ベルフェゴール 不死鳥 強欲 慈善
寛容マモン ゴブリン 暴食 節制 ベルゼブブ ケルベロス 色欲 純潔 アスモデウス サキュバス
悪魔たちは私たちのなかに『自分の人生を狂わせる』という方向性へ向かわせる力がある。
この自分の人生を狂わせることが『父や母への復讐』でもあるため、悪魔とは「神への復讐心」をもとに成立している。神への復讐とは、自分の人生を狂わせていくことであり、自分の人生を生きることができないことにある。
単純にいえば、私たちはこの地球に生まれる神へ謀反を起こした堕天使であり、肉体を持ったとき『理性』によって堕天使を抑制することができるが、この理性のリミッターを外すのが『悪魔』であり、私たちの人生を狂わせる方向性へ向かうことになる。これがキリスト的な説明であるが、語弊があるような説明のような気がする。
私たちの魂の成長は『天使である意識を取り戻すこと』でもあるわけなんだが、私たちは『自分のなかに罪があることを認めること』でもある。そしてその罪を抑制することにより『天使である意識』を取り戻していく。
いわば、失楽園からの復楽園ってところではないだろうか。
もっと客観的に説明すると、魂は生まれた時点では天使かもしれないけれども地球に生まれた時点で堕天使になるけれど、自分が抱えている罪を認め、克服していくことにより『地球での学習は終わる』のと『魂の大人になる』ことができるということだ。
単純に「地球は地獄」でもあるんだが「地獄でしか学べないことがたくさんある」ともいえるんだが、それは魂自体が練られることであり、どのように練るのかといえば「自分のなかに存在する悪魔や鬼を克服すること」である。
そして、その克服は、
チャクラによる克服により終わらせていくことができる。
母神からの試験について
私たちはこの地球で『母神からの試験』を受けているようなものである。
母は「いかなることでも受け入れなさい」という話でもあるんだが、魂が子供のときは「母神がすべてのことを受け入れるよ」という状態にある段階から、私たちが大人になるときは「いかなることでも受け入れる魂になること」が望まれる。
それは『現実』にある。
私が、なぜか死にかけたりしていたのかっていうと『死をも受け入れろ』ってことである。
魂が大人になるということは、この地球における『事実無根たる現実』を受け入れ続けることにあり、その事実を受け入れることにより魂が大人へとなっていく。その事実を受け入れる段階が『青年期』の段階にあり、ツインレイの多くが事実を受け入れることが出来ずに、未だに幻想のなかに浸ってしまい、現実を直視できずにいるような状態になりやすい。
青年期の魂に求められていることは、母神に与えられた『現実』をどれだけ受け入れ、どれだけ認め、どれだけ愛するのか——ということだ。
それがいかに自分にとって不都合な結論であったとしても、私たちはその現実を受け入れることを求められる。
青年期の魂は常に「現実を直視しないと話が先に進まない」わけで、ツインレイへとずっとこだわり続けてしまうとき、私たちは「ツインレイのなかで受け止めきれていない現実が存在している」ということを考えていかなければならない。
そして、その現実と向き合うことが終わったあとに、私たちはツインレイの再会をするのかもしれない。
ツインレイにも何段階もステージがあるが、どの段階のツインレイだったとしても『現実と向き合う』が必須である。現実と向き合った人たちから「ツインレイと別れる」なり「ツインレイと離別する」という形へ着地していく。理由は、次に再び向き合わなければならない段階のツインレイらしき存在がいるからである。
向き合えていない現実があれば、その現実と向き合うために必要な人生が構成されている。そのたびに、現実にむせび泣く必要性がある。悲しみとはいつだって『現実』にあり、私たちは悲しむことで幻想から現実へと覚醒していくのである。
チャクラと父神と母神について
0チャクラを母神とし、8チャクラを父神とする。
私たちは8チャクラに存在している父から離れ、0チャクラに存在している母へと預けられる。母神は「いかなるものでも受け入れる」ために、この地球は未熟な魂がたくさんやってくる。
それは「罪を抱えている」と言葉にもできるが、そもそもこの地球では『母という女性性』を学びに来ているため、罪が必要なのである。
また、父から離れ、母へ預けられることになるが、父は断絶状態になるため「私たちは神を知らない」し「私たちは父を知らない」わけである。父という神を知りはしないけれども「父から生まれた魂」であるがため、神は畏怖する存在であり、神を偉大なるものだと認識するわけである。
そのくせ「母」が何をしているのかはようようしらんわけである。理由はひとつ。母と共依存状態にあるためだ。
母は常に「私たちの罪を受け入れている」わけで、母は「私たちがいかなる存在であろうが受け入れている」のである。
受け入れてくれている存在を私たちは気づきもせずに、常に、受け入れてもらえていないとか承認欲求に悶えたりする。
自分を受け入れてもらうために常に奮闘するわけなんだが、当に母神は常に受け入れてくれている。そして受け入れてもらえていないとか誤解している魂をも受け入れている。
その偉大さに気づいていくには、私たちも『誰かの親になる』必要性がある。親になって母性や父性を学習し、そのときようやく「父神と母神の気持ち」を理解していくようにもなっていく。それもまたひとつの人生としてあるのかもしれない。
魂として、母へ共依存している状態から『自立』していくことは「悪魔を自分でなんとかできるよ!」にならなければならない。
自分で悪魔を御すことができないのであれば、それは母から自立することはできない。つまり『悪魔こそが母』ともいえるし『罪こそが母』ともいえる。
母とは欲求を満たしてくれる存在でもあるが、母が与えてくれる欲求に満たされるのではなく、母に満たされる欲求に抗うことが私たちが持つ『自立』にあたる。
そして、母神のように「人の欲求を満たすこと」が『大人』なのである。
これが0チャクラへと繋がっていくことにあり、0チャクラへと繋がることは『存在感』をもたらしていく。自分の欲求を満たしてくれる人は存在感が増すのである。
また、父神のように道しるべとなってくれる存在も『存在感』を与えられる。
子供にとってやっぱり大人って大きく見えるんだ。それが存在感なのである。
私としての学習『導くこと』と『与えること』
私自身が父神から学んだことは『導くこと』なのかもしれないんだが、私が思うにこれは『共感性』なのではないかと思っている。
導こうとしても私は誰かを導けたことはない。だけど、お父ちゃんのなかにいたとき、お父ちゃんは「目の前にいる人と同じように感じていた」ことを思い出した。だから、誰かを導くことは共感することなのだと思う。同じように、同じだけの心を感じることにある。
その心こそがお父ちゃんの導き方だったように思うんだ。
そして、お母ちゃんの課題を今こなしているけれども。こちらは、ずっと「自分の欲求を満たすのとは真逆に舵をきる」ようなことをし続けることにより、自分のなかに存在する悪魔を御すように向かわせる。
これは「誰かに何かを与えるとき、どうしても苦しみが生まれる」ことを自己犠牲のように感じられるが、それこそが母神のしていることであり、またそれは『犠牲』なんてものじゃなくて「与えているだけ」なのだと思う。
与えることは犠牲ではないのである。犠牲ではないんだけども、自分には何もないって思っているからこそ、与えられないのである。それこそ私たちは常に持っているのである。持っているものを与えればいいのに、私たちは自分ばかりが良い思いをしたかった理、自分だけの安全を第一の優先に考えているからこそ、犠牲と考え、与えることができないのである。
ずっと自己犠牲をし続けるような人生だったと思ったんだが、私はずっと「母神の真似」をしていたんだなと思った。だから私はずっと「人に与えていた」んだと思う。
犠牲だと感じるのは、それこそ「悪魔の視点」なんだなと思う。悪魔がいるから自己犠牲と考えられる(自分を生贄にする)けど、与えると言う視点を持ち得たとき、やっぱり私は自分の人生は何も間違えていなかったんだなと思えるんだ。
それから、与えて感謝されないのは当たり前でもある。ずっと自己犠牲し続けているなか「感謝されることへの違和感」を覚えるようにもなっていた。当たり前のことをしていてなんで感謝されるのかがよくわからない感じ。
そして一番最後には「手出し口出しは無用」に至った。大事なのは「相手がちゃんと生きていけることを信じる」ことなのだ、と。
手出し口出しをするってことは「相手は何もできない乳飲み子」だと思って見下しているようなものだなと思い、それからは自己犠牲もせず、ただ単に無自覚にやってしまう奉仕をし続けていたようなものだった。
この経緯そのものも「母神の真似をしながら与えるとは何か?」の勉強をしていたように思うんだ。